ウディ・アレン (Woody Allen、本名:アラン・スチュアート・コニグズバーグ (Allan Stewart Konigsberg [ 1] )、1935年 12月1日 [ 注釈 1] - )は、アメリカ合衆国 の映画監督 、俳優 、脚本家 、小説家 、クラリネット 奏者である。日本語では「ウッディ・アレン 」と表記される場合もある。
アカデミー賞 に史上最多の24回ノミネートされ、監督賞 を1度、脚本賞 を3度受賞している。
経歴
少年時代
ニューヨーク のブロンクス区 で、ロシア=オーストリア系ユダヤ人 の家庭に生まれる[ 3] 。父親のマーティン・コニグズバーグ(Martin Konigsberg, 1900年 12月25日 - 2001年 1月13日 )と母親のネティー(Netty Cherrie Konigsberg, 1908年 - 2002年 1月)はアレンが生まれてから妹のレッティ (Letty, 1943年 - )が生まれる直前まで、ブルックリン を中心に10数回も引越しを繰り返していた。その間、母親の姉妹や、ドイツ におけるナチス の迫害から逃れてきた親類との賑やかな共同生活と、素性の知れない、時に凶悪な面を見せるベビーシッター との生活を余儀なくされた。
ゆえにアレンの幼年期は主に女性に囲まれた精神的かつ言語的に混沌としたものだった。また、母親は時々アレンに対して激しい(時には手も出る)叱責を行った。妹のレッティに対しては、はるかに穏やかな扱いだったので、アレンは「大事にされている、愛されている」という感情が持てなくなった。ひねくれた少年の行く先は現実逃避で、アレンはコミックや映画、ジャズ に傾倒するようになっていった。
コニグズバーグ家は正統的なユダヤ教 徒だったので、ユダヤ教の様々な儀式を行い、アレンもまた、8年間ヘブライ語学校に通うことになった[ 4] 。これは彼の宗教嫌いに拍車を掛ける結果になった。パブリックスクール 卒業後、1949年 にミッドウッド・ハイスクールに入学。生まれつきの赤髪のせいでニックネームは「Red」。アレンはカード・マジックに熱中した。
16歳の時に、アレンはマジシャンとして初舞台を踏むが、すぐにマジシャンとしての自分に見切りをつける。同級生の前でマジックを披露しているうちに、「面白いやつ」という評判が立ち[ 5] 、アレンは徐々にコメディに傾倒し、その道を志望するようになっていった。アレンと同級生のミッキー・ローズはジョージ・S・カウフマン 好きということで意気投合し、後にアレンの初期の映画で共同で脚本を書いている。
ギャグ・ライター
1952年 、ハイスクール在学中に、アレンはPRの仕事をしている従兄や『ニューヨーク・デイリー・ミラー 』、『ニューヨーク・ポスト 』などにいわゆる「ハガキ職人 」としてギャグ を送り始めた。この頃から、筆名として「ウディ・アレン」(ごく短期間「ヘイウッド・アレン」とも)を名乗り始めた。数々のギャグはコラムニストの手によって誌上で紹介され人気を博した。
これが芸能エージェントのデヴィッド・O・アルバーの目にとまり、アレンはアルバーのもとで「ウディ・アレン」として臨時雇いのギャグ・ライターという道を歩むことになった[ 6] 。
コメディアンとして
1953年 、アレンはニューヨーク大学 教養学部に入学した。映画製作を専攻し、英文学 とスペイン語 を中心に学んだが、授業の大半をさぼり、試験は一夜漬け、レポートはコメディ風といった調子で、結局中退してしまった[ 7] 。ニューヨーク市立大学シティカレッジ 映画科に入り直したものの、さぼり癖はおさまらず、またもや中退。母親のネティーは最初こそ絶望したものの、ギャグ・ライターとしてなんとかならないものかと考えるようになり、親戚のエイブ・バロウズ という最強のコネを使って後押しした。バロウズはアレンの才能を高く買い、シド・シーザー やピーター・リンド・ヘイズ などのテレビ司会者を紹介するとともに、アレンにギャグ・ライターだけではなく、シリアスな芝居とコメディ を両立させることの必要性を説いた。
1955年 、同級生の兄ハーヴィ・メルツァーとマネージメント契約を結び、この有能なマネージャーの強烈な推薦で、NBC の放送作家養成プログラムに参加し、アレンはギャグ・ライターと放送作家 を並行して行うことになった。シド・シーザーのグループで、ダニー・サイモン やメル・ブルックス 、ラリー・ゲルバード らとともに働いた。1958年 、アレンとゲルバードは、シド・シーザーの特別番組でシルヴァニア賞 を受賞し、同作品はエミー賞 にもノミネートされた。『パット・ブーン・ショー』で再びエミー賞にノミネートされ、放送作家としての地位を確固たるものにした。なおこの時期ともに放送作家として名を連ねていた顔ぶれにはメル・ブルックスらもいた。しかし、アレンは放送作家という仕事に興味を持てなくなる一方で、仕事の依頼が続々舞い込み続けた事からうつ病 を患う様になり、1959年 から精神科への通院を始めた。
『パット・ブーン・ショー』が打ち切られた1960年 から、アレンはスタンダップ・コメディアン として活動を始めた。『ブルー・エンジェル』での初舞台は散々な評価に終わったが、舞台を重ねるうちに腕をメキメキと上げて、人気を集めていった。1962年 8月には、『ニューズウィーク 』誌がアレンを「シェリー・バーマン 、モート・サール 、レニー・ブルース に次いで現れたコメディアンの中で最も革新的」と評価し、1963年 2月には『ニューヨーク・タイムズ 』誌が同様の舞台評を書くまでになった。評判を聞き、映画界からのオファーが飛び込み、アレンはその世界へと身を投じた。
なおそれまで放送作家としての活動は60年代初頭まで続けていたが、1960年、アート・カーニー主演の『愛のために万歳』、1962年のアラン・アルダ主演『ラフメーカーズ』といったテレビ映画で本格的に脚本家としてのキャリアをスタートさせている。
映画監督・俳優として
1965年 の『何かいいことないか子猫チャン』で脚本兼俳優として映画デビューした。
ニューヨーク
生まれ育ったニューヨーク、特にマンハッタン 周辺を舞台に多く選んでいる。その文化や暮らし、人々の精神性をテーマにすることが多く、しかもそこに住むユダヤ人のそれを主題とする。ユダヤ人であることの差別とそこから来るコンプレックス や、自己意識などを織り込んだコメディを得意とする。演じる際には自らをカリカチュアライズ したようなユダヤ系の神経質なインテリ を演じることが多い。
ハリウッド
またアレンは、ハリウッド に背を向けた映画人でもある。『アニー・ホール』(1977年)で、アカデミー監督賞、作品賞を受賞した時も、授賞式には出席しなかった。アレンが唯一アカデミー賞の授賞式に姿を現したのは、2002年 の授賞式で前年9月11日 に発生したアメリカ同時多発テロ事件 の犠牲者に捧げるオマージュとしての企画で、特別プログラムとしてニューヨークを舞台にした作品集の紹介を依頼されたときである。プロデューサーの意向を汲んで出演したアレンはアナウンスなしに登場し、観客の拍手喝采を浴びた。しかし、式が終わるとただちにニューヨークに戻ってしまった。
先進国
フランス や日本 、イギリス などの先進国 を中心とした国外においても高い評価を受けており、特にカンヌ国際映画祭 では自身の作品が計44回も上映されている。また、一部の作品を除いてアメリカ国内における興行成績は決して高くはなく、『さよなら、さよならハリウッド』などアメリカ国内より国外での興行成績が高い作品もある。アレン自身もそのことを皮肉った発言を行っている。更に、2000年代後半からはヨーロッパ の各国で作品を撮ることが多くなっている。
小説家として
1960年代 の後半から1970年代 にかけて、アメリカの文芸誌である『ニューヨーカー』誌を中心に短篇小説を書いている。そのうちいくつかの作品は映画化された。"The Kugelmass Episode"で1978年にオー・ヘンリー賞 を受賞。
クラリネット奏者として
幼年期のラジオ体験からジャズに傾倒した。最初の妻ハーリーンとはナイトクラブで知り合い、即興演奏 (ハーリーンがピアノ、ウディがクラリネット)をすることもしばしばであった。映画監督として大成してからは、テレビショーやミュージック・フェスティバルで吹くことも多い。ニューヨークの最高級ホテル「カーライル」内の「マイケルズ・パブ」のレギュラーバンド「Woody Allen and his New Orleans Jazz Band」の一員として毎週月曜日の夕方にクラリネットを吹くという習慣を数十年続けている。アカデミー賞の授賞式の日も、いつも通りクラリネットを吹いていた。
ドキュメンタリー映画『ワイルド・マン・ブルース』(1998年、監督バーバラ・コップル )では、ニューオーリンズ・ジャズ・バンドを率いてのアレンのヨーロッパ・ツアーの模様が描かれている。また自作の映画の中ではジャズをBGMとして多用することが多い。
家族
舞台『Play It Again, Sam 』で共演し、のちに映画でも共演したダイアン・キートン と交際していたが、長く続かず破綻。
ヴェネツィアにて、スン=イーとともに
その後、フランク・シナトラ とアンドレ・プレヴィン の元妻のミア・ファロー と交際するようになったが、彼女の養子のスン・イー (当時21歳)との肉体関係が発覚しファローと訴訟になった。肉体関係が始まったのは、スン・イーの高校時代。ウディ・アレンは当時彼女のヌード写真を個人的に撮影しており、それをファローが発見している。その事実が明らかになった当時ウディ・アレンは、ファローに度重なる謝罪をした。後にウディとスン・イーはその後結婚し、女の子二人を養子に取っている[ 8] 。
元交際相手のキートンとは『マンハッタン殺人ミステリー 』(1993年)で共演しているが、これは本来ファローの役として話を書いたところを、私生活のごたごたの関係でキートンに代わってもらった、とアレンは語っている[ 9] 。
性的虐待の疑惑
養女ディランへの性的虐待を告発されたのは1992年だった[ 10] 。ディランによれば、当時7歳の1992年8月4日に「ウディに屋根裏部屋に誘われ、腹ばいになっておもちゃで遊ぶように言われ、近くに腰を下ろしたウディに指で陰部を触られた」と主張している[ 11] 。
これに対してウディは「親権訴訟で有利になるためにファロー側がでっち上げたもの」として、虐待行為を一貫して否定している[ 12] 。1994年の親権裁判では、虐待疑惑についての証拠が決定的でないとの判断が下され、コネティカット州警察の捜査でも訴追に至ることはなかった[ 13] 。
事件の余波
ハーヴェイ・ワインスタイン のセクハラ暴露をきっかけに起きた「#MeToo」運動でハリウッドから干されていたウディ・アレンが、沈黙を破って自伝の出版を発表すると、実の息子であるローナン・ファロー が反発。ローナンは、ハーベイ・ワインスタインのセクハラを暴く『New Yorker』の記事を執筆し、ピュリツァー賞 を受賞した「#MeToo」のリーダー的存在であり、「#MeToo」が盛り上がる中、世間は、圧倒的にローナンの側に立った。ウディ・アレンの『女と男の観覧車 』は、それだけが理由かどうかは不明ながら、アメリカで大コケ。
次に控えていた映画『レイニーデイ・イン・ニューヨーク 』に出演したグリフィン・ニューマン は本作に出演したことを後悔し、今後一切アレンと仕事をしないとの声明を発表、本作のギャラ全額を寄付した。2018年1月、レベッカ・ホール も本作への出演の後悔と今後一切のアレンとの仕事を拒否する声明を発表し、本作のギャラ全額を寄付した。同月、ティモシー・シャラメ はアレンへの批判は避けたものの、本作への出演で報酬を得ることを望まない意向を発表し、本作のギャラ全額を寄付。のちにセレーナ・ゴメス は、本作での出演料を100万ドルほど上回る額を寄付した。2018年3月、エル・ファニング も本作への出演を後悔する声明を発表し、出演料は具体的に明らかにはなっていないが、寄付をしたことを明らかにした。
アマゾン・スタジオ は批判を受けて本作のアメリカでの上映を無期限延期を決定し、アレンとの4本の映画製作の契約をキャンセルした。アレンはこれを不服として、2018年2月に同スタジオを契約不履行で訴え、6800万ドルの訴訟で和解。映画はアメリカ以外では劇場公開された。
主な出演、監督、脚本作品
受賞歴
映画賞
※本来はプロデューサーが受取人である作品賞の受賞・ノミネートも含む。
賞
年
部門
作品
結果
フォトグラマス・デ・プラータ
1973年
外国俳優賞
『ボギー!俺も男だ 』
受賞
1985年
外国語映画賞
『カイロの紫のバラ 』
受賞
ベルリン国際映画祭
1975年
芸術貢献賞
『ウディ・アレンの愛と死 』
受賞
アカデミー賞
1977年
作品賞
『アニー・ホール 』
受賞
監督賞
受賞
主演男優賞
ノミネート
脚本賞
受賞
1978年
監督賞
『インテリア 』
ノミネート
脚本賞
ノミネート
1979年
脚本賞
『マンハッタン 』
ノミネート
1984年
監督賞
『ブロードウェイのダニー・ローズ 』
ノミネート
脚本賞
ノミネート
1985年
脚本賞
『カイロの紫のバラ』
ノミネート
1986年
作品賞
『ハンナとその姉妹 』
ノミネート
監督賞
ノミネート
脚本賞
受賞
1987年
脚本賞
『ラジオ・デイズ 』
ノミネート
1989年
監督賞
『ウディ・アレンの重罪と軽罪 』
ノミネート
脚本賞
ノミネート
1990年
脚本賞
『アリス 』
ノミネート
1992年
脚本賞
『夫たち、妻たち 』
ノミネート
1994年
監督賞
『ブロードウェイと銃弾 』
ノミネート
脚本賞
ノミネート
1995年
脚本賞
『誘惑のアフロディーテ 』
ノミネート
1997年
脚本賞
『地球は女で回ってる 』
ノミネート
2005年
脚本賞
『マッチポイント 』
ノミネート
2011年
作品賞
『ミッドナイト・イン・パリ 』
ノミネート
監督賞
ノミネート
脚本賞
受賞
2013年
脚本賞
『ブルージャスミン 』
ノミネート
ゴールデングローブ賞
1977年
作品賞 (ミュージカル・コメディ部門)
『アニー・ホール』
ノミネート
監督賞
ノミネート
主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)
ノミネート
脚本賞
ノミネート
1978年
監督賞
『インテリア』
ノミネート
脚本賞
ノミネート
1979年
作品賞 (ドラマ部門)
『マンハッタン』
ノミネート
1983年
作品賞 (ミュージカル・コメディ部門)
『カメレオンマン』
ノミネート
主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)
ノミネート
1985年
作品賞 (ミュージカル・コメディ部門)
『カイロの紫のバラ』
ノミネート
脚本賞
受賞
1986年
作品賞 (ミュージカル・コメディ部門)
『ハンナとその姉妹』
受賞
監督賞
ノミネート
脚本賞
ノミネート
1989年
作品賞 (ドラマ部門)
『ウディ・アレンの重罪と軽罪』
ノミネート
1996年
作品賞 (ミュージカル・コメディ部門)
『世界中がアイ・ラヴ・ユー 』
ノミネート
2005年
作品賞 (ドラマ部門)
『マッチポイント』
ノミネート
監督賞
ノミネート
脚本賞
ノミネート
2008年
作品賞 (ミュージカル・コメディ部門)
『それでも恋するバルセロナ 』
受賞
2011年
作品賞 (ミュージカル・コメディ部門)
『ミッドナイト・イン・パリ』
ノミネート
監督賞
ノミネート
脚本賞
受賞
2013年
セシル・B・デミル賞
-
受賞
英国アカデミー賞
1977年
作品賞
『アニー・ホール』
受賞
監督賞
受賞
主演男優賞
ノミネート
脚本賞
受賞
1979年
作品賞
『マンハッタン』
受賞
監督賞
ノミネート
主演男優賞
ノミネート
脚本賞
受賞
1983年
オリジナル脚本賞
『カメレオンマン 』
ノミネート
1984年
オリジナル脚本賞
『ブロードウェイのダニー・ローズ』
受賞
1985年
作品賞
『カイロの紫のバラ』
受賞
オリジナル脚本賞
受賞
1986年
作品賞
『ハンナとその姉妹』
ノミネート
監督賞
受賞
主演男優賞
ノミネート
オリジナル脚本賞
受賞
1987年
作品賞
『ラジオ・デイズ』
ノミネート
オリジナル脚本賞
ノミネート
1989年
作品賞
『ウディ・アレンの重罪と軽罪』
ノミネート
監督賞
ノミネート
オリジナル脚本賞
ノミネート
1992年
オリジナル脚本賞
『夫たち、妻たち』
受賞
1995年
オリジナル脚本賞
『ブロードウェイと銃弾』
ノミネート
1996年
フェローシップ賞
-
受賞
2011年
オリジナル脚本賞
『ミッドナイト・イン・パリ』
ノミネート
2013年
オリジナル脚本賞
『ブルージャスミン』
ノミネート
全米監督協会賞
1977年
長編映画監督賞
『アニー・ホール』
受賞
1979年
長編映画監督賞
『マンハッタン』
ノミネート
1986年
長編映画監督賞
『ハンナとその姉妹』
ノミネート
1989年
長編映画監督賞
『ウディ・アレンの重罪と軽罪』
ノミネート
1995年
D・W・グリフィス賞
-
受賞
2011年
長編映画監督賞
『ミッドナイト・イン・パリ』
ノミネート
全米映画批評家協会賞
1977年
作品賞
『アニー・ホール』
受賞
監督賞
3位
脚本賞
受賞
1978年
脚本賞
『インテリア』
5位
1979年
作品賞
『マンハッタン』
3位
監督賞
受賞
脚本賞
2位
1985年
作品賞
『カイロの紫のバラ』
2位
脚本賞
2位
1986年
作品賞
『ハンナとその姉妹』
2位
脚本賞
2位
2011年
脚本賞
『ミッドナイト・イン・パリ』
3位
ニューヨーク映画批評家協会賞
1977年
作品賞
『アニー・ホール』
受賞
監督賞
受賞
脚本賞
受賞
1979年
作品賞
『マンハッタン』
次点
監督賞
受賞
脚本賞
次点
1985年
作品賞
『カイロの紫のバラ』
次点
脚本賞
受賞
1986年
作品賞
『ハンナとその姉妹』
受賞
監督賞
受賞
脚本賞
次点
ロサンゼルス映画批評家協会賞
1977年
脚本賞
『アニー・ホール』
受賞
1978年
監督賞
『インテリア』
次点
脚本賞
次点
1986年
作品賞
『ハンナとその姉妹』
受賞
監督賞
次点
脚本賞
受賞
カンザスシティ映画批評家協会賞
1977年
作品賞
『アニー・ホール』
受賞
監督賞
受賞
1978年
作品賞
『インテリア』
受賞
監督賞
受賞
セザール賞
1978年
外国映画賞
『アニー・ホール』
ノミネート
1980年
外国映画賞
『マンハッタン』
受賞
1986年
外国映画賞
『カイロの紫のバラ』
受賞
1987年
外国映画賞
『ハンナとその姉妹』
ノミネート
1992年
外国映画賞
『アリス』
ノミネート
1993年
外国映画賞
『夫たち、妻たち』
ノミネート
1994年
外国映画賞
『マンハッタン殺人ミステリー 』
ノミネート
1998年
外国映画賞
『世界中がアイ・ラヴ・ユー』
ノミネート
2006年
外国映画賞
『マッチポイント』
ノミネート
2014年
外国映画賞
『ブルージャスミン』
ノミネート
ボディル賞
1978年
アメリカ映画賞
『アニー・ホール』
受賞
1980年
アメリカ映画賞
『マンハッタン』
受賞
1984年
アメリカ映画賞
『カメレオンマン』
受賞
1986年
アメリカ映画賞
『カイロの紫のバラ』
受賞
1987年
アメリカ映画賞
『ハンナとその姉妹』
受賞
ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞
1979年
作品賞
『マンハッタン』
受賞
1986年
監督賞
『ハンナとその姉妹』
受賞
ナストロ・ダルジェント賞
1980年
外国監督賞
『マンハッタン』
受賞
ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞
1984年
外国映画賞 (イタリア語版 )
『カメレオンマン』
ノミネート
外国監督賞 (イタリア語版 )
ノミネート
外国男優賞 (イタリア語版 )
受賞
1985年
外国脚本賞 (イタリア語版 )
『ブロードウェイのダニー・ローズ』
受賞
1987年
外国脚本賞
『ハンナとその姉妹』
受賞
1989年
外国監督賞
『私の中のもうひとりの私 』
ノミネート
1990年
外国映画賞
『ウディ・アレンの重罪と軽罪』
ノミネート
外国監督賞
ノミネート
外国男優賞
ノミネート
外国脚本賞
受賞
1992年
外国映画賞
『ウディ・アレンの影と霧 』
ノミネート
外国男優賞
ノミネート
1996年
外国映画賞
『誘惑のアフロディーテ』
ノミネート
外国男優賞
ノミネート
2006年
EU映画賞 (イタリア語版 )
『マッチポイント』
受賞
2014年
外国映画賞
『ブルージャスミン』
ノミネート
カンヌ国際映画祭
1985年
国際映画批評家連盟賞
『カイロの紫のバラ』
受賞
2002年
パルム・ドール・ドヌール
-
受賞
ボストン映画批評家協会賞
1985年
脚本賞
『カイロの紫のバラ』
受賞
1986年
脚本賞
『ハンナとその姉妹』
受賞
ロンドン映画批評家協会賞
1985年
作品賞
『カイロの紫のバラ』
受賞
1986年
脚本賞
『ハンナとその姉妹』
受賞
1990年
作品賞
『ウディ・アレンの重罪と軽罪』
受賞
監督賞
受賞
脚本賞
受賞
1997年
特別賞
-
受賞
フランス映画批評家協会賞
1985年
外国語映画賞
『カイロの紫のバラ』
受賞
1986年
外国語映画賞
『ハンナとその姉妹』
受賞
ヴェネツィア国際映画祭
1995年
栄誉金獅子賞
-
受賞
サン・セバスティアン国際映画祭
2004年
ドノスティア賞
-
受賞
ゴヤ賞
2005年
ヨーロッパ映画賞
『マッチポイント』
受賞
インディペンデント・スピリット賞
2008年
脚本賞
『それでも恋するバルセロナ』
受賞
放送映画批評家協会賞
2011年
脚本賞
『ミッドナイト・イン・パリ』
受賞
オンライン映画批評家協会賞
2011年
オリジナル脚本賞
『ミッドナイト・イン・パリ』
受賞
サンディエゴ映画批評家協会賞
2011年
オリジナル脚本賞
『ミッドナイト・イン・パリ』
受賞
サウスイースタン映画批評家協会賞
2011年
オリジナル脚本賞
『ミッドナイト・イン・パリ』
受賞
その他
1978年 オー・ヘンリー賞 『クーゲルマスのお話 The Kugelmass Episode』(1977年5月2日に『ニューヨーカー』誌に掲載された短編小説)
2002年 アストゥリアス皇太子賞 、その後スペイン のオビエド にアレンの等身像が建立
2005年 「fellow comedians and comedy insiders」から「歴代3番目に偉大なコメディ作成者」として選出
作品書籍
Don't drink the water: A comedy in two acts (1967年)
Play It Again, Sam (1969年)
これでおあいこ Getting Even (1971年)
God: A comedy in one act (1975年)
羽根むしられて Without Feathers (1975年)
ぼくの副作用 Side Effects (1980年)
Lunatic's tale (1986年)
Complete Prose of Woody Allen (1992年)
ウディ・アレンの浮気を終わらせる3つの方法 Three One-Act Plays (2003年)
Writer's Block: Two One-Act Plays (2005年)
A Second Hand Memory: A Drama in Two Acts (2005年)
ただひたすらのアナーキー Mere Anarchy (2007年)
著作(日本語訳)
これでおあいこ ウディ・アレン短篇集(伊藤典夫 ・浅倉久志 訳、CBSソニー出版 、1981年/河出文庫 、1992年)
羽根むしられて ウディ・アレン短篇集(伊藤典夫・堤雅久 訳、CBSソニー 出版、1981年/河出文庫、1992年)
ぼくの副作用 ウディ・アレン短篇集(堤雅久・芹沢のえ訳、CBSソニー出版、1981年)
ウディ・アレンの浮気を終わらせる3つの方法(井上一馬 訳、白水社、2005年)
ウディ・アレンの漂う電球(鈴木小百合 訳、白水社 、2006年)
ただひたすらのアナーキー(井上一馬訳、河出書房新社 、2008年)
ウディ・アレンの映画術(エリック・ラックスと共著、井上一馬訳、清流出版 、2010年)
参考・関連文献、映像
ウディ・アレン バイオグラフィー(ジョン・バクスター著、田栗美奈子訳、作品社 、2002年)
ウディ・オン・アレン 全自作を語る(ウディ・アレン、スティーブ・ビョークマン共著、大森さわこ訳、キネマ旬報社 、1995年)
ウディ・アレン 映画の中の人生(リチャード・シッケル著、都筑はじめ訳、エスクァイア マガジン ジャパン、2007年)
ウディ・アレンのすべて(井上一馬著、河出書房新社、1997年)
映画と恋とウディ・アレン(ロバート・B・ウィード監督、2013年)-ドキュメンタリー映画
ウディ・アレン 完全ヴィジュアルガイド(ジェイソン・ベイリー著、スペースシャワーネットワーク、2017年)
ウディ(デイヴィッド・エヴァニアー著、キネマ旬報社、2017年)
注釈
^ 公式な誕生日は12月1日であるが、実際の誕生日は11月30日とされる[ 2] 。
出典
^ Lax, Eric (1991年). “Woody Allen: A Biography ”. Woody Allen: A Biography . February 3, 2014 閲覧。 “Woody Allen was born in Brooklyn, New York, in the spring of 1952, When Allan Stewart Konigsberg, who was born in the Bronx on December 1, 1935, settled on the name as a suitable cover.”
^ “How Woody Allen Got His Nickname ”. Time . Time USA (2015年11月9日). 2023年9月19日 閲覧。
^ “The religion of Woody Allen, director and actor ”. January 16, 2008 閲覧。
^ The principal of P.S. 99 was Mrs. Eudora Fletcher; Allen has used her name for characters in several of his films.
^ “Woody Allen: Comedian Profile ”. 2008年1月16日 閲覧。
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^ エリック・ラックス『ウディ・アレンの映画術』(2010年、清流出版)P.290
^ “「セクハラ失業した男」ウディ・アレンの大反論 ”. 東洋経済オンライン. 2020年7月5日 閲覧。
^ “ウディ・アレン監督の「養女への性的虐待疑惑」を35歳年下妻が擁護 ”. フロントロウ. 2020年7月5日 閲覧。
^ “ウディ・アレン「小児性愛」疑惑を実の息子が告発 ”. ニューズウィーク. 2020年7月5日 閲覧。
^ “ウディ・アレン監督の養女、性的虐待は「真実」 テレビで改めて訴え ”. AFPBB News. 2020年7月5日 閲覧。
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