『刑事物語』(けいじものがたり)は、1982年から1987年までに全5作が公開された日本映画のシリーズ。原作、脚本(第4作を除く)、主演に武田鉄矢(ただし原作と脚本はペンネームである片山蒼名義)。キネマ旬報社が製作し、東宝が配給した。キネマ旬報社は初の映画製作にあたって、同誌や同誌ベストテンから連想される作家性の強い芸術映画ではなく、あえて往年の邦画全盛期に数多くみられたシリーズ・プログラムピクチャーの復活を狙い、監督も東映や松竹でその分野で定評のあった渡邊祐介を起用。興行的に一定の成果を収めた。
一般には、武田が演じる片山刑事がハンガーをヌンチャクのように振るって相手を叩きのめす「ハンガーヌンチャク」と呼ばれるシーンが有名である[1][2]。これはできるようになるまで数か月の練習を要したという。また武田が劇中で操る蟷螂拳は、第1シリーズ撮影前に松田隆智から習ったものである[1]。
シリーズ全編に使われた主題歌『唇をかみしめて』は、吉田拓郎の代表曲としても知られる[3][4][5]。
武田鉄矢の演じる片山刑事が主人公である。長髪・胴長短足にくたびれたジャケットと膝の抜けたズボンで、一見刑事には見えないが拳法「蟷螂拳」の達人である。普段は冴えないが、正義感に溢れており一旦暴れ始めるとやり過ぎてしまい、それが原因で左遷となり日本各地を異動することになる。毎回、赴任先で美しいマドンナに恋をし助けるのだが、最後には失恋して、一人淋しくその土地を去ってゆく物語である[1]。
なお、現実的には、地方公務員である現場の警察官が、都道府県の枠を越えて異動するということは在り得ない[6][注 1]。
元々、武田はアクション映画が好きで、ジャッキー・チェンの『ドランクモンキー 酔拳』(1978年)を観て大きなショックを受け、何度も繰り返し観て研究し、こんな低予算でいきいきした映画を作ってみたいと考え、当時「金八先生」で当てていたが、逆にメッタンコに人を殴る刑事をやってやろうと本作を創作した[2][7]。30歳ぐらいで「先生、先生」と呼ばれるのが辛く、「金八と対極の方向へ走りたい、金八がやってないことは…アクションだ!」と思い付いたという[2]。最初は極真会館の三瓶啓二の掌が拳になるファイティングポーズが好きで、巡り合ったのが蟷螂拳だったという[2]。アクションにハンガーを取り入れたきっかけは、有名な『3年B組金八先生2』の「腐ったミカンの方程式」の回の撮影の際、直江喜一の撮影に時間がかかり、ロケ車でずっと一人で待たされ、「あの野郎、主役の俺を待たせやがって!」などとハラを立て、あまりに暇で、ふと後ろを向いたら衣装用のハンガーがあり、ハンガーを回しているうち、「これ何か発展できないかな」と思ったのがきっかけ[2]。
当時はジャッキー・チェン人気により"第二次クンフー映画ブーム"で[1]、真田広之主演のアクション映画が作られていたとはいえ[1]、70年代半ばに千葉真一や志穂美悦子らを主演に立てて、東映がカラテ映画を大量生産した"第一次ブーム"のような大きな動きはなかった[1]。このため当時は金八先生という当たり役で名声を得た武田が何もクンフーをやる必要はないんじゃないの?という感覚だった[1]。内容も当時の小学生にはハード過ぎ、金八先生イメージを持っていた子供たちには「武田鉄矢をナメてはいけない…あの人は僕らの知らないダーティな一面を持っている」という感想を持った[1][6]。「ハンガーヌンチャク」は真似るのが難しく、ガキの間では「武田鉄矢最強説」も飛び交った[1]。間違って武田に興味を持った子供は1983年に出版された武田の著書『ふられ虫の唄』を読んでさらにビックリ仰天[1]。坂本龍馬の墓を高知に初めて訪ねた際、感極まり墓石を剥がして龍馬の遺骨を盗もうとしたが、墓の後ろでカップルがペッティングを始めたことにより墓荒らしは未遂に終わったというエピソードが書かれている[1][2]。もしこのとき遺骨を盗んでいたら、後に数々の作品で龍馬を演じることも先生役をすることもなかった[1]。ギンティ小林は「回を増すごとに、クンフー&お笑い要素が増えていくが、80年代に多感な時期を過ごした男子たちにとって『刑事物語』は『男はつらいよ』『トラック野郎』に並ぶ必修科目映画」と評している[1]。
『週刊平凡』1984年7月20日号「五ツ星採点表」、白井佳夫「ローカルな風景美と鉄矢の魅力で娯楽映画を作ろうというのはいいが、作り方が貧しくてクドイ(4点/10点満点)」、藤枝勉「パート3までいくような企画ではない。シナリオと俳優・武田鉄矢に倍の魅力がないともたない(4点/10点満点)」、渡辺祥子「シンデレラ娘(星由里子)も20年たつとりっぱなオバサンになるんだなァ、とため息が出てくるのです(5点/10点満点)」[15]。
武田鉄矢は『週刊宝石』1992年7月9日号のインタビューで「30代でいろいろ映画やったけど、叩かれてばかりでね。36のとき『刑事物語』のパート5を撮ったんです。批評はクソミソだった。お書きになってる人は、本人は読んでないと思って書いてるでしょうけどね。山田洋次さんは『そんなの見ないでいい』と言って下さったけど、オレ悟りきってない凡人だから見ちゃったんですよ。すると『上昇志向の塊り』『画面に匂う田舎者の香り』『このタバコ屋の小倅』みたいな書かれ方をされてる。人間批判よね。でもそんなに自惚れてないですよ。オレの顔を見ただけでチャンネルを変える人もいるだろうし、オレ自身だって自分の顔立ちが好きじゃない。あれはこたえたな。もう映画やめようかなと思ってね。いいことなんか何にもないんだもん。なんだかすごくオチ込んじゃってね。それまで、オレの情熱はナンバーワンだ、ぐらいに燃えて生きてたから、よけいね。ガクーンときて、あらゆることが虚しくなっちゃって。掛かりつけの医者に診てもらったら、軽度の鬱と言われたんです。中小企業の社長に多いんだって。ものすごく不安だったんだけど『よくある病気ですよ』と言われたら、『ただの病気だったのか』ってホッとしたよね(笑)。批評は別にいいんですよ。そんなことグチグチ言ってんじゃない。ただ痛いということだけはお伝えしとこうかなと思ってね。数年経って家族揃ってテレビで『刑事物語』を観たんですけど、確かにやり過ぎとかいろいろあるけど、ハッキリ言って面白いんですよ。一生懸命にやってるのが分かるの。もう悲しいくらいに。オレ間違ってなかったんだと思ったんです。何と言われても懸命にやってるあの一途さだけは失うまいと思ったんです」などと述べている[16]。
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