大村 崑(おおむら こん、本名:岡村 睦治(おかむら むつじ)、1931年〈昭和6年〉11月1日[1] - )は、日本のコメディアン・俳優・タレント。兵庫県神戸市長田区[1]東尻池町出身(または兵庫区新開地出身とする場合もある[1])。大阪府箕面市在住。血液型はO型。
昭和30年代を中心としたテレビ黎明期の軽演劇で爆発的な人気を得て、「崑ちゃん」の愛称で広く大衆に親しまれた。
来歴
4人兄妹(弟1人・妹2人)の長男として生まれる[1]。父親は写真館、母親は電気店を営む裕福な家庭で育った[1]。幼い頃はよく父に連れられて芝居小屋や劇場に行っていた関係で、バイトがてらに子役として何度か舞台に上がったことがある[注釈 1]。子供の頃は虚弱体質で学校も休みがちだったが、当時から芸能の世界に憧れていた。
9歳の時、突然父を腸チフスで亡くしたことで一家離散となり[注 1]、父の兄(伯父)夫婦に引き取られて育った[1]。育ての親である伯母から厳しく育てられ、ある日平手打ちされて左耳の鼓膜を損傷し、以来左耳がほぼ聞こえなくなった[1]。左目が弱視で小学2年生からメガネをかけ始めた[1]。
神戸市立第一機械工業学校(現・神戸市立科学技術高校)卒業後、19歳の時に肺結核に罹り右肺(左肺とする説もある[1])を切除、医師からは「あなたは40歳まで生きられないだろう」と告げられる[3]。「限られた命ならば、やりたいことをやりたい」と、亡き父の影響で好きだった喜劇の世界へ足を踏み入れることを決意する。
その足がかりとして1950年(20歳)に、神戸のキャバレー「新世紀」のボーイになり華やかな世界に飛び込んだ。この仕事でお金持ちや怖い客など様々な人と接し、どんな相手にも機転を利かせたりユーモアの大切さを実感した経験が、後に喜劇役者の素地となった。
1953年、当時関西を中心に活躍していた人気司会者・大久保怜の一番弟子となって師事し、司会の勉強をした[1]。1957年、大阪梅田の映画館「北野劇場」専属コメディアン(喜劇でのボケ役)としてデビューし、舞台に立つ[4]。この時、東宝専属で北野劇場はじめ東宝系の映画館や、北区角田町のOSミュージックホールなどで台本を書いていたコント作家・演出家こそ、その後長きにわたり大村の出演作を生み出した花登筺だった。北野劇場の舞台で「ひょうきんなキャラクターと覚えやすい名前」もあって頭角を現し始め、「おもろいやつがいる」という評判が花登の目に留まった。大村は林正之助の懇願でごく一時期に吉本興業所属タレントとなったが、その時の林と大村との橋渡し役も花登が務めた。ただし大村は吉本興業との間でギャランティの問題が生じ、ごく短期間で吉本興業のマネジメント契約を終えた。大村の吉本興業時代のマネージャーは後に同社の社長となる中邨秀雄であった。
芸名は、師匠である大久保怜の命名により大久保と自分の本名の岡村を合わせて、まず姓が決まった。続けて大久保から、「お前はよう喋るから、めでたそうな(縁起が良さそうな)名前がいい」という理由から、昆布[注 2]の「昆」を拝借して「大村昆」と命名された。山冠の無い「大村昆」だったが、台本に「大村崑」と誤植されたのを大村自身や大久保が共に気に入り[注釈 2]、以後、現在に至るまでそのまま芸名として使い続けている[5]。この他、自身も大久保も紺色が好きだったから「崑」になったという一説もある[6]。
花登に目をかけられたことで1958年頃に当時黎明期だったテレビに進出し、彼の脚本『やりくりアパート』[注 3](1958年、大阪テレビ→朝日放送)、『番頭はんと丁稚どん』[注 4]に出演し、知名度をあげる。
1959年、花登が東宝から独立。松竹の支援の下、雁之助・小雁、由美あづさらとともに『劇団・笑いの王国』[注 5]の結成に携わり、座長に就く。
同年、『笑いの王国』が全面的に関わった『頓馬天狗』(読売テレビ / 東宝テレビ部[注 6])の主役に抜擢され、人気を決定づける。とぼけたキャラクターながら、秘薬を飲むと抜群の剣の腕となり、左手だけの「片手抜刀」など、毎回身軽でトリッキーな殺陣をみせる大村の「尾呂内南公」は当時の子供たちを中心に絶大な支持を受け[注 7][7]、「崑ちゃん」の知名度を全国区に広めた。本作で共演した三木のり平からヒントを得た鼻眼鏡(「ずれ落ちたロイド眼鏡」)やとぼけた芸風は、以降大村の代名詞となった。元々映画館の幕間コントの演者に過ぎなかったが、テレビを通じて上方のお笑いを中田ダイマル・ラケット、藤山寛美、藤田まことらと共に全国に波及させるきっかけを作った。黎明期でまだまだテレビ番組自体が少ない中、多い時で週に11本のレギュラーを抱えるほどの人気ぶりだった。
1963年、劇団内では「人気の崑、実力の雁之助」という2枚看板が成立していたが、雁之助はその演技力を評価されながらも二番手に甘んじていることへの不満などから、次第に花登や大村と距離を置くようになり、やがて軋轢を生む。大村とは気が合う仲だった弟・小雁も兄に追従していった。また「主宰者の妻」として看板女優の座に君臨する花登の妻、由美あづさの横暴など、座員間の人間関係の不協和音が表面化しはじめたことから、花登は劇団解散を決意する。
1965年、『日清ちびっこのどじまん』(フジテレビ系)の2代目司会者に抜擢[注 8]。『頓馬天狗』やCMで得た、子供視聴者からの絶大な人気にも支えられ、4年間にわたり司会を務めた。『ちびっこのどじまん』終了後は、それを引き継ぐ形で1971年、日本テレビ『おはよう!こどもショー』の1コーナーとして『こんちゃんのトンカチうたじまん』がスタート。こちらも4年半にわたる人気コーナーとなった[注 9]。こうした“子ども向け番組・イベント”などにも多く関わっており、1970年日本万国博覧会「こどもの祭り」を演出・司会。1981年には神戸ポートアイランド博覧会で「こどもの世界の祭り」の制作、演出、司会を担当した。また玩具メーカー・エポック社のテレビコマーシャルにも出演して子供たちに人気を博した。
1970年、花登の原作・脚本による『細うで繁盛記』にて主人公・加代(新珠三千代)を陰から支える理解者の一人である板前・善三役で出演し、コミカルな演技から脱却し、渋い演技で新境地をみせた。
1972年には花登が新たに結成した『劇団「喜劇」』に参加。再び劇団の主軸を支えることとなる。
1974年、劇団主宰者・花登と女優・星由里子の不倫問題が発覚。大村は花登と同様に、花登の当時の妻・由美にも恩義があり、妻・瑤子も由美と親しい仲であったため、板挟みの状態で、花登の行動を容認できない状況の中、苦渋の選択を強いられた。結局、花登に劇団退団を申し出、駆け出しの頃から築き上げた花登との「師弟関係」ともいうべき信頼関係は終わりを告げた[注 10]。
以来、主な活動の場をコメディーや司会から、俳優中心にシフト。飄々とした持ち味以外にも、激しい気性の役どころなどもこなし、演技の幅を広げながらキャリアを積んでいる。その後は情報番組のコメンテーターや、講演活動などもこなしている。
1989年、58歳の時に大腸癌を患っているが、内視鏡手術で切除[8]。その日のうちに『午後は○○おもいッきりテレビ』の生放送にも出演していた。
2018年、『西郷どん (NHK大河ドラマ)』にて大河ドラマ初出演して話題となった。
2023年公開の映画、『SPELL〜呪われたら、終わり〜』に主演(寺西優真とのダブル主演)。撮影時は90歳であり、日本映画最高齢主演男優とされた[9][10]。
92歳の頃、歌手で俳優の高島レイラとのデュエット曲「ありがとうの花」をリリースした[注釈 3]。
人物
愛妻・瑤子
妻・瑤子(旧姓・橘)との出会いは1959年7月。瑤子がテレビ番組のオーディションでディレクターを訪問した際、たまたまその場にいた大村と目が合った事がきっかけだったという[注 11][注釈 4]。二人の関係は早くからマスコミが嗅ぎ付け、報道されていたが、この時、雁之助・小雁兄弟にも彼女が居ることを知っていた[注 12]花登は、これ以上のマスコミ報道の過熱を回避したい意向もあり、よみうりテレビに「結婚式のテレビ中継」の企画を打診する一方、「劇団のデモンストレーションにもなるから…」と本人たちを説得。こうして1960年3月1日、当時としては前代未聞に等しい、3組合同による『テレビ結婚式』が放送された。
瑤子は、片肺を失いながらも必死に働く大村を日々献身的に支え続けた。二人の出会いのきっかけとなった「愛の讃歌」を瑤子が歌うと、その当時のことを思い出し、今でも大村は涙を流すという。しかし、結婚生活が全て順風満帆だったわけではなく、結婚して10年を経た頃、大家族を切り盛りしなければならないストレスと、多忙を極める夫とは会話もままならない、というすれ違いの生活から遂には“置きテープ”を残して発作的に家出を決行し、知人を頼って単身渡米。橘家と双方で騒動となり、紆余曲折の末、両家で空港まで迎えに行くという「事件」を起こしている。この出来事以降、大村は家事を手伝い、自分の身の回りの事は自ら行い、夫婦のコミュニケーションに努めるなど模範的な夫へと「改心」し、夫婦の仲はより深まったとしている[11]。
瑤子は日本にネイルアートを普及させた功労者の一人としても知られている。1985年、その美しさに魅せられ、本場アメリカで技術を習得。その後ネイルサロンを開設し、後進の育成にも努めた。1986年には「徹子の部屋」に出演(2月27日放送分)。司会の黒柳徹子にインタビューを受けながら、エアブラシで黒柳の10指にアートを施し、その技術を紹介している[12][13]。元・日本ネイリスト協会・名誉会長[14]。1996年の衆院選に自民党から大阪府第8区に「大村瑶子」名義で立候補する[15]も落選。その後2000年にネイル業界から引退。2001年以降、イタリア語とカンツォーネの勉強のため、毎夏イタリアへ留学している。2003年からは本格的に本場のカンツォーネ・ナポレターナを学ぶためナポリに毎年渡航、関西を中心にカンツォーネ歌手・岡村瑤子として活動している。
大村との間には2男を儲け、長男・純治は日本でも有数のブルース・リーマニア、グッズコレクターとして知られており、次男・政治は映像クリエーターとして活動している。また次男の妻は元・宝塚歌劇団男役で初代宙組組長だった、大峯麻友である[16]。
2010年3月1日には結婚50周年を迎え、「大村崑と瑤子の金婚を祝う会」が盛大に催された[17]。
CMキャラクターとして
ダイハツ工業提供の『やりくりアパート』では三輪自動車・ミゼットの生CMで佐々十郎、茶川一郎と車名を連呼し、売り上げに貢献した。この当時「コンちゃんミゼット倒れているよ」と声をかけられ、しばしば路上のミゼットを起こしに行く事もあったという。
大塚製薬とは特に縁が深い。きっかけになった『頓馬天狗』は大塚製薬の一社提供で、役名もオロナイン軟膏をもじった「尾呂内南公」(おろない なんこう)。その後もオロナミンC(1965年から放映)等の大塚製薬の各CMに出演。実は本CMの出演を依頼された際、先述の若い頃の右肺摘出などの影響で自ら「健康的なイメージがない」として当初断っている[注釈 5]。しかし、大塚製薬側が諦めずに3回も交渉にあたってくれ、最終的に妻・瑤子の助言により引き受けることになった。本CMは、「姓はオロナイン 名は軟膏」「うれしいと眼鏡が落ちるんですよ」「オロナミンCは小さな巨人です」等のCMコピーで知られる。昭和40年代には街中に「ソフト帽にずれ落ちた眼鏡姿」でオロナミンCを手にする大村のホーロー看板が設置された[18]。その看板のインパクトは抜群で、大人から子どもまで知らないものはいないまでのものとなった。創業者の大塚家とは親戚同様の付き合いであるという。大塚製薬はもともと徳島県発祥の企業であることから、毎年夏に行われる阿波踊りには大塚関連の企業連に夫婦で参加、大村はこれを30年以上続けている。
このほか、1970年代に玩具メーカー・エポック社のCMキャラクターとしても活躍し、「ちびっ子のアイドル」と称されていた。
先輩・三木のり平
喜劇役者の先輩である三木のり平とは、メガネを掛けた顔立ちや芸風などが似ていることから間違えられることがあった。実際、ずらしたロイド眼鏡は三木をヒントに使用し始めたが、三木は大村を弟分として可愛がっており、『とんま天狗』では大村の父親役で出演した際に「これから先も鼻眼鏡をかけてやるなら、やっていいよ」と芸を大村に譲り、これ以降、眼鏡を使用することを一切辞めた(トレードマークを大村に譲った理由については、後年「ボクはね、ひとつ何か当たると、それをすぐ飽きちゃうんだ」と語っている[19])。
その他
1992年にスタートした『山村美紗サスペンス 赤い霊柩車シリーズ』での山村紅葉とのコミカルな掛け合いで魅せる[1]。傍ら、「子育て」「家族・夫婦関係」「健康」などに関する講演活動やコメンテーターなどを務めている。
同シリーズで演じた秋山隆男役は原作では真面目なキャラクターで、ドラマの台本では怒ってばかりの人物だった。演じるに当たって「これだと秋山というキャラに面白味が生まれない」と山村に掛け合うと、「何言ってんですか。あの役を面白くしてもらうために大村さんにオファーしたんです」と打ち明けられた。大村が秋山役に喜劇のエッセンスを入れたことで、同シリーズ屈指の人気キャラクターになった。
先述の若い頃に医師の「40歳まで生きられない」旨の言葉を受けていたことから、40歳を迎えてからは内心「明日死ぬのかな」とビクビクしており、毎朝目覚めるたびに「良かった。生きている」という日々を過ごした。41歳の誕生日を迎えたことで、ようやく「早死にする不安はなくなった」と安堵して短命宣告の呪縛から解放された。
元々お酒は飲まない[1]。以前は喫煙者だったが、ある時山本陽子に禁煙を勧められて辞めた[1]。若い頃は賭け事が好きで時々やっていたが、結婚を機にスパッと辞めた[1]。
歯の健康を気遣っており、2024年時点で入れ歯や虫歯は1本もなく歯槽膿漏もない。このため、過去に日本歯科医師会が進める「8020運動[注 13]」で表彰されたことがある[1]。
趣味
趣味・特技は相撲観戦、眼鏡の収集[1]、日本舞踊、殺陣。
神戸育ちで田舎を持たなかった大村は「自分の田舎を持ちたい」との夢を長年抱き続け、これを実現するため奔走。阪神・淡路大震災の影響で耐震構造を取り入れるなど中断を余儀なくされたが、1999年5月1日に兵庫県篠山市に芝居小屋付きの母屋「大村座」を中心に、資料館、屋外ステージなどが併設されたコミュニティ「崑の村」を総費用1億3000万円[20]で建設[21]し、夢を実現させた。自分だけでなく都会に暮らす人、地元の人も一緒に楽しんでもらえる「田舎」を目指しながら、タレント・芸人養成の拠点、四季の表情が豊かで風光明美な景観を活かしたドラマなどの撮影場所協力、ミゼットなどのオート三輪のレンタル[22]など、多角的な運営を進めたが、6年目からは赤字経営となり、止むなく開村から10年後の2009年9月23日をもって閉村(経営終了)。2016年現在、村は売家中になっている[23][20]。
この他、日本でも有数の眼鏡コレクターであり、そのコレクションは福井県鯖江市の「めがねミュージアム」で見る事が出来る[24]ほか、芸能界随一の好角家としても知られ、両国国技館以外の本場所では砂かぶり席で観戦している様子がNHKの相撲中継でそのまま放送された事もある。力士との交流もあり、恵那櫻徹(押尾川部屋、1994年引退)と親交が深かったほか、上述の「金婚を祝う会」では高見盛精彦(東関部屋、2013年引退)が招かれスピーチを述べている。
舞台公演で全国各地を巡演していた頃は、公演先の各地にすぐ通院できる「かかりつけ医」的な病院を確保するようにしていたが、いつしかその診察券がコレクションのように溜まり、趣味の1つになっていた。
腹部周りを引き締めたいと考えるようになったことをきっかけに、86歳だった2018年春頃より夫婦でライザップのジムに通って[注釈 6]筋肉トレーニングを継続している[25]。
芸能人との交友関係
ザ・ドリフターズのリーダー・いかりや長介とは同じ生年月日であった縁で交流があった。大村が東京での仕事でいかりやと出会って交流が始まり、その直後に自身の誕生日が大村と同じと言うことを知ったいかりやが、大村に電話を掛け、その会話上で「誕生日が全く同じなんだってね?ではどっちが早く生まれたか調べようぜ。」と言われたことで調査を開始したが、大村といかりやが誕生した時間を大村の母に聞いてみたところ、大村が朝方に、いかりやが14時55分に生まれたことが判明した。これを機にいかりやは大村を兄貴と慕うようになり、以後、年間に数回程度ではあったが、いかりやの死去までの間、主にプライベートで交流していた。その反面、仕事面での互いの交流はほとんどなかったものの、大村は主に関東方面で仕事をする際の相談相手がいかりやであった一方で、いかりやにとっては数少ない関西在住の友人であった[26]。
チャーリー浜は、顔が大村に似ていたために、無名時代『頓馬天狗』の殺陣のシーンでは一部代役を行った経験があり、また最終回では、頓馬天狗に間違えられて捕らえられる者の役で、台詞付きで出演もしている。それが縁で後に舞台で「ザ・コンチャンズ」として共演したこともある。浜自身、大村を師匠と呼んで慕っており、その際に大村から受けた「下品なネタはするな」「シモネタはするな」「舞台で弱者をいじめて笑いを取るな」の教えを終生、頑なに守った[27]。
受賞歴・その他
出演
テレビドラマ
映画
司会
その他
ラジオ番組
CM
※以下のCMは、赤い霊柩車シリーズの1級葬祭ディレクター・秋山役として、葬儀会社へ出演したもの。以下各地のCM内容は同じものである。
音楽作品
シングル
- サーカスがやってくる/丁稚マンボNo.カックン(1960年9月)※A面の歌唱は和田弘とマヒナスターズ、B面の歌唱が大村崑、芦屋雁之助、芦屋小雁‐松竹映画「番頭はんと丁稚どん」主題歌
- とんとんとんまの天狗さん/らーめん親子(1960年11月)B面の歌唱は芦屋小雁 - YTV「頓馬天狗」主題歌
- ゴッツイ節/こぼんちゃん(1964年11月)※A面共演かしまし娘、佐々十郎、佐山俊二、由利徹、B面共演かしまし娘 - 日活映画「大日本シリーズ」主題歌
- おへそのうた/めがねのうた(1967年)- フジテレビ「日清ちびっこのどじまん」より
- こんちゃんのトンカチうたじまん/ちょっとモンダイだ!(1972年7月)‐NTV「おはよう!こどもショー」より
- キン・コン・カン(1970年2月)※共演谷幹一、石井均‐東京12チャンネル放映「〈爆笑愚連隊〉キン・コン・カン」主題歌(キンカンソング)
- 細うで繁盛記/伊豆どんと節※A面は新珠三千代の語り、B面の歌唱が大村崑、高島忠夫、谷幹一 - YTV「細うで繁盛記」より
- お風呂のマンボ/いつもあいつと(A面・B面共に作詞:阿久悠、作曲:小林亜星、編曲:筒井広志)
著書
- 『お父さん 親してますか!—崑ちゃんの“ふれあい”子育て論』日本実業出版社エスカルゴ・ブックス、1986年
- 『崑ちゃん ボクの昭和青春譜』小泉カツミ聞き書き 文藝春秋、2016年
- 『崑ちゃん90歳 今が一番、健康です!』青春出版社、2021年11月30日、ISBN978-4-413-23226-5
脚注
- 注釈
- ^ 弟は近所の家の養子にもらわれ、4歳下の妹は母の妹(叔母)にもらわれ、乳飲み子だった末の妹は母に育てられた。
- ^ 「昆布は縁起物」ということについて、詳しくは右記リンクを参照。[1](「シャディ」のウェブサイト)、[2](「こんぶネット」)
- ^ 茶川一郎、佐々十郎とともに出演し、大村は学生役。
- ^ 茶川、佐々、芦屋雁之助、芦屋小雁らと共演し、大村は“丁稚の崑松”役。
- ^ 1933年、古川ロッパ、徳川夢声らによって結成され1943年まで活動した軽演劇劇団『笑の王国』とは無関係である。
- ^ そもそも花登の劇団結成は『やりくりアパート』のレギュラーだった子役・中山千夏の東京・芸術座での舞台起用に伴う処遇を巡り、花登と東宝との関係が悪化し、松竹の支援で結成に至ったものだったが、東宝側は「関係が切れるのは東京との関係で、関西は今まで通りに…」と完全な決裂とはならなかった。また、「東宝テレビ部」はテレビ制作プロダクションとして、独立性が高かったこともあり、キャスティングに際してトラブルは発生しなかった。
- ^ 2012年12月に死去した十八代目 中村勘三郎も、五代目 勘九郎の子ども時代『頓馬天狗』の大ファンで、放送当時、十七代目宅に招かれ、勘九郎とチャンバラをした思い出があるという。
- ^ これは初代司会者・桂小金治が「子どもが“惚れたはれた”を扱う大人びた歌謡曲を歌う事」に異議を唱え7回で降板したために、急遽大村が抜擢されたものであった。
- ^ 大村の司会降板後も「こどものどじまんコーナー」として継続された。
- ^ 花登は1983年に週刊朝日に連載し、没後に単行本化された『私の裏切り裏切られ史』(朝日新聞社、ASIN B000J79Q4U)の中で大村の事を「愛弟子」と表し、“愛情の裏返し”ともとれる痛烈な批判を著しているが、これに怒った大村はこの連載開始以降、花登に対して「師」という表現を一切使用しなくなった。
- ^ 瑤子は、ラジオ神戸(現在の「ラジオ関西」)で、『声のクイーン』という仕事をしていた。また両親は、大村のファンだったという。また大村によると、瑤子は、この日毎日放送のオーディションを終えた後、知り合いがいる読売テレビを訪れ、そこで大村らが番組の生放送を行っているので、観覧を薦められてスタジオに入った時に大村が見初め、放送後に瑤子が家族の為に大村にサインを求めたのが、交際のきっかけだったという。
- ^ 雁之助の最初の妻は元・OSミュージックのダンサー、夏丘梨枝。小雁の結婚相手は女性デュエットコーラス「ラブリーラークス」のメンバーの1人だった。
- ^ 日本歯科医師会や厚生労働省が推奨する「歯の健康を保って、満80歳で20本以上の歯を残しましょう」という啓蒙活動のこと。
- 出典
参考文献
- 「人間ドキュメント「80歳を過ぎてから筋トレに目覚め元気ハツラツ~大村崑」」『週刊女性』2024年9月3日号、主婦と生活社、2024年8月20日、36-42頁、JAN 4910203610943。
関連項目
外部リンク
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司会 | |
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人形声優 |
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特撮コーナー |
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| 行け!ゴッドマン& 行け!グリーンマン 登場怪獣 |
両作に登場 | |
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行け!ゴッドマンのみ登場 | |
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行け!グリーンマンのみ登場 | |
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アニメコーナー |
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のどじまん |
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小学生野球大会 |
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楽曲 | |
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関連項目 | |
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関連人物 | |
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