佐太神社(さだじんじゃ)は、島根県松江市鹿島町佐陀宮内にある神社。出雲国二宮、旧社格は国幣小社。出雲國神仏霊場第四番。9月25日の御座替祭の前夜に行われる佐陀神楽が知られる。
「茣蓙替祭」は『出雲国風土記』にも記される年中行事。神職らは、本殿などの23ヶ所の茣蓙を取り替える。また、この夜は茣蓙を清める「七座神事」も奉納される。(引用:安達彰『安達彰 写真集 ユネスコ文化遺産佐陀神能』)
近辺に銅鐸・銅剣が出土した志谷奥遺跡がある。(引用:増尾敏弘『出雲神社探訪 出雲國風土記所載神社 全399社』)
正殿、北殿、南殿に、秘説四柱を含めて12柱が祭られている。
現在の神社側の公式見解では、正殿の主祭神である佐太御子大神とは猿田彦神のことである[1]としている。佐太大神は『出雲国風土記』に登場し、神魂命の子の枳佐加比売命を母とし、加賀の潜戸で生まれたという。現在では、神名の「サダ」について、猿田の本来の読みであるという説、狭田すなわち狭く細長い水田の意とする説、岬の意とする説、等のほか諸説がある。
秋鹿郡佐田大社之記に垂仁54年の創建で、養老元年(717年)に再建されたとある。
『出雲国風土記』秋鹿郡条に「佐太御子社」と記載されている。延喜式神名帳には「佐陀神社」と記載されている[2]。中世に入ると「佐陀大明神」とか「佐陀大社」、「佐陀三社大明神」などと呼ばれるようになった。明治に入り現在の「佐太神社」に改称した。
日本三代実録より
康元元年(1256年)の『社領注進状』(出雲大社所蔵)によれば280丁と、杵築大社(現:出雲大社)に匹敵するほどの社領を有していたという。宝永3年(1706年)の『佐陀大社勘文』によれば、島根郡と秋鹿郡に7000石の社領と224人の神人を有していたが太閤検地によって大幅に減じられ、堀尾吉晴の時代になって200石まで回復したという。江戸時代に入ると杵築大社とともに出雲国内の神社を管轄しそれらを支配する「触下制度」を確立した。佐陀大社の管轄は島根郡、秋鹿郡、意宇郡の西半分と楯縫郡の神社であった。
明治維新時に神祇官の命を受けた松江藩神祠懸により、祭神を猿田彦命と明示するように指示された際、神社側は一旦はそれを拒んだが、後に従った。 明治4年 (1871年) には近代社格制度において郷社に列格し、2年後の明治6年には県社に昇格、そして昭和3年には国幣小社に昇格した。
平成26年、正中殿などの修理が行われており8月に修理見学会が開催された[3][4][5][6]。
※「胴丸」「腹巻」は鎧の一種
祭礼は古来75度あったと言われるが、近世にはすでに行われなくなったものもかなりあると見られている。
この項目は、神道に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 神道/ウィキプロジェクト 神道)。
この項目は、島根県に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:日本の都道府県/島根県)。
Lokasi Pengunjung: 3.147.46.183