美空 ひばり(みそら ひばり、1937年5月29日 - 1989年6月24日)は、日本の歌手・女優・実業家。神奈川県横浜市磯子区出身。横浜市立滝頭小学校[2]、精華学園女子中学校・高等学校(現・東海大学付属市原望洋高等学校)卒業。
9歳でデビューし、その天賦の歌唱力で天才少女歌手と謳われて以後、歌謡曲・映画・舞台などで目覚ましい活躍を見せ、自他共に歌謡界の女王と認める存在となった[3]。昭和の歌謡界を代表する歌手であり[3]、没後の1989年7月2日に国民栄誉賞を受賞した。本名:加藤 和枝(かとう かずえ)。愛称は「お嬢(おじょう)」。身長は155cm(推定、番組内にて和也談)。
神奈川県横浜市磯子区の魚屋「魚増」を営む父・加藤増吉(1912年 - 1963年)、母・喜美枝の長女・和枝(かずえ)として生まれた。増吉は栃木県河内郡豊岡村(現:日光市)、喜美枝は東京山谷の出身[4]。妹は佐藤勢津子、弟は、かとう哲也と香山武彦である。家にはレコードがあり、幼い頃より歌の好きな両親の影響を受け、和枝は歌謡曲や流行歌を歌うことの楽しさを知った。
1943年6月、第二次世界大戦に父・増吉が海軍に出征となり壮行会が開かれ、和枝は父のために『九段の母』を歌った。壮行会に集まった者達が和枝の歌に感銘し、涙する姿を目の当たりとした母・喜美枝は和枝の歌唱力に人を惹き付ける可能性を見出して、地元の横浜近郊から和枝の歌による慰問活動を始めるようになった。
敗戦後間もない1945年、私財を投じて自前の「青空楽団」を設立。近所の公民館・銭湯に舞台を作り、和枝は8歳のときに母の提案により「美空和枝」の名にし、初舞台を踏む。
1946年、NHK『素人のど自慢』に出場し、予選で『リンゴの唄』を歌い加藤母子は合格を確信したが鐘が鳴らなかった。審査員は「うまいが子供らしくない」「非教育的だ」「真っ赤なドレスもよくない」という理由で悩んだ挙句、合格にすることはできないと告げた。横浜市磯子区の杉田劇場[注釈 1] で初舞台を踏む。翌年の春、横浜で行われたのど自慢大会終了後、加藤母子は審査員の古賀政男のもとに駆けつけて「どうか娘の歌を聴いてください!」と懇願し、和枝はアカペラで古賀の「悲しき竹笛」を歌った。古賀はその子供とは思えない歌唱力、度胸、理解力に感心し「君はもうのど自慢の段階じゃない。もう立派にできあがっている」「歌手になるなら頑張りなさい」と激励した。
1947年、杉田劇場で漫談の井口静波、俗曲の音丸の前座歌手として出演してから、この一行と地方巡業するようになる。高知県に巡業した際、1947年4月28日、高知県長岡郡大杉村(現長岡郡大豊町)の国道32号で加藤母子が乗車していたバスが前方からのトラックを避けようとした際に崖に転落[5]。そのまま落下すれば穴内川で全員死亡だったが、運よくバンパーが一本の桜の木に引っかかり止まった。和枝は左手首を切り、鼻血を流し気絶し、瞳孔が開き仮死状態だったが、たまたま村に居合わせた医師に救命措置をしてもらい、その夜に意識を取り戻した。家に戻った後、父は母に「もう歌はやめさせろ!」と怒鳴ったが、和枝は「歌をやめるなら死ぬ!」と言い切った。
1948年2月、神戸松竹劇場への出演に際して、神戸での興行に影響力を持っていた暴力団・三代目山口組組長の田岡一雄に挨拶に出向き、気に入られた[6][注釈 2]。同年5月、まだ無名の存在であった11歳の少女・ひばりの才能を見込んだ当時人気絶頂のボードビリアン川田義雄(のちの川田晴久)に横浜国際劇場公演に抜擢された。川田はひばりをそばに置いてかわいがり、また、ひばりも川田を「アニキ」と呼びよく懐いていた。ひばりは川田に大きな影響を受けており、節回しを川田節から学んでいる。専門家による声紋鑑定でも二人の節回し、歌い方が一致する結果が出ている。ひばりは「師匠といえるのは父親と川田先生だけ」と後に語っている。
川田一座では当時のスター歌手笠置シヅ子の物真似(歌真似)が非常にうまく“ベビー笠置”と言われ拍手を浴びる。純粋に「かわいい」と見る層がいた一方、「子供が大人の恋愛の歌を歌うなんて」という違和感を持つ層も存在した。詩人で作詞家のサトウハチローは当時のひばりに対し「近頃、大人の真似をするゲテモノの少女歌手がいるようだ」と、批判的な論調の記事を書いている[注釈 3]。
前年10月、喜劇役者・伴淳三郎の劇団・新風ショウに参加し、同一座が舞台興行を行っていた横浜国際劇場と準専属契約を結ぶ。この時、演出していた岡田恵吉に母親が芸名をつけてくれるように頼み、美空ひばりと命名してもらう。横浜国際劇場の支配人だった福島通人がその才能を認め、マネージャーとなって舞台の仕事を取り、次々と“ひばり映画”を企画することに成功した。
なお、「美空ひばり」の命名者、時期については上記以外も諸説あるが、神奈川新聞に掲載された横浜国際劇場の公演広告の1948年3月8日掲載ぶんに「美空ヒバリ」、同じく1948年6月1日掲載ぶんに「美空ひばり」の記載が残っているため、遅くとも1948年3月以前であろうと推測される[7]。
1949年1月、日劇のレビュー『ラブ・パレード』(主役・灰田勝彦)で笠置の『セコハン娘』、『東京ブギウギ』を歌い踊る子供が面白がられ、同年3月には東横映画『のど自慢狂時代』(大映配給)でブギウギを歌う少女として映画初出演した。8月には松竹『踊る竜宮城』に出演し、主題歌『河童ブギウギ』でコロムビアから歌手としてB面ではあるが、11歳で正式にレコードデビュー(7月30日)を果たした。続いて12歳で映画主演を果たした『悲しき口笛』(松竹)が大ヒット、同主題歌も45万枚を売り上げ(当時の史上最高記録)国民的な認知度を得た。この時の「シルクハットに燕尾服」で歌う映像は、幼少期のひばりを代表する映像として現在も目にする機会が多い。
1950年、川田晴久とともに第100歩兵大隊二世部隊戰敗記念碑建立基金募集公演のため渡米。帰国してすぐに2人の主演で『東京キッド』に出演。映画とともに同名の主題歌も、前作同様の大ヒットとなった。
1951年、松竹『あの丘越えて』で人気絶頂の鶴田浩二が扮する大学生を慕う役を演じたが、実生活でも鶴田を慕い、ひばりは鶴田を“お兄ちゃん”と呼ぶようになった。同年5月新芸術プロダクション(新芸プロ)を設立。代表取締役社長が福島通人、役員にひばり、川田晴久、斎藤寅次郎がそれぞれ就任した。同年、嵐寛寿郎主演の松竹『鞍馬天狗・角兵衛獅子』に杉作少年役で出演。以後これを持ち役とした。
1952年映画『リンゴ園の少女』の同名主題歌と挿入歌「リンゴ追分」をカップリングしたシングルが当時の史上最高記録となる70万枚を売り上げる大ヒットとなった。
1953年、『お嬢さん社長』に主演。喜美枝は、ひばりを「お嬢」と呼ぶようになり、その後、周囲もそう呼ぶようになった。1954年7月、正式に契約していなかった松竹から[8][9][10]、初代中村錦之助と一緒に[11][12]、映画3本で1000万円と破格の条件で東映と映画出演の専属契約を結ぶ[9][12][13]。契約時に田岡一雄が同席し凄んだ[9][10][13][14][15]。この交渉時で子どもながら気丈なひばりに将来性を予見した岡田茂(のち東映社長)は[13]、ほぼ一回り年下のひばりの世話係をしながら[16]、歌の実演や地方興行などと撮影のスケジュール調整をやりつつ[16]、ひばり作品の量産体制に入った[17]。中村錦之助と映画「ひよどり草紙」で共演[18]。二人が組んだとき、岡田は「これはいける」とピンときた[16]。東映のツキ初めはここであった[11]。錦之助は翌年、東映時代劇の大スターとなった。この後、新人男優がひばりの相手役となることは、大スターへの登竜門のように言われた。錦之助とひばりは、共演後にたちまち恋仲となり周囲が猛反対した[18]。それでも別れないため田岡一雄が困り果て、岡田茂に頼み、岡田が諄々とふたりを諭して別れさせた[19]。晩年でもひばりは、錦之助の話が出ると顔が赤くなったと言われ[20]、1961年11月27日に銀座東急ホテルで錦之助と有馬稲子の結婚式があった日に、加藤喜美枝の使いが「すぐ来てくれ」と岡田に頼み、浅草国際劇場で公演期間中だったひばりがもの凄い仕立ての着物を着て、「錦之助と有馬稲子の披露宴に行く」と言い張っていて、岡田が「明日のスポーツ紙の一面になるじゃない!ひばりちゃん、そんなことダメだよ、やめなよ」と説得したらひばりは号泣し[20]、「あんた長い人生、まだまだあるじゃないか。錦之助が結婚したからって何だ。だいいち錦之助と結婚したら歌舞伎界のおかみさんだよ。いちいち部屋を回ってな、よろしくお願いします、よろしくお願いします、なんて挨拶してまわることなんかあんたに出来るんかい」と言ったら、「ほっといてよ、そんなこと!」と強気だった[20]。
1954年、『ひばりのマドロスさん』で第5回NHK紅白歌合戦に初出場した[注釈 4]。1955年には江利チエミ、雪村いづみとともに東宝映画『ジャンケン娘』に出演したことを契機に、「三人娘」として人気を博し、親交を深める。但し三人の映画出演のギャラは、はっきり差がつき、ひばり一本750万円、チエミ300万円、いづみ150万円だった[20]。当時のひばりは映画界で最も稼ぐ女優だった[20]。
1956年、ジャズバンド小野満とスイング・ビーバーズの小野満と婚約。その後、この婚約は破棄となった。初の那覇[注釈 5]公演を沖縄東宝で行い、1週間で5万人を動員。離島からのファンで那覇港は大混雑した。
1957年1月13日、浅草国際劇場にて、ショーを観に来ていた少女から塩酸を顔にかけられ浅草寺病院に緊急搬送されて入院した。現場に居合わせたブロマイド業者らによって塩酸をかけた少女は取り押さえられ警察に引き渡された。犯人の少女はひばりと同年齢(19歳)の熱烈なファンだったというが、ハンドバッグに「ひばりちゃんの美しい顔をいためねば承知できない」というメモを所持していた[21]。この事件を切っ掛けにひばりは田岡にボディーガードを要請し[22]、代わりに興行権を神戸芸能社に委ねる[22]。その後、歌舞伎座公演に復帰(奇跡的に顔に傷は残らなかった)。また、紅白の裏番組として放送されていたラジオ東京テレビ(現:TBSテレビ)の『オールスター大行進』に出演していたため出場していなかった紅白歌合戦に3年ぶりに出場し、出場2回目にして渡辺はま子、二葉あき子らベテラン歌手を抑えて初めて紅組トリ(大トリ)を務めあげ、当時のひばりは既に芸能界における黄金期を迎えていた。
1958年4月1日、山口組三代目・田岡一雄が正式に神戸芸能社の看板を掲げた。同年4月、美空ひばりは神戸芸能社の専属となり、同年7月、新芸プロを離れ[20]、8月1日、ひばりプロダクションを設立して[20]、副社長に田岡一雄が就任した。同年8月18日[20]、東映と映画出演の専属契約を結んだ[20]。それに合わせて京都市左京区岡崎法勝寺町に居を構える[20]。『ひばり捕物帳』シリーズや『べらんめえ芸者』シリーズ、『ひばりの佐渡情話』(1962年)など、東映は1950年代後半から1960年代にかけてタイトルに"ひばり"を冠した映画を13本製作[23]、続々ヒット映画にも恵まれた。1960年から始まった『べらんめえ芸者』シリーズでは二作目以降、岡田に頼まれ、高倉健を相手役として迎えた[24][25][26][27]。『べらんめえ芸者』シリーズは、笠原和夫と笠原良三の脚本で始まったもので[28]、笠原和夫は脚本家デビューしてすぐに美空ひばりの主演映画を書くという幸運に恵まれ[28][29]、東映調の娯楽映画のスキルが磨かれた[28]。東千代之介や高倉健、里見浩太朗らはひばりとも共演で人気を高めた[20]。ひばりは東映と専属契約を結んだ1954年から1963年まで10年間[17][30]、多くの時代劇、チャンバラ映画に主演し、東映時代劇の黄金期を支え、歌手であると同時に映画界の銀幕のスターとしての人気を得た[30][31]。専属期間だった10年間だけで、東映でのひばり出演作は102本に及ぶ[17]。ひばりは「岡田茂さんは東映時代の恩人。岡田さんなくしては、映画俳優としての自分の存在はなかった」と話し[32]、岡田茂は「美空ひばりは東映の女優の中で、会社にとって最も重要な役割を果たした」[30]「錦之助さんともども東映の土台を作った偉大なスター」と評している[32]。生涯で170本を超える映画に出演し[20]、そのほとんどが主演で、映画の題名に『ひばりの〇〇』と付いた作品は47本で日本一である[20]。題名に『ひばり』が付いているだけで安定してお客が入った[20]。戦後を代表する映画女優であった[33]。ひばりは女優として日本映画史をみてもズバ抜けた興行力があり、俳優としても日本映画に貢献した[20]。ひばり作品に芸術作品・秀作、ましてや映画賞に掛かった作品は一本もなく[20]、今日、ひばりの映画女優としての側面には必ずしも多くの光が当たっているとはいい難いが[20]、生涯、娯楽作品に徹し、ファンもそれを喜んだ[20]。ブルーリボン賞は、1961年度の第12回でひばりに大衆賞を授与した[20]。「映画主演で13年間大衆に愛され親しまれて来た功績」と信念が貫かれたことが認められての授与理由で、ひばりが喜んだことは言うまでもない[20]。
1960年、『哀愁波止場』で第2回日本レコード大賞歌唱賞を受賞、「歌謡界の女王」の異名をとるようになった。
1962年5月29日、小林旭との婚約を発表。出会いは雑誌が企画した対談の場だった[34]。交際を始めるが、小林は結婚をまだ考えていなかったにもかかわらず、ひばりが入れあげ、父親代わりでもあった田岡一雄に、自分の意志を小林へ伝えるよう頼んだ[34]。ひばりの意を汲んだ田岡は小林に結婚を迫り、小林は断れなかったとされる。同年11月5日に挙式した[34][35]。喜美枝はこの結婚を快く思っていなかったようで、人生で一番不幸だったのは娘が小林と結婚したこと、人生で一番幸せだったのは小林と離婚したことだと後に公言して憚らなかったほどである。小林は「結婚生活でのひばりは懸命によき妻を演じようとし、女としては最高だった」と『徹子の部屋』で述懐している。小林は入籍を希望していたが、ひばりの母に不動産処分の問題があるからと断られ続け、入籍しておらず(いわゆる事実婚)、戸籍上ではひばりは生涯にわたり独身であった[35]。ひばりは一時的に仕事をセーブするようになるが、実母にしてマネージャーである喜美枝や周辺関係者が二人の間に絶え間なく介入し、結婚生活はままならなかった。また、ひばりも歌に対する未練を残したままだったため、仕事を少しずつ再開し小林が求めた家庭の妻として傍にいてほしいという願いも叶わなかった。また結婚した翌1963年には、増吉が肺結核により52歳で亡くなっている。
別居後の1964年、わずか2年あまりで小林と離婚。ひばり親子に頼まれた田岡から会見2日前に、「おまえと一緒にいることが、ひばりにとって解放されていないことになるんだから、別れてやれや」と引導を渡され、逆らうことは出来なかったと小林は自著で述べている[35][36]。記者会見は別々に開かれ、小林の会見には田岡と菱和プロ社長・嘉山登一郎が同席した[36]。小林は「本人同士が話し合わないで別れるのは心残りだが、和枝(ひばりの本名)が僕と結婚しているより、芸術と結婚したほうが幸せになれるのなら、と思って、理解離婚に踏み切った」と説明[36]。この「理解離婚」という言葉は当時流行語となった。「未練はいっぱいある。皆さんの前で泣きたいくらいだ」と離婚は小林の本意でなかったとも語っている。
その1時間半後にひばりも田岡に同席してもらい、記者会見を行った[36]。ひばりは田岡に口添えされながら、「理由をお話したいのですが、それを言ってはお互いに傷つける」「自分が幸せになる道を選んだ」と答えた[36]。また「私が芸を捨てきれないことに対する無理解です」「芸を捨て、母を捨てることはできなかった」とも語り、今後は舞台を主に頑張ると語った。
離婚直後に発表した『柔』は東京オリンピックともあいまって翌1965年にかけて大ヒットした。180万枚という、当時のひばりとしては全シングルの中で最大のヒット曲となった。この曲で1965年、第7回日本レコード大賞を受賞。1966年には『悲しい酒』が145万枚を売り上げ[注釈 6]、1967年には『芸道一代』、ポップス調の楽曲でグループ・サウンズジャッキー吉川とブルーコメッツとの共演やミニスカートの衣装が大きな話題となり、140万枚を売り上げた『真赤な太陽』と、ひばりの代表作となる作品が次々と発表され、健在ぶりを示した。
1963年、喜美枝は岡田に「お嬢のこれからの生き方についてどう思う?」と相談した[37]。ひばりはそれまで銀幕を中心に活躍し、東映の専属として東映時代劇を支えていたが[37]、岡田は既に東映を時代劇から現代劇中心に転換したいという考えを持っていたから[37]「ひばりちゃんの時代劇はリアリズムからかけ離れたところが大衆にとって魅力。現代劇では魅力は発揮できないと思う。これからはテレビと舞台だろう」と進言した[37]。浅草国際劇場での正月公演の客入りが悪くなっていたことから[38]、喜美枝がひばりの再出発として新宿コマ劇場から要請のあった初の座長公演を田岡に相談せずに決めたため[38]、浅草の公演を仕切っていた田岡の逆鱗に触れ[38]、岡田に泣きつき何とか田岡の怒りを鎮めた[38]。揉め事が起こると喜美枝は決まって岡田を頼った[17][注釈 7]。さらに喜美枝は、岡田に新宿コマの舞台演出を気心知れた沢島忠を希望した[39][40][41]。しかし沢島は当時岡田と共に東映任侠路線の扉を開いた東映と専属契約を結ぶメイン監督である[39][40][42]。当時は五社協定があり、東宝系の新宿コマでの長期公演の仕事など無理難題であった[39][40]。喜美枝は娘の為なら、たとえ火の中水の中というような人で[39]、これも岡田の尽力で何とか沢島の貸し出しが決まり[39][40]、東映のメイン監督の一人だった沢島は、これを切っ掛けにひばりの座付き作者のようになって映画界から遠ざかった[37][43]。
1964年5月、新宿コマ劇場で初の座長公演を行う[37]。それまで歌だけのステージに、芝居を加える舞台公演の第一号であった[37]。演技者としての活動の場を次第に映画から舞台に移し(初の座長公演は『ひばりのすべて』、『女の花道』)、同劇場のほか、名古屋の御園座、大阪の梅田コマ劇場にて長年にわたり座長を張り続けた。離婚後のひばりを常に影となり支え続けたのが、最大の理解者であり、ひばりを誰よりも巧みにプロデュースする存在となっていた母・喜美枝だった。ひばりは傍らに喜美枝を従えて日本全国のコンサート会場・テレビ出演なども精力的に活動した。当時のマスコミからはステージママの域を越えた存在として、「一卵性親子」なるニックネームを付けられた。
1970年8月日系ブラジル人の求めに応じてサンパウロでブラジル公演[44]。公演は8、9、10日の三日間であり、5万人の観客を動員、サンパウロとその周辺はもちろん、アマゾン地方、アルゼンチン、パラグアイ、ペルーやボリビアからも観客が団体で押し寄せた。オーケストラメンバーはフランク・シナトラやトニー・ベネットも賞賛した現地サンパウロの一流演奏家で構成され、そのメンバーらが美空ひばりについて「言葉は分からないが素晴らしい歌手だ」と異口同音に称えたと言われる。また、サンパウロ公演より前にハワイで公演を開いたとされる[45]。
1970年、第21回NHK紅白歌合戦で紅組司会・大トリを担当。紅白史上初の組司会とトリの兼任である(組司会と大トリの兼任は女性に限れば唯一)。この時の歌唱曲は弟・かとう哲也作曲の「人生将棋」。歌手兼司会の前例はあったが、組司会がトリを務めるということはまだなかったため、ひばりが紅組司会に決まった時点で、紅組トリは青江三奈(当時女性歌手のヒットNo.1)との構想が固まっていた。ところがひばりは司会発表会見で「お話を頂いた時は司会だけで歌手としては出場できないのでは…と思いました。来年は歌手生活25周年にもあたります。やはり歌手としてはトリを歌いたい」と発言、結局ひばりの紅組司会兼大トリが半ば強引に決定した。
この時期も田岡一雄は父親代わりの存在としてひばりを庇護し、ひばりは1981年の田岡の葬儀にも出席している。この暴力団との関係が後の「ひばり・スキャンダル」に繋がることになった。
1973年、実弟が起こした不祥事により[注釈 8]、加藤家と暴力団山口組および田岡との関係も問題視され、全国の公会堂や市民ホールから「暴力団組員の弟を出演させるなら出させない」と使用拒否されるなど、バッシングが起こりマスコミも大々的に取り上げた。しかし、ひばり母子は家族の絆は大事だとし、哲也をはずすことはなかった。この結果、1973年末、17回出場し1963年から10年連続で紅組トリを務めていた紅白歌合戦への出場を辞退した[注釈 9]。そのためこの年から数年間、大晦日は日本教育テレビ(現:テレビ朝日)の取り計らいで、同局『美空ひばりショー』に出演した。以後、NHKからオファーが来ても断り続けた。1977年、当時の同局の人気番組であった『ビッグ・ショー』で4年ぶりにNHK番組に出演し、関係を修復した。しかし紅白に正式な出場歌手として復帰することはなかった[注釈 10]。
1970年代~1980年代前半のひばりは大きなヒット曲には恵まれなかったものの、この時代に入ると幅広いジャンルの楽曲を自らのスタイルで数多くのテレビ番組やレコードなどで発表し、歌手としての再評価を受けることとなる。岡林信康(『月の夜汽車』〈1975年〉)、来生たかお(『笑ってよムーンライト』〈1983年〉)、イルカ(『夢ひとり』〈1985年〉)、小椋佳(『愛燦燦』〈1986年〉)など、時代の話題のアーティスト・クリエイターなどとのコラボレートもしばしば行われた。また、新曲のキャンペーン活動にもこの時代には活発に参加するようになり、1980年には誰もが唄える歌として発表した『おまえに惚れた』は、この地道な活動が功を奏す形で久々のヒット曲となった。また1982年には、『裏町酒場』もロング・ヒットを記録する。
しかし1980年代に入り、1981年には最愛の母・喜美枝が転移性脳腫瘍により68歳で死去する。同年に日本武道館で行われた芸能生活35周年記念リサイタルは、喜美枝が危篤状態の中行われたものであった[46]。さらに父親の代わりを担っていた田岡も相次いで死去した。1982年には親友の江利チエミが45歳で急死、1984年には「銭形平次」で18年間主役を演じ、同番組の最終回にひばりが特別出演する等親交のあった大川橋蔵が55歳で死去した。また追い打ちをかけるように実弟の哲也を1983年に、香山武彦を1986年に、共に42歳という若さで次々と亡くすという悲運が続いた。ひばりは加藤和也を1977年に養子として迎えていたが、家族や親友を続けざまに亡くした悲しみや寂しさを癒やすために嗜んでいた酒とタバコは日に日に量を増し、徐々にひばりの体を蝕んでいった。
1985年5月、ひばりは誕生日記念ゴルフコンペでプレー中に腰をひねり、両足内側にひきつるような痛みが走ったという。その頃からひばりは原因不明の腰痛を訴えるが、徐々に腰痛が悪化していく中でも、ひばりはそれを微塵にも感じさせない熱唱を見せていた。翌年の1986年に芸能生活40周年記念リサイタルを東京・名古屋・大阪の三大都市で開催(後に東京でのコンサートがビデオ・DVD化されている[47])。だが1987年(昭和62年)、全国ツアー四国公演の巡業中、ひばりの足腰はついに耐えられない激痛の状態に陥った。
しかしそんな中、同年2月には三重県鳥羽市まで出向き、ひばり自らの要望で鳥羽水族館のラッコを見物した。それと同地において、カラオケビデオの撮影にも臨んだ。1テイク撮影後再度撮り直しの為に、スタート地点へ戻るよう監督の指示を受けた際、ひばりは段差を上りきれず立ち止まってしまい、付き人の手を借りて歩行し映像を撮り終えた。現在DAMカラオケで「リンゴ追分」「真赤な太陽」などのカラオケでは、その頃のひばりの姿が映し出されている。
入院2週間前の4月7日には日本テレビ「コロムビア 演歌大行進」の収録に臨む。細川たかしと島倉千代子に手を取られ登場し、体調が悪い中「愛燦燦」などを歌った。[48]
同年4月22日、公演先の福岡市で極度の体調不良を訴え、福岡県済生会福岡総合病院に緊急入院した。重度の慢性肝炎および両側特発性大腿骨頭壊死症と診断され、約3か月半にわたり同病院にて療養に専念となった(入院当時実際の病名は「肝硬変」であったが、マスコミには一切発表しなかった。ひばりの病状は深刻だったがそれを隠し通し、公表する病名の程度を低くした)。またそれに伴い同年5月に予定された、明治座の公演中止を発表。入院して約1か月後の同年5月29日、ひばりは丁度50歳の誕生日を迎えた。その闘病の最中にひばりは、マスコミ陣および大勢のひばりファン達に対して「今はただ先生達のご指示をしっかり守り、優等生患者として毎日を過ごしています」「あわてない慌てない、ひとやすみ一休み」などと吹き込まれた、肉声入りのカセットテープを披露した。
1987年6月16日に鶴田浩二(享年62)、7月17日には石原裕次郎(享年52)と、ひばりと親交が深かった昭和の大スターが相次いで死去する中、ひばりは入院から3か月後の同年8月3日に無事退院を果たし、病院の外で待っていた沢山のひばりファン達に笑いながら投げキッスを見せた。退院後の記者会見では「『もう一度歌いたい』という信念が、私の中にいつも消えないでおりました。ひばりは生きております」と感極まって涙を見せる場面もあったが、最後は「お酒は止めますが、歌は辞めません」と笑顔で締めくくった。退院後の約2か月間は自宅療養に努め、同年10月9日に行われた新曲『みだれ髪』のレコーディング(シングルレコード発売は12月10日)より芸能活動の復活を果たした。
しかし、病気は決して完治してはいなかった。肝機能の数値は通常の6割程度しか回復しておらず、大腿骨頭壊死の治癒も難しいとされた。ある日、里見浩太朗が退院後のひばりを訪ねた際、階段の手すりに掴まりながら一歩一歩下りてきたと後に語った。それが里見自身ひばりとの最後の対面であったという。
1988年(昭和63年)初頭はハワイで静養し、2月中に帰国した。同年4月に開催予定の東京ドーム復帰公演に向けて、下見や衣装、当日の演出など準備段階は止められない処まで来ていたが、足腰の痛みは殆ど回復することはなく、肝機能数値も退院時の60%から低下して20~30%の状態を行き来する状態であった。体調が思わしくないまま公演本番の日を迎えた。
1988年4月11日、東京ドームのこけら落し[49][50] となるコンサート「不死鳥/美空ひばり in TOKYO DOME 翔ぶ!! 新しき空に向かって」を実施した(実際にはそれ以前にミック・ジャガーやBOØWYがコンサートを同場所で既に行っていた)。この復活コンサートの様子は、現在もテレビ番組でしばしば映像が使われ、後にビデオ・DVD化もされている。なお「不死鳥」をイメージした金色の衣装など、舞台衣装は森英恵がデザインしたものである。
この東京ドーム公演の会場客席には、森光子・雪村いづみ・島倉千代子・浅丘ルリ子・岸本加世子など、ひばりと特に懇意であった女性芸能人達もひばりの復帰ステージを見届けるために駆けつけた。それとは裏腹に、ひばりにとってはまさに命がけのものであった。楽屋入りの際には楽屋前で私服のまま、ひばりはファン並びにマスコミへ向けて不死鳥コンサートへの意気込みをコメント映像として残したが、このコメント映像に応じられるかどうかもひばりの状態次第という状況であった。徳光和夫も後年、BS朝日「わが心の美空ひばり」にて「あのコメントを残してくださったことを心から感謝しています、まさかあんなに状態が悪かったとは思いもしなかったですよ」と語っている。
ひばりはフィナーレの「人生一路」を歌い終えると、思い通りに歌えなかったのかマイクをスタンドに戻す際に一瞬首を傾げていた(彼女の日記にも、自身が満足のいく出来にできなかったことへの苦悩と、この調子であと何年もつのかという不安が書かれている)。この頃のひばりは体調の悪化で前年の退院会見の頃と比べると痩せていたが、脚の激痛に耐えながら合計39曲を熱唱した。常人であれば歌うことはおろか、立つことすら困難な病状の中でステージに立った。
公演当日は会場に一番近い部屋を楽屋とし、簡易ベッドと共に医師も控えていた。また、万一の事態に備えて裏手に救急車も控えていた。本番前に楽屋を訪れた浅丘ルリ子は、まるで病室のような楽屋と、ひばりの様子に衝撃を受けたと語る。楽屋でひばりはベッドに横たわっており、浅丘が心配そうに「大丈夫?」と問いかけると、ひばりは「大丈夫じゃないけど頑張るわ」と笑顔で答えたという。ドーム公演のエンディングで、約100mもの花道をゆっくりと歩いたひばりの顔は、まるで苦痛に歪んでいるかのようであった。とても歩けるような状態でないにもかかわらず、沢山のひばりファンに笑顔で手を振り続けながら全快をアピールした。そのゴール地点には和也が控え、ひばりは倒れこむように和也の元へ辿り着き、そのまま救急車に乗せられて東京ドームを後にしたという。当時、マスコミ各社はひばりの「完全復活」を報道したが、ひばりにとっては命を削って臨んだ伝説のステージとなった。
東京ドーム公演を境に、ひばりの体調は次第に悪化していった。段差を1人で上ることさえ困難になり、リフトを使い舞台上にあがる程の状態だった。ドーム公演後全国13ヶ所での公演が決まっており、翌1989年2月7日小倉公演までの10ヶ月間、全国公演を含めテレビ番組収録など精力的に仕事を行った。1988年6月7日には極秘で福岡の病院に一時入院したが、すぐに仕事を再開することができた。6月の入院を乗りきったひばりはその後の年内の仕事も予定通りに全てこなし、同年7月29日に「広島平和音楽祭」(「一本の鉛筆」を歌唱)に加え、8月21日には「佐久音楽祭」に出演した。ひばりにしては珍しく「佐久音楽祭」では屋外ステージで歌った。この時の映像は、現在の特番でもたびたび放映されている。
1988年10月28日に、前日神津はづき(神津善行・中村メイコ夫妻の実娘)からのお友達紹介で、「森田一義アワー 笑っていいとも!」のテレフォンショッキングコーナーに、最初で最後の出演を果たした(ひばりからのお友達紹介は岸本加世子)。またその頃、秋元康の企画による『不死鳥パートII』という題名で、生前最後となるオリジナルアルバムのレコーディングも行い、秋元や見岳章といった若い世代のクリエーターとの邂逅により、音楽活動を幅広く展開する意欲も見せた。そのアルバムの中には、生涯最後のシングル曲となった『川の流れのように』もレコーディングされている。なお、ひばりのスタッフ陣は当初『ハハハ』をシングル化する予定だったものの、ひばりが自ら「お願いだから、今回だけは私の我が儘を聞き入れて!」と、スタッフに対して『川の流れのように』のシングル化を強く迫りながら懇願した。普段ならばスタッフの意向を尊重するひばりであったが、そのひばりがあまりに必死に懇願したことを受けた結果、彼女の希望通りの形となった。
そのきっかけとなったのが、同年10月11日にオリジナルアルバム制作の報告も兼ね、日本コロムビア本社内で行われたひばりの生涯最後の記者会見の時であった。この記者会見前にひばりは、アルバム内の1曲『ハハハ』を秋元康立ち合いの下で公開初披露し、その後に会見が組まれた。ある記者が「ひばりさん、今回のアルバムを楽しみにされているファンの方々が沢山いらっしゃるかと思いますけれども、アルバムに収録されている10曲がどんな曲なのか、紹介していただけますか?」と投げかけた。するとひばりは「えー…もう『川の流れのように』の曲を1曲聴いていただくと、10曲全てが分かるんじゃないでしょうか。だからこれからの私。大海へスーッと流れる川であるか、どこかへそれちゃう川であるかっていうのは誰にも分からないのでね。だから『愛燦燦』とはまた違う意味のね、人生の歌じゃないかなって思いますね…」と全てを覆すような回答を残した。ひばりの記者会見後、制作部はバタバタしながら1989年1月のリリース準備に入ったというエピソードが残されている。
同年暮れの12月12・16・17日の3日間にわたっては、翌1989年(昭和64年)1月4日にTBSテレビで放送された、生涯最後のワンマンショー『春一番! 熱唱美空ひばり』の収録に臨んだ。総合司会は堺正章が担当し、特別ゲストには森光子、森繁久彌と尾崎将司が出演した。収録前に歓迎会が行われ、スタッフからひばりへ花束の手渡しなどがあり、ひばり自身スタッフの熱意を肌で感じていた。だが、番組収録終了後最後の記念撮影時に、ひばりが隣に座った番組制作プロデューサーの池田文雄に向かって「この番組が『最後』になるかもしれないから。私ねぇ、見た目よりもうんと疲れてるのよ、1曲終わる度にガクッと来るの」と話したという。後に堺がひばりの追悼番組で、当時「どういう意味での『最後』かは定かではないが…」と話している。しかしプロデューサーの池田はこの言葉が耳にこびりついて仕方がなかったという。脚の激痛と息苦しさで、歌う時は殆ど動かないままの歌唱であった。
この頃既に、ひばりの直接的な死因となった『間質性肺炎』の症状が出始めていたとされており、立っているだけでも限界であったひばりは、歌い終わる度に椅子に腰掛けて息を整えていたという。それでも同番組のフィナーレでは、番組制作に携わったスタッフやゲストらに感謝の言葉を述べ、「これからもひばりは、出来る限り歌い続けてゆくことでしょう。それは、自分が選んだ道だから」という言葉で締め括った。そして新曲『川の流れのように』の歌唱後、芸能界の大先輩でもある森繁からの激励のメッセージを受けると、感極まったひばりは堪えきれずに涙を流し続けた。なお、ワンマンショーの放送からさかのぼること2日前の1月2日には『パパはニュースキャスター』の復活スペシャル第2弾にも田村正和演じる主人公の鏡竜太郎とTBSの廊下で遭遇するワンカットのみではあるが、ゲスト出演。これが生涯最後のテレビドラマへの出演となった。
1988年12月25日、26日と帝国ホテルにて、生涯最後のクリスマスディナーショーが行われ、石井ふく子や王貞治らひばりの友人も足を運んだ。無理を押しての歌中、激しいツイストで観衆を沸かせていた。この時の映像は特番等で稀に放送されたことがある。(ビデオ・DVD化はされていない)ディナーショー終了後、石井と王らが会食していた神楽坂の料亭に連絡なしにいきなり現れたひばりが、浪曲「唄入り観音経」を歌唱。石井は2010年6月にTBS系で放映された特番で「全身が総毛立ったの。素晴らしかったですよ。なんで録っておかなかったんだろうと今でも悔いています」と語った。
1989年1月8日、ひばりは元号が「昭和」から「平成」へ移り変わった日を「平成の我 新海に流れつき 命の歌よ 穏やかに…」と短歌に詠んだ。その3日後の1月11日、『川の流れのように』のシングルレコードが発売される。しかしこの時のひばりの肺は、既に病に侵されていた。
1月15日、『演歌の花道』と『ミュージックフェア』へそれぞれVTRで出演した。各番組の最後で『川の流れのように』など数曲を歌ったが、『ミュージックフェア』が放送時間上ひばりにとって、結果的に生前最後のテレビ出演となった。同番組の1989年第1回目の放送は「美空ひばり特集」として1月8日に予定されていたが、昭和天皇の崩御に伴い特別編成が組まれ、1週間先送りとなった。この頃のひばりはドーム公演時から見てもさらに痩せて、体調は明らかに悪化していた。なお、1月中のひばりは熱海への家族旅行や、両国国技館の大相撲見物の他、自宅での静養が多かったとされる。体調は一時期平行線であっても、好転することはなかった。
コンサートの数日前、早めに現地入りしたひばりは、医師の診療を受けた際に以前より病状が芳しくない状態であることを告げられていた。それでもこの年の全国ツアー「歌は我が命」をスタートさせたが、初日の2月6日の福岡サンパレス公演で、持病の肝硬変の悪化からくるチアノーゼ状態となる。公演中の足のふらつきなど、舞台袖から見ても明らかであったが、ひばりは周囲の猛反対を押し切り、翌日の小倉公演までの約束でコンサートを強行した。
2月7日、九州厚生年金会館での公演が、ひばりの生涯最後のステージとなった(その映像は残されていないが、スタッフが確認用に録音したカセットテープに音源のみ残され、ひばり17回忌の2005年にCDとして商品化された)。同日、ひばりは車や新幹線での移動に耐えられない程に衰弱していたため、急遽ヘリコプターを使用しての往復移動となり、会場の楽屋入り後はすぐに横になった。酸素吸入器と共に医師が控え、肝硬変の悪化からくる食道静脈瘤も抱え、いつ倒れて吐血してもおかしくない状態だったという。当時同行した和也は後に「おふくろはもう気力だけで立っていたんだと思います…お医者さんには、間髪入れずに『倒れて出血したらもう終わりです。喉を切開して血を抜かないと、窒息をしちゃいますよ。いつ倒れてもおかしくないですからね』と言われてたんで、袖で陣取っていたんですけど、ここの時ほど心細い時はなかった。本当…死んだ親父やばあちゃんがいたらな…って思いましたよ」と語っている。開演時間になるとひばりは起き上がりステージへ向かうが、廊下からステージに入る間にある僅か数センチの段差すらも1人では乗り越えられなかった。また、コンサート中は大半が椅子に座りながらでの歌唱となり、加えてあまりの体調の悪さから予定されていた楽曲を一部カットした(村田英雄の「無法松の一生」など)。息苦しさをMCでごまかすひばりであったが、翌3月に診断される「特発性間質性肺炎」の病状は進行していた。だが、1,100人もの観衆を前にひばりは全20曲を無事に歌い終えた。
2月8日、2年前と同じ済生会福岡総合病院に検査入院。一旦は退院し、マスコミから避けて福岡の知人宅に2月下旬まで滞在後、再びヘリコプターで帰京した。その際、東京ヘリポートから自宅までは車での移動であったが、体力はとうに限界を超えていた。3月上旬に入ってからは自宅静養の日々が続き、ツアーを断念せざるを得ない状況の中でも、同年4月17日に自らの故郷である横浜に竣工した横浜アリーナのこけら落とし公演が予定されていた。この舞台に立つことに執念を見せるひばりは「私は『横浜アリーナ』の舞台に立ちたい。ここでの公演だけは這いずってでもやりたい!」と頑として譲らず、母の体調を案じて公演の中止を迫る和也に「ママは舞台で死ねたら本望なの!余計な口出ししないで!!」と突っぱねるも、和也は「あんたが死んじゃったら、残された俺は一体どうするんだ!!」と言い返すなど、度々口喧嘩をしていたという。その口喧嘩の日々が書かれた直筆の日記が、今も特番で公開されることがある。
その頃、石井ふく子の紹介で近所の診療所の医師に診察を仰いだが、指先や顔色の青ざめたひばりが診療室に入ってきた姿を目の当たりにしたその医師から、ひばりは肺の状態の説明も受け、専門医のいる病院への入院を強く勧められた。そして3月9日に数時間、静養中の自宅を訪れた診療所の医師から強い説得を受けると、ひばりは椅子に腰かけながら真正面を向いたまま涙を流し、何かを悟るかのように長い時間の沈黙があったという。その沈黙の後、ひばりはついに再入院の決断を下した。
3月中旬にひばりは再度検査入院した後で一時退院、3月21日にはラジオのニッポン放送で『美空ひばり感動この一曲』と題する、10時間ロングランの特集番組へ自宅から生出演した。番組終盤には自ら「ひばりに引退は有りません。ずっと歌い続けて、いつの間にかいなくなるのよ」とコメントした。結果的に歌以外ではこのラジオ出演が美空ひばりにとって生涯最後のマスメディアの仕事となった。ラジオ生放送終了直後、体調が急変したため順天堂大学医学部附属順天堂医院に再入院となった。
再入院から2日後の1989年3月23日「アレルギー性気管支炎の悪化」「難治性の咳」など呼吸器系の療養専念のため、横浜アリーナのこけら落としコンサートを初めとするその他全国ツアーを全て中止し、さらに歌手業を含めた芸能活動の年内休止が息子の和也から発表された(再入院当時「間質性肺炎」の病名は公表されなかった)。和也は本当の病名をひばり本人には最期まで伏せていたが、ひばりは3月上旬に診察を受けた際に医師から間質性肺炎の説明を受けていた。しかし和也にはずっと知らないふりをして過ごしていたという。なお、闘病生活を書き記したひばりの付き人の記録に「コメカミの血管が破れそうにドキドキする」とあった。間質性肺炎を発症した原因は「不明」とされ、治療に有効とされているステロイドホルモンは肝硬変の症状も出ていたひばりに対しては副作用の懸念からほとんど使えなかったという。
その後もはっきり報道されない容態から「もう歌えない」「復活は絶望的」などと大きく騒ぎ始めるマスコミに対し、ひばりは入院中の5月27日に再入院時の写真などと共に「麦畑 ひばりが一羽 飛び立ちて… その鳥撃つな 村人よ!」とのメッセージを発表した。さらに「私自身の命ですから、私の中に一つでも悩みを引きずって歩んでいく訳には参りませんので、後悔のないように完璧に人生のこの道を歩みたいと願っているこの頃です」などと録音した肉声テープを披露。だが2年前の入院時と比較するとひばりの声は殆ど張りがなく、弱々しいものであった。結果的にこれがひばり本人が発した生涯最後のメッセージおよび肉声披露となった。
それから2日後の5月29日にひばりは病室で52歳の誕生日を迎えた。同じ頃ひばりの実妹・佐藤勢津子は、看病していた時に「突然、お姉ちゃんがポロポロと泣き出してしまって…『勢津子、私はまだ生きられるの?』って。『何言ってるの、まだ52歳でしょ?これからも頑張って生きなきゃ駄目よ!』って励ましたら、姉ちゃんは『そうだね、和也を独り遺して死ねないよね。頑張るわ』と、珍しく私の前で弱音を吐いた」と述懐していた。
しかし、誕生日から15日後の6月13日に呼吸困難を起こして重態に陥り、人工呼吸器がつけられた。ひばりの生涯最後の言葉は、順天堂医院の医師団に対して「よろしくお願いします。頑張ります」だったという。また和也が死の数日前に「おふくろ、頑張れよ」「大丈夫だよ」と声を掛けると、ひばりは最期を覚悟したのか両目に涙を一杯溜めていたと、後に和也が語っている。
そして最後のステージから136日後、再入院から3ヶ月後の1989年6月24日午前0時28分、特発性間質性肺炎の悪化による呼吸不全併発のため、和也らに看取られ死去した。52歳没。
6月25日に通夜、翌26日に葬儀がひばり邸で行われ、芸能界やスポーツ界、政界からも多数の弔問があった。ひばりの棺を乗せた霊柩車がひばり邸を出る際には、多くのファンが沿道を埋め尽くし、彼女の死を悼んだ。7月22日に青山葬儀所で行われた葬儀には当時最高記録の4万2千人が訪れた。喪主は和也が務め、葬儀では萬屋錦之介・森繁久彌・中村メイコ・王貞治・和田アキ子・とんねるずの石橋貴明が弔辞を読み上げ、北島三郎・雪村いづみ・森昌子・藤井フミヤ・近藤真彦などひばりを慕った歌手仲間が『川の流れのように』を歌い、ひばりの霊前に捧げた。戒名は、慈唱院美空日和清大姉(じしょういん みそらにちわせいたいし)。墓所は、横浜市営日野公園墓地にある。菩提寺は、港南区の唱導寺。
美空ひばりの通算レコーディング曲数は1,500曲、オリジナル楽曲は517曲であった。
復帰第一弾として発表した「みだれ髪」は福島県いわき市の塩屋岬を舞台としており、その縁で塩屋埼灯台近くには歌碑、遺影碑、銅像などが建つ「雲雀乃苑」が整備されている[51]。この地には1988年10月2日に「みだれ髪歌碑」が建立されていた[51]。その後、1990年5月26日に「美空ひばり遺影碑」が建てられた[51]。そして周辺の道路420メートル区間もいわき市が整備を行い「ひばり街道」として1998年に完成した。さらに2002年5月25日には「永遠のひばり像」が建立された[51]。その後、2024年春に京都市の東映太秦映画村内にあった「京都太秦美空ひばり座」が老朽化で取り壊されたのに伴い、その入口にあったブロンズ像が同年10月17日に雲雀乃苑へ移設された[51][52]。
1989年8月21日、35枚組・517曲を収録した『美空ひばり大全集 今日の我れに明日は勝つ』がCDとカセットテープで発売され、1989年11月20日現在で6万3000セット(日本コロムビア調べ)が販売された[53]。定価6万円(税込)と音楽ソフトとしては高額ながらオリコンでは最高9位(1989年9月4日付アルバムランキング)を記録した[54][55]。
1989年には、ひばりの音楽ソフトが年間120億円(日本コロムビア調べ、以下同じ)を売り上げた[56]。1997年時点でも年間で約15億5000万円を売り上げ[56]、日本コロムビア所属の演歌歌手としては現役歌手を抑えて最も売り上げが多い[56]。
1993年4月、京都市の嵐山に「美空ひばり館」が開館、愛用品のコレクションなどが展示され、ファンや観光客が訪れていた。しかし来館者数の減少により、2006年11月30日に一旦閉館。その後運営主体を「ひばりプロダクション」に変更し、2008年4月26日に「京都嵐山美空ひばり座」と改名の上リニューアルオープンした。2013年4月26日、開館5周年イベントが催され、この場でひばりプロ社長・加藤和也から同年5月31日限りで閉館することが発表。同館は5月31日限りで閉館された。
しかし、「京都嵐山美空ひばり座」の閉館からおよそ半年が経った2013年10月12日には同じく京都市にある東映太秦映画村の映画文化館の1階に、「京都太秦美空ひばり座」が改めてオープンした。館内には舞台衣装、台本などのゆかりの品々が約500点並び、東京ドームでの「不死鳥コンサート」で着用したドレスや、初めて東映映画に出演した1949年の『のど自慢狂時代』以降の全93作品の復元ポスターなどが展示されている[31][57]。さらに、2014年5月には東京都目黒区のひばり邸の一部を改装し、『美空ひばり記念館』として改めてオープンさせることが発表され[58]、同年5月28日に女優の中村メイコ、タレントのビートたけし、歌手の郷ひろみらを最初の客として迎えて、「東京目黒美空ひばり記念館」のオープニングセレモニーが行われた[59]。
1999年、舞台『元禄港歌 -千年の恋の森-』(1980年上映)劇中歌としてレコーディングされた「流れ人」が、ひばりの死後初のシングルとして発売された。1998年12月、同舞台の再演の準備中に当時録音された音質の良いテープが日本コロムビアで発見されたものである[60]。
2005年公開の映画『オペレッタ狸御殿』(鈴木清順監督)では、デジタル技術でスクリーンに甦りオダギリジョーやチャン・ツィイーと共演した。
2011年には、23回忌で「美空ひばり トレジャーズ」(1月19日)や「ひばり 千夜一夜」(8月3日)などを発売した。
『美空ひばり トレジャーズ』は、日本コロムビアの創立100周年の記念も兼ね発売されたトレジャーブックである。この商品には、ひばりのエピソード全69話からなる本や写真133枚(未公開を含む)、サインや手紙のレプリカが48点、未発表曲「月の沙漠」を含む計30曲が収録された2枚組のCDが収められている。1万セット限定で1万3800円で発売された。
『ひばり 千夜一夜』は、1,001曲の楽曲を収めたCD56枚&DVD2枚の12万円のセットである。構成は、1949年のデビュー曲「河童ブギウギ」から1989年のラストシングル「川の流れのように」・「あきれたね」までの「シングルコレクション」が32枚、580曲。ジャズや民謡の「カバー・コレクション」が17枚、304曲。ほかにも「オリジナル曲」が5枚、93曲。「カラオケDVD」が2枚、24曲で1,001曲である(ライブ音源CDを除く)。「森英恵デザイン 特製赤いコサージュ(不死鳥コンサート時の物のレプリカ)」や「特製写真立て(不死鳥コンサート時の赤い衣装のポートレート付)」、「特製CDキャリングケース(携帯ディスクケース)」、「カラー写真集(全96ページ)」、「別冊歌詞集(2冊)」、「三方背収納BOX」、「おしどり・イン・ザ・ナイト(12曲入りCD)」、「あの歌・この歌〜美空ひばり昭和を歌う〜(21曲入りCD)」が特典であった。単一歌手が1,000曲以上を収録したBOXを発売するのは初めてで、最大収録数である。
2012年、1950年に行われた第100歩兵大隊二世部隊戰敗記念碑建立基金募集公演のアメリカ合衆国サクラメント公演の録音が発見された。2013年09月18日には『美空ひばり&川田晴久 in アメリカ 1950』のタイトルでCDが発売された。この記録は、日本人による海外ツアーの先駆けの様子を記録した資料としても貴重である。
2013年には、ひばりが芸能生活35周年として1981年に出演したテレビ番組『ザ・スター』を映像補正の上、編集した作品『ザ・スター美空ひばり』が公開された。フジテレビの倉庫で発見された、同番組の未放送部分を含むマスター収録テープをデジタル技術で復活させ、ひばりの代表曲や同番組でのみ披露された未発表曲「ウォーク・アウェイ〜想い出は涙だけ〜」を歌いあげるひばりの姿がスクリーンで上映された。
2016年5月29日、未発売音源の「さくらの唄」をCD化し発売。1976年7月1日に発売されたシングルとは別バージョンとなっている[61]。
2019年5月29日の日本コロムビアの発表によると、レコード・CDなどの物理メディアの総売上(2019年5月1日時点での累計出荷枚数[62])は約1億1700万枚に達する[63][64]。この数字にはインターネット配信での売上は含まれていない[63]。内訳はアナログレコードがシングル4850万枚、アルバム2150万枚。カセットテープが2650万枚、8トラックテープが900万本、CDが1150万枚である[64]。日本を代表する伝説的ボーカリストとして、多くのアーティストやタレントに影響を及ぼし、企画盤や未発表曲が定期的に発表、ビデオ上映コンサートも開催されるなど、永遠の歌姫として根強い人気を獲得している。
2019年9月29日放送のNHKスペシャルでは、過去の膨大な映像や音源を元に、最新のAI技術を用いてひばりのライブを再現する試みが行われた。4K・3Dの等身大のホログラム映像でステージ上に“本人”を出現させ、ヤマハが開発した深層学習技術を用いた歌声合成技術『VOCALOID:AI』により新たに制作された楽曲「あれから」(作詞:秋元康・作曲:佐藤嘉風)を歌わせる様子が放送された[65][66]。CGによるひばりの振り付けは天童よしみのモーションを元にしている。
2019年12月31日放送のNHK紅白歌合戦でも、上記AIによるライブが行われた[67]。
没後の1989年7月、長年の歌謡界に対する貢献を評価され、女性として初めてとなる国民栄誉賞を受賞(歌手としてはひばりと藤山一郎の2人のみ)し、息子の加藤和也と付き添いとして萬屋錦之介が授賞式に出席した。その後も和也はひばりプロダクションの社長として、ひばりの楽曲管理や様々な顕彰活動(下記)に関わることになった。
「彼女が凄いのは『縁起が悪い』を歌詞にしてしまう所ですよね。普通だったら恥ずかしくて歌えないのに、歌唱力をもって照れずに歌うから笑えない。人に聞くとひばりさんは面倒見がよかったらしいんですよね。つまり、自分の後継者や崇拝者を作れない人は、それ以上大きくなれないんじゃないかと。ロックだろうと演歌だろうと外人だろうと全部同じですよ。そういった意味であの人は偉大だったと思います」[68](石井竜也)
「世界一ピッチが良い人です。マトリックスよりピッチが安定している」[68](奥田民生)
ひばりが作詞し、生前に曲がついたものは22曲ある。そのうち18曲は自ら歌唱し、『花のいのち』『太陽と私』『木場の女』『ロマンチックなキューピット』『真珠の涙』などの作品はシングル発売された。
1966年に『夢見る乙女』を作詞し、可愛がっていた弘田三枝子へ提供した。ペンネームで「加藤和枝」の名前を使用した。その際ひばりは敢えてシングルB面での発売を要請したという。また、『十五夜』『片瀬月』『ランプの宿で』の3曲は生涯に渡って実妹のように可愛がっていた島倉千代子に提供された。
『夢ひとり』をイルカが作曲し、ひばりの歌唱で1985年5月にシングルがリリースされている。後年イルカ盤も制作され、2002年5月にマキシシングルとしてリリースされた。
「草原の人」をつんくが作曲し松浦亜弥が歌った(2002年12月CD化)。筆名は「加藤和枝」。またこの表題の松浦主演ミュージカル(2003年2月7日 - 2月23日)も演じられた(DVD化)。さらに派生してこの表題の美空ひばり評伝本(ISBN 4-7958-3952-2)も出版された。
2010年に生前交流があった岡林信康が、ひばりが岡林に送った1通の手紙に書かれていた歌詞から、「レクイエム-麦畑のひばり-」(作詞:美空ひばり/補作詞・作曲:岡林信康)という楽曲を制作し、岡林のカバー・アルバム『レクイエム~我が心の美空ひばり~』に収録された。
1980年代、少年時代の和也がビートたけしの大ファンだったため、テレビでたけしと共演した際「息子が会いたがっているのよ」と強引に自宅へ連れ帰ったことがある。その一部始終もテレビで放送された。とんねるずも大ファンだったことから、和也の誕生会にとんねるずの二人を呼んだというエピソードがある。さらに、前述のように『とんねるずのオールナイトニッポン』の生放送中にも急遽出演し、「お嬢」「タカ」「ノリ」と呼び合えるほどの親交を深めた関係であった。
現在(2018年時点)、ひばりプロダクションの代表取締役社長を和也が務める。 コロッケが、小学生時代の和也に接するひばりのものまねをしたことがあった。 「ダウンタウンDX」で和也が誕生日に当時ファンだった仮面ライダー全員がひばりの力で家に集合し圧巻だったと語った。
下記に主な代表作を記述する。詳細は 公式サイト の全映画出演作・ディスコグラフィリストを参照。
など多数。
没後にレコードやCDのアルバム盤に収録された音源を新たにカップリング(選曲)したシングルの発売が継続的に行われている。
・美空ひばり Symphonic Works 〜 不死鳥再び (2022年)
ひばりは1954年・第5回、および1957年・第8回から1972年・第23回までの16年連続、通算17回出場し(その後1979年・第30回も特別出演)、うち13回トリを務めている。通算17回の出場という記録は、1972年当時の紅白歌合戦における史上最多記録である[注釈 12]。
なお、ひばりには初出場以前の1953年1月・第3回と同年大晦日の第4回にも出場のオファーがかけられていたが、第3回は正月興行、第4回は年末の公演との兼ね合いから、ひばりサイドが出場を辞退している。また、出場していない1955年・第6回と1956年・第7回は、ラジオ東京テレビ(現・TBSテレビ)の「オールスター歌合戦」に出演するため、出場を辞退している。
上述の通り1973年・第24回では事実上の落選となったが、1975年・第26回以降、ひばりが死去する1980年代後半まで、NHKは幾度となくひばりに対して出演オファーを行っていた。その結果、1979年・第30回では「特別出演」という形で一度限りながら、紅白への復帰が実現している。