熱田神宮(あつたじんぐう)は、愛知県名古屋市熱田区神宮にある神社。式内社(名神大社)、尾張国三宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。宮中の四方拝で遥拝される一社。神紋は「五七桐竹紋」。古くから「熱田さん」と呼ばれて親しまれている。
名古屋市南部の熱田台地の南端に鎮座する。古くは伊勢湾に突出した岬上に位置していたが、周辺の干拓が進んだ現在はその面影は見られない[1]。
三種の神器の1つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)を祀る神社として知られる。なおこの剣は、鎮座の後も、盗難に遭ったり(「草薙剣盗難事件」を参照)、形代が壇ノ浦の戦いで遺失するなどの受難にみまわれている(「天叢雲剣」を参照)。諸説あるものの、草薙神剣の創祀は景行天皇43年[2]、熱田社の創建は仲哀天皇元年[注 1]あるいは646年(大化2年)[注 2]と伝わる。古くは尾張国(現愛知県西部地方)における地方大社として存在感を示し、中世以降は政治的・経済的に急速に台頭して、「日本第三之鎮守[5]」(伊勢神宮、石清水八幡宮に継ぐとする意)(『熱田明神講式』)、「伊勢神宮に亞(つ)ぐ御由緒の尊い大社」(『熱田神宮略記』)[6]とされるほどの国家的な崇拝を受けるに至る[7]。
建物は伊勢神宮と同じ神明造であるが、1893年(明治26年)までは尾張造と呼ばれる独特の建築様式だった(境外摂社の氷上姉子神社に尾張造の建築様式が残っている)[要出典]。
初詣には毎年200万人以上の参拝客が訪れる[8]。
主祭神である熱田大神について、熱田神宮は「三種の神器のひとつである草薙神剣を御霊代としてよらせる天照大神」とする[11]。すなわち、草薙神剣の「正体」としての天照大神をいい、いい換えれば、草薙神剣そのものが天照大神の「霊代(実体)」としての「熱田大神」である[12]。戦前までは、主祭神を「草薙大御剣神」(『熱田神宮略記』(1877年(明治10年)))[13]、「天璽草薙大御劔(あまつみしるしくさなぎのおほみつるぎ)」(『熱田神宮略記』(1939年(昭和14年)))[14]などとしながら表現上における正体と霊代の区別がなされていなかった。ただし、草薙神剣を天照大神とする捉えかたそのものは『熱田明神講式』(平安時代末期)にすでに現れる古いものである[注 3]。しかし、より古い『尾張国風土記』逸文には、日本武尊が宮簀媛に草薙神剣を手渡す際に自らの形影(みかげ)とするようにと言い残したとあり[注 4]、奈良時代には日本武尊を草薙神剣の正体とする見かたがあったともいわれる[17]。平安時代以降は、伊勢の皇大神宮(内宮)の祭神である天照大御神を草薙神剣の正体とすることが通説であり[18]、このことで伊勢と熱田は「一体分身の神」を祀る神社であり、日本国を支える2柱であるとさえされてきたのである[注 5]。
相殿には、天照大神・素盞嗚尊・日本武尊・宮簀媛命・建稲種命と草薙剣に縁のある神が祀られている。素盞嗚尊は、ヤマタノオロチ退治の際に、ヤマタノオロチの尾の中から草薙剣を発見し、天照大神に献上した。天照大神は、その草薙剣を天孫降臨の際に迩迩芸命(ににぎのみこと)に授けた。日本武尊は、草薙剣を持って蝦夷征伐を行い活躍したあと、妃の宮簀媛命のもとに預けた。宮簀媛命は、熱田の地を卜定して草薙剣を祀った。建稲種命は宮簀媛命の兄で、日本武尊の蝦夷征伐に副将として従軍した[20]。
『延喜式』の巻三神祇三(臨時祭)や巻九神名帳上に「熱田神社一座」とあるように[21][22]、古代までは神剣のみを祀っていた可能性が高い[23]。伝承では都から神剣が遷座した686年(朱鳥元年)、実際にはおそらく神仏習合の影響が顕著になった中世以降、土用殿に神剣が、正殿に5座の神が祀られるようになる[注 6]。1893年(明治26年)に土用殿が廃されてからは、本殿に主神の草薙神剣および相殿神の5座が祀られるようになっている[25][26]。
草薙神剣は、素盞嗚尊がヤマタノオロチを退治したときにその尾から生まれたものという[注 7]。『古事記』(上巻)に「都牟刈の大刀(つむがりのたち)」(鋭利な太刀の美称)として登場し[28]、『日本書紀』(巻第一神代上第八段一書の1)は元の名を「天叢雲劔(あまのむらくものつるぎ)」というとする[27]。一説に、天照大神が天岩屋から招出されたときの礼代(いやじろ)として八咫鏡と共に奉られ[注 8]、後にヤマタノオロチに奪われたものの素盞嗚尊がそれを取り返したともいわれるが[注 9]、この神剣が素盞嗚尊によって天照大神へ献上あるいは返還されたことにより、厳然たる「大御神の霊物」[注 10]として神威をふるうことになる。 天照大神が天孫降臨の神勅を下すにあたってこの神剣に霊魂を込め、神鏡(八咫鏡)・神璽(八尺瓊勾玉)と共に邇邇芸命(ににぎのみこと)に授けて以来、天皇家はこれを宝祚の守護(三種の神器)として宮中に祀ってきた[注 11]。しかし第10代崇神天皇の治世に至って天照大神の神威がますます盛んとなり、同殿共床にあるのは畏れ多いという理由から、豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)をしてその神霊を斎き奉らしめながら宮中より出ることになる[注 12]。豊鍬入姫命を「御杖代」とし、理想的な鎮座地を求めて始まった天照大神の遍歴は、御杖代を引き継いだ倭姫命(やまとひめのみこと)の代に、伊勢国の五十鈴川河畔の地をもって終焉を迎える[注 13]。すなわち、神宮(伊勢神宮)の創祀であり、ここに皇居と神宮の分離が初めてなされることになる。
この後、神剣は伊勢の神宮から氷上邑(ひかみのさと、現在の名古屋市緑区大高町火上山付近を指すと言われる)を経て、さらに熱田へ遷ることになるのだが、この経緯を記すのは『記紀』や『尾張国風土記』逸文(8世紀頃、『釈日本紀』七)の他に、熱田神宮に関する最古にして根本を成す縁起として知られた『尾張国熱田太神宮縁記(おわりのくにあつただいじんぐうえんぎ)』がある[33]。本書は874年(貞観16年)に熱田社別当であった尾張清稲により記述され、さらに890年(寛平2年)10月に国司であった藤原村椙が筆削を加えたものといわれるが、尾張清稲・藤原村椙という両名の人物像が不確かなこと、当時代の記述としてはいくつか矛盾をはらんでいることなどから、その成立は平安時代ではなく鎌倉時代初頭の成立とする説も根強い[34]。以下は、本書による神剣創祀までの経緯である。
景行天皇40年10月2日、景行天皇の意を受けて東征の旅に出た皇子日本武尊は[注 14]、途中神宮に立ち寄り、姨(おば)にあたる倭姫命から嚢(ふくろ)と共に草薙神剣を賜る[注 15]。さらに旅を続けて尾張国の愛知郡に至ったとき、侍従の将であった建稲種命に誘われ、命の故郷であった氷上邑の館で休息することになった[注 16]。尊はそこで、見目うるわしい娘がいるのを知り、その名を問うたところ、娘は建稲種命の妹で宮酢媛といった[注 17]。尊は媛を召し出して契りを交わし、いつくしみ、この地に長く逗留したが、やがて旅立ちの時になり、媛との別れを惜しんだ[注 18]。
やがて東征を成して再び氷上邑の館に到着した尊は、宮酢媛と再会し、数首の歌を交わすなどしながら媛との日々を過ごす毎日であった。旅立ちに際して剣を解き、これを宝物として持ち床の守りとするよう、媛に差し出した[注 19]。これから向かう伊吹山に暴悪の神がはびこるのを懸念する近習(大伴建日臣)であったが、尊は剣を留めたまま出発した[注 20]。その伊吹山において尊は暴風雨にさらされて心身を痛め[注 21]、尾張国に戻ろうとしたが、鈴鹿山を越えたあたりで危篤となり[注 22]、媛の床にある大刀を偲ぶ辞世の歌を詠じた後、鈴鹿川の中瀬でみまかってしまう[注 23]。
遠登賣能(をとめの)。登許能辨爾(とこのへに)。和賀於岐斯(わかおきし)。都留岐能多知(つるきのたち)。曾能多知波夜(そのたちはや)。 — 日本武尊、『尾張国熱田太神宮縁記』[40]
皇子の訃報を耳にした天皇は昼夜を問わずにむせび泣き、尊の遺骸を能褒野(のぼの)の地に葬らせた[注 24]。このとき、尊は白鳥の姿となって御陵から飛び出し、大和国琴弾原、河内国志紀郡古市里に転々と降り立った後、そのまま天に昇っていった[注 25]。 宮酢媛は、尊との約束を違えず、独りで床を守り、草薙神剣を奉っていた[注 26]。やがて老いたとき、身近な人々を集め、草薙神剣を鎮守するための社地の選定を諮った[注 27]。ある楓の木があり、自ら炎を発して燃え続け、水田に倒れても炎は消えず、水田もなお熱かった。ここを熱田と号して、社地に定めたという[注 28]。そして、媛はみまかり、居宅のあった氷上邑に祠が建てられ、氷上姉子天神として神霊が奉じられることになる[注 29]。
『尾張国熱田太神宮縁記』による熱田神宮および氷上姉子神社創建までの顛末は上記のようである。本書は『日本書紀』を主として『古事記』や『尾張国風土記』を含む多くの資料を引用しているとみられており、本書自体に独自性は乏しいといわれる[43]。他方、原典の記述に対して曲解がほとんどみられず忠実な引用がなされているともいわれ、成立は鎌倉時代であっても、内容そのものは平安時代もしくはそれ以前のものとしての資料的価値を有するとされる[44]。そして何より、建稲種命に氷上邑の館へ案内されたこと、ここで宮酢媛と出会い共に日々を過ごしたこと、東征の帰途に再び氷上邑に立ち寄ったことなどは本書独特の記述であり、とりわけ草薙神剣を預かった宮酢媛が占卜によって熱田を創祀の地に選んだとする記述は、天照大神の神器が天皇家・伊勢神宮を経て熱田にもたらされたことを示し、熱田神宮がその尊貴な正統性を誇示する重要なポイントとなっている。 ただし尾崎久彌が指摘するように、『尾張国熱田太神宮縁記』では社地に選んだ地(熱田)がなぜ熱田と呼ばれるようになったのかという説明がなされるだけで、社地を定めたはよいものの社祠がいつ創建され草薙神剣がいつそちらに遷座されたか、あるいは社祠の創建や遷座そのものがなされたかどうかが記されていない[45]。また、尊亡きあと媛が草薙神剣を守り奉じていたところ、すなわち遷座元も、じつは曖昧な記述になっている(熱田であったとも氷上邑であったとも記されていない)[45]。こうした『尾張国熱田太神宮縁記』の不明瞭さを補うのが後年に登場する各種縁起や史書となる。
熱田神宮は創祀1,900年目に当たるとされた2013年(平成25年)に「創祀千九百年大祭」を執行しているが[46]、これは創祀年を景行天皇43年(西暦に換算すると113年にあたるという)とした中世の『熱田大神宮御鎮座次第本紀』などの説[注 30]に基づいたものである。ところがこの創祀年についても近代よりまちまちにいわれ、景行天皇43年とする説のほかに、同41年、同49年などとする説も生まれた。 景行天皇41年は『熱田宮旧記』(1699年(元禄12年))などにみえ[注 31]、その根拠は『日本書紀』が景行天皇27年に日本武尊の年齢を16歳と記し、40年から43年の間に30歳で没したと記しているためで、明治時代に至っても角田忠行が採用していた説である。日本武尊の御陵ともいわれた白鳥御陵(白鳥古墳)において毎年4月8日に行われていた祭典は日本武尊が景行天皇41年4月8日に没したとする伝承に基づくものであった[注 32]。景行天皇49年は上記の『熱田大神宮御鎮座次第本紀』が一説として紹介している年で、江戸時代には天野信景らが支持した説である[注 33]。尾張にあった神剣が一度は伊勢に戻され、詔勅により改めて尾張に届けられたという時間的ロスに伴う年代の繰り下げである[注 34]。
ところで、草薙神剣の創祀と熱田神宮の創建とは年代が異なることについて角田忠行が注意を喚起している点は興味深い[注 35]。景行天皇43年(もしくは41年、49年)は草薙神剣が宮簀媛によって創祀された初年を指すのであって、熱田神宮の創建はずっと時代が下った仲哀天皇元年であるとも646年(大化2年)であるともいわれる。 『尾張志』は、『尾張国氷上宮開始正伝本起』にある宮簀媛命の死去年を仲哀天皇4年とする記述に着目し[注 36]、天皇の在位期間や宮簀媛命の年齢などをさまざまに勘案した上で、草薙神剣が尾張国にもたらされた(草薙神剣が日本武尊から宮簀媛命に預けられた)のが景行天皇40年(媛の年齢は15歳ほど)、草薙御剣の創祀を景行天皇43年(媛の年齢は18歳ほど)、老媛が草薙神剣の遷座地を熱田に占定したのを成務天皇年間末から仲哀天皇元年(媛の年齢は92歳ほど)であると見なした[注 37]。老媛はこの4年後に96歳ほどで死去することになる[52]。角田もまた、日本武尊の死去からおよそ80年間、草薙神剣は尾張国造の神床において宮簀媛命に奉斎されてきたことを指摘する[注 38]。 かたや、『朱鳥官符』(平安時代末期頃か)は646年(大化2年)5月1日に熱田大明神の託宣によって草薙神剣が愛知郡衛崎松姖嶋機綾村(えさきまつこのしまはたやのむら)に遷されたと記す[注 39]。『熱田正縁記』はこれを補強し、景行天皇41年に草薙御剣が氷上邑にもたらされ、やがて老いた宮簀媛によって松姖嶋に社が立てられ草薙神剣が収められ、646年(大化2年)に尾張忠命という人物によって愛知郡会崎機綾村(えさきはたやのむら)に遷座されたという[注 40]。
大宮司職は代々尾張国造の子孫である尾張氏が務めていたが、平安時代後期に尾張員職の外孫で藤原南家の藤原季範にその職が譲られた。以降は子孫の藤原南家藤原氏・千秋(せんしゅう)家が大宮司、尾張氏は権宮司を務め続けている。なお、この季範の娘は源頼朝の母(由良御前)である。また、季範の養女(実孫)は足利義康(足利氏の祖)に嫁いでおり、足利氏にもその血脈を伝えている。さらに季範の妹は二階堂行政の母であり、二階堂氏との関係も深い。
『海道記』には「熱田の宮の御前を過ぐれば」とあるほか、『東關紀行』に「尾張の國熱田の宮に到りぬ」とある。また同書には、
或人の曰く、「この宮は素盞嗚尊(すさのをのみこと)なり、初めは出雲の國に宮造りありけり。八雲立つ〔(*「)八雲たつ出雲八重垣妻籠に八重垣つくる其の八重垣を(*」)(古事記)〕と云へる大和言葉も、これより始まりけり。その後、景行天皇の御代に、この砌(みぎり)に跡を垂れ給へり。」と云へり。又曰く、「この宮の本體は、草薙と號し奉る神劒なり。景行の御子、日本武尊と申す、夷(えみし)を平げて歸りたまふ時、尊は白鳥となりて去り給ふ、劒(つるぎ)は熱田に止り給ふ。」とも云へり。 — 國民圖書株式會社、東關紀行(校註日本文學大系 3)
或人の曰く、「この宮は素盞嗚尊(すさのをのみこと)なり、初めは出雲の國に宮造りありけり。八雲立つ〔(*「)八雲たつ出雲八重垣妻籠に八重垣つくる其の八重垣を(*」)(古事記)〕と云へる大和言葉も、これより始まりけり。その後、景行天皇の御代に、この砌(みぎり)に跡を垂れ給へり。」と云へり。又曰く、「この宮の本體は、草薙と號し奉る神劒なり。景行の御子、日本武尊と申す、夷(えみし)を平げて歸りたまふ時、尊は白鳥となりて去り給ふ、劒(つるぎ)は熱田に止り給ふ。」とも云へり。
と記載されている。
瑞渓周鳳の『臥雲日件録』1465年(寛正6年)6月18日条に「日本所謂三大宮司、盖厳島・熱田・富士之三所也」とあり、熱田大宮司は厳島神主家・富士氏と共に日本三大宮司に数えられている[55]。
戦国時代、千秋家は武将として織田家に仕え、千秋季光が織田信秀に、季光の子季忠は織田信長に仕えている。信長は桶狭間の戦いの前に熱田神宮に戦勝を祈願して見事に勝利を収めたが、季忠は前哨戦で討死、信長は大宮司職と遺領を、まだ胎内にいた季忠の子季信に相続させた。
江戸時代は当社周辺に東海道五十三次の43番目「宮宿」が設けられ、当地から桑名宿への七里の渡しが運行されていた。また『東海道名所図会』に「熱田大神宮」と記載されている。
慶応4年(1868年)6月、神宮号を宣下されて熱田神社から熱田神宮に改められた。1871年7月1日(明治4年5月14日)の近代社格制度の制定により、熱田神宮は官幣大社に列格した。熱田神宮には「三種の神器の一つを祀っているから、伊勢神宮と同格であるべきだ」という主張があり、同年7月には大宮司・千秋季福が伊勢神宮に準じた待遇にするよう政府に請願したものの、この請願は却下されている。次いで大宮司となった角田忠行も同様の請願を続け、1889年(明治22年)までに伊勢神宮に準じた神璽勅封・権宮司設置などが認められた。
それまで熱田神宮は尾張造という尾張地方特有の建築様式で建てられていたが、1889年(明治22年)、伊勢神宮と同じ神明造による社殿の造営が計画された。また、熱田神宮の国への働きかけにより、1890年(明治23年)9月、社格を離脱して伊勢神宮と同格にする旨の勅令案が閣議に提出された(案の段階では熱田神宮を「尾張神宮」に改称する事項も含まれていたが、これは外された)。しかし、この勅令案は否決され、熱田神宮の社格の件は従前の通りとすることとなった。その背景には伊勢神宮の反対があったという。神明造による社殿の造営は進められ、1893年(明治26年)に竣工した。しかし、この社殿は他の建物共々太平洋戦争中の1945年(昭和20年)6月9日に行われた熱田空襲により焼失した。
また、終戦直前、神体である草薙剣を守るために飛騨一宮水無神社への一時的な遷座が計画されたが、同年8月15日の終戦により一時中止された。しかし、今度は上陸したアメリカ軍に神体が奪われるおそれがあるとして、同年8月21日、陸軍の協力を得て計画通り神体が水無神社に遷された。同年9月19日に熱田神宮に戻されたが、そのときにはすでに陸軍は解散していたため、神職が鉄道で移動した。
1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されている。
社殿は伊勢神宮の式年遷宮の際の古用材を譲り受け、1955年(昭和30年)10月に再建された。新しい建物のため、指定文化財ではない。
○庚辰。尾張國熱田神奉㆑授㆓従四位下㆒。 — 『日本紀略』(前篇十四嵯峨天皇)[56]
○壬午。詔奉㆑授下坐㆓尾張國㆒従三位熱田大神正三位上。 — 『続日本後紀』(巻二)[57]
○廿七日甲申。奉㆑授㆓尾張國正三位熱田神従二位㆒。 — 『日本三代実録』(巻二)[58]
○十七日癸卯。授㆓尾張國従二位熱田神正二位㆒。 — 『日本三代実録』(巻二)[59]
○廿二日丁亥。尾張國言上。正一位熱田大明神自㆓今月一日三箇日㆒。(後略) — 『日本紀略』(後篇四村上天皇)[60]
平安末期成立とされる『尾張国内神名帳』にも神階や社名が示されているが、写本によって内容が異なる[61]。
<>は関連事項。
境内には本宮を始めとして別宮1社・摂社8社・末社19社が、境外には摂社4社・末社12社があり、合わせて45社(本宮含む)を祀っている[注 41][101]。
かつて、信長塀と繋がっていた1920年(大正9年)に国宝に指定された海上門(海蔵門)や同じく国宝の鎮皇門や春敲門の3つの門が存在していたが、太平洋戦争時の名古屋大空襲の空襲の戦災で焼失した。戦後以降、これら戦災で失った熱田神宮に存在していた文化財の建造物は再建や復元はされなかった。2022年(令和4年)に熱田区役所の熱田の歴史体感事業[102]の一環の拡張現実事業で、建築学者の三浦正幸広島大学教授に依頼・監修のもと、海上門が絵図や古写真や現存している海上門の礎石の痕跡などの資料を元に海上門の復元図が制作され3DCGで海上門が再現された[103]。
6月5日の例祭(「熱田まつり」・「尚武祭(しょうぶさい)」とも称される)を最大規模の祭事とし、年間を通して以下の祭事が行われている。
草薙剣が御神体である所以から熱田神宮には多くの刀剣が市井から奉納されてきており、約450口の刀剣を所蔵する。そのうち30口以上が国と県の指定文化財である[104]。
典拠:2000年までの指定物件については『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による(ト書きは現代式表記に改める)。
他に旧国宝建造物の海上門と鎮皇門があったが、第二次世界大戦時の空襲で焼失した。
古神宝類
当初指定日は1957年2月19日。1977年に檜扇1握、鏡台5基、冠箱1合、入帷1領、朱漆弓3張、平胡籙1腰を追加指定(昭和52年6月11日文部省告示第116号)。2014年に朱漆弓2張、梓弓10張を追加指定(平成26年8月21日文部科学省告示第117号)。
(以下は附(つけたり)指定)
1987年6月6日、「金銅装唐鞍 一具 附 黒漆鞍2背、飾鞍図1巻」として重要文化財に指定。2015年9月4日付けで以下の物件を追加指定(平成27年9月4日文部科学省告示第144号)。
熱田神宮にかつて門前町があり、賑わっていた事から、伊勢のおかげ横丁の様な賑わいのある門前町を熱田神宮付近に再現する計画で、2011年から構想があった[111]。河村たかし名古屋市長も、2017年4月の市長選で『熱田草薙横丁』の整備を公約で掲げていた。
東門駐車場(約300台)、南門駐車場(約60台)、西門駐車場(約40台)がある[112]。ただし、祭典行事などで駐車が制限されることがある[112]。