吾 紳(ご しん、1383年 - 1441年)は、明代の官僚。字は叔縉。本貫は衢州開化県。
生涯
1404年(永楽2年)、進士に及第した。翰林院庶吉士に任じられた。段民・章敞らとともに文淵閣に入り、『永楽大典』の編纂事業に参加した。1411年(永楽9年)、刑部主事に任じられ、刑罰の審理で名声があった。1418年(永楽16年)、刑部郎中に進んだ。1419年(永楽17年)、礼部右侍郎に抜擢され、礼部尚書の呂震を補佐した。1420年(永楽18年)、広東右参議に左遷された[1]。1426年(宣徳元年)、召還されて南京刑部侍郎となり[2]、命を受けて両広・福建方面の官を考査した。1429年(宣徳4年)、再び礼部右侍郎に任じられた。1430年(宣徳5年)、南京礼部右侍郎として出向した[3]。ほどなく母が死去したため、吾紳は辞職して喪に服した。1434年(宣徳9年)、官に復帰して南京刑部右侍郎に転じた[4]。1440年(正統5年)、礼部右侍郎に任じられた[5]。1441年(正統6年)8月乙酉、在官のまま死去した[6]。享年は59。
脚注
- ^ 談遷『国榷』巻17
- ^ 王世貞『弇山堂別集』巻58
- ^ 『弇山堂別集』巻56
- ^ 『国榷』巻22
- ^ 『国榷』巻24
- ^ 『国榷』巻25
参考文献