ČKDタトラ (チェコ語 : ČKD Tatra )は、かつてチェコスロバキア (現:チェコ )の首都 ・プラハ に工場を有していた鉄道車両メーカー。1852年 に設立されたリングホッファー工場(Ringhofferovy závody) が基になっており、第二次世界大戦 後の社会主義時代 から2000年 の破産まで、タトラカー と呼ばれる高性能の路面電車車両を世界各地へ向けて大量生産していた事で知られている。この項目では、同社がプラハ のスミーホフ地区 に有していた工場を中心に解説する[ 1] [ 2] [ 3] [ 5] 。
歴史
リングホッファー工場
19世紀後半、産業革命 を受けてヨーロッパ各国には工業製品を製造するための企業や工場が次々に設立されていた。その中の1つが、ドイツ 出身のフランティシェク・リングホッファーII世(František Ringhoffer II.)によって1852年 に設立され、1854年 から操業が始まったプラハ のスミーホフ地区の鉄道車両工場・リングホッファー工場(Ringhofferovy závody)であった。製造は貨車 から始まり、1857年 からは客車 など旅客車両が、そして1876年 からは馬車鉄道 用の客車や路面電車 など軌道交通向け車両の生産にも着手した[ 注釈 1] [ 1] [ 2] [ 3] 。
工場は高い実績と共に拡張を続け、オーストリア=ハンガリー帝国 における最も重要な生産拠点の1つに成長した。1909年 に父のリングホッファーIII世の死を受けて社長に就任したフランティシェク・リングホッファーIV世(František Ringhoffer IV.)によって1911年 に工場はリングホッファー家による家族経営から株式会社 に再編され、第一次世界大戦 期には世界最大の客車・貨車の生産拠点となった。1918年 にチェコスロバキア が成立して以降、リングホッファー工場はモラフスコスレズスカ・ヴァゴンカ (チェコ語版 ) を始めとする同国各地の工業製品メーカーを吸収し、更に規模を拡大した。1936年 には社名をタトラ山脈 にちなんだリングホッファー・タトラ(Ringhoffer–Tatra) へ改めている[ 1] [ 2] [ 3] 。
リングホッファー家が所有していた時代に製造された代表的な車両には、オーストリア帝国 皇帝 のフランツ・ヨーゼフ1世 やルーマニア の国王向けのお召し列車 や、オスマン帝国 のパシャ 向けの高級客車などが挙げられる。また、地元のプラハ市電 向けの車両についても1920年代の時点でそのほとんどがリングホッファー工場製で占められるようになっていた[ 2] [ 3] 。
タトラ国営工場→ČKDタトラ
プラハ市電 のタトラカー (2004年 撮影)
第二次世界大戦 を経てチェコスロバキア が東側諸国 に属する社会主義国家 へと変革される流れの中で、リングホッファー・タトラ社も国有企業となり、社名も「タトラ国営会社 (národní podnik Tatra) 」に変更された。設立当初はプラハ に本社を置き国内各地に工場を所有する形で運営が行われていたが、1950年 に再編が実施され、各工場が独立した国営企業として運営される事となり、スミーホフに存在した工場についても「タトラ国営会社スミーホフ工場(Vagónka Tatra Smíchov) 」と言う社名に改められた。その後1958年 にこれらの工場は再度スチューデンカに拠点を置くタトラ国営企業協会に纏められたが、スミーホフ工場については1963年 に同じく国営の鉄道車両生産企業であったČKD社 (チェコ語版 ) の一部門となり、社名も「ČKDタトラ(ČKD Tatra) 」となった[ 1] [ 2] 。
国営化後の生産の主力となったのは、タトラカー とも呼ばれる一連の路面電車車両であった。これは1920年代にアメリカ合衆国 で開発された高性能路面電車・PCCカー の技術をライセンス契約を結んだうえで導入した車両で、リングホッファー家が工場を所有していた1930年代の時点で製造が検討されていたものの、第二次世界大戦 の影響を受けて契約が調印されたのは1948年 5月 、チェコスロバキアが社会主義体制へ移管する直前となった。その後、1951年 から生産が開始されたタトラT1 を皮切りに、スミーホフ工場(→ČKDタトラ)は経済相互援助会議 (コメコン)の元で路面電車車両を東側諸国へ向けて生産する事となった。中でもタトラT3 は13,000両を超える大量生産が実施された事で知られている[ 5] 。
また、タトラカー以外にも1950年代から1970年代までは客車 やトロリーバス の生産も実施していた他、タトラ電鉄線 に向けて420.95形電車 (チェコ語版 ) の製造も行った。更に1970年代にはプラハ地下鉄 の開通へ向けて小規格の地下鉄用電車 であるタトラR1 も開発したが、こちらは計画の変更により営業運転に使用される事は無かった[ 15] [ 16] 。
1980年代には都市の中心部にあり施設の老朽化も懸念されていたスミーホフからズリチーン への工場の移設および規模の拡張が計画され、1989年 から操業が始まったが、本格的な生産が開始されたのは次項で述べる民主主義化やビロード離婚 を経た1997年 となった。ただしそれ以降もスミーホフ工場での路面電車車両の生産は継続された[ 1] 。
民営化、ČKDの破産
チェコスロバキア の民主化(ビロード革命 )やビロード離婚 を経てチェコ の民間企業となったČKDタトラでは、それ以前から製造が続いていた一連のタトラカー に加え、超低床電車 の開発にも着手した。一方で前述したズリチーンへの生産拠点の移設に加え、ČKDグループ全体の再編により1997年 からはČKDプラハホールディング(ČKD Praha Holding a.s.)に属する企業となった[ 1] [ 17] [ 18] 。
だが、民主化後はČKDグループ全体の需要が大幅に減少した他、超低床電車の故障頻発を始め品質面にも問題が多数浮上し、1999年 には70億5千万コルナ もの負債を抱える状態となり、従業員への賃金も支払えず労働団体による抗議運動が行われる事態となった。その結果同年にはチェコ政府の国営統合銀行(Česká konsolidační banka)が株の過半数を所有する救済措置が執られたが、経営が改善する事はなく2000年 1月 をもってČKDタトラを含むČKDグループは破産した[ 19] [ 20] [ 21] [ 22] 。
シーメンス時代、工場閉鎖後
破産後、ČKDグループが所有していた工場や車両のライセンスなど各種資産は、ドイツ の重電メーカーであるシーメンス がチェコ に設立した子会社のSKV(Společnost kolejových vozidel)へと7億5千万コルナで移管された。その後もスミーホフ工場やズリチーン工場の操業は続き、プラハ地下鉄 向けのM1形電車 (チェコ語版 ) の生産がČKDタトラ時代から継続して行われたが、スミーホフ工場は2002年 に閉鎖された他、シーメンスによるチェコでの鉄道車両製造事業そのものが生産能力の整理の一環で終了する事となり、最後まで残ったズリチーン工場も2009年 をもって閉鎖された。その後スミーホフ工場は解体され、跡地にはショッピングモール が建設されている[ 2] [ 3] [ 19] [ 23] [ 24] 。
一方、タトラカーを始めとした車両のライセンスについては2003年 に実施された審査によってシーメンス からSKDトレード(SKD Trade) へと継承されており、以降同社は各種車両の修理部品の生産を継続して行っている[ 17] 。
スミーホフ工場への専用線の廃線跡(
2011年 撮影)
主要製品
リングホッファー時代
タトラ国営会社→ČKDタトラ時代
タトラカー
その他
関連企業
脚注
注釈
^ 電車 の製造が開始されたのは1891年 であった。
^ 東ドイツ で製造された2軸車 の同型車両[ 25] 。
^ 業績低迷による賃金未払いなどのČKDグループの対応はイネコン・グループへの移籍を始めとした技術者の離脱を招いており、車両の信頼性や品質低下の要因の1つとなった。
出典
参考資料
外部リンク
(英語) “SKDトレードの公式ページ ”. 2020年6月17日 閲覧。