浦河郡(うらかわぐん)は、北海道(日高国)日高振興局の郡である。
人口11,248人、面積694.3km²、人口密度16.2人/km²。(2024年10月31日、住民基本台帳人口)
以下の1町を含む。
郡域
1879年(明治12年)に行政区画として発足して以来、郡域は上記1町のまま変更されていない。
歴史
郡発足までの沿革
室町時代以降、主に東北地方の商人が交易を行っていたと考えられている。
江戸時代に入ると、松前藩の商場知行制および場所請負制による浦川場所(会所)が荻伏地区に開かれている。浦川の名はこの時、今の元浦川(アイヌ語でウララペッ=霧深い川の意味)にちなんで名付けられた。陸上交通は、渡島国の箱館から道東や千島国方面に至る道(浦河以西は国道235号の、浦河以東は国道336号の前身)が通じていた。1669年(寛文9年)松前藩の将、佐藤権左衛門が、現在の浦河神社社務所付近に小祠を建立、金刀比羅宮の御分霊を奉斎。1700年(元禄13年)松前藩が幕府に呈上した元禄御国絵図には「浦川」と記載されている。
江戸時代後期、浦河郡域は東蝦夷地に属していた。国防のため1799年(寛政11年)浦河郡域は天領とされ浦川場所も今の浦河市街に移される。享和元年8月15日浦河場所請負人佐野嘉右衛門が稲荷大明神を祀る小祠を建立。文化4年南部藩家臣一戸政尹が厳島神社の御分霊(天女宮)を祀る小祠を建立。文政4年に浦河郡域は一旦松前藩領に復した。1842年(天保13年)には漁場支配人近江屋周介が、三つの祠を合祀し浦河神社の前身の稲荷神社となる(昭和6年、浦河神社に改称)。安政2年浦河郡域は再び天領となり仙台藩が警固をおこなった。1858年(安政5年)幕府牧場掛、新家鉄作により、元浦川東岸に馬牧が開設される。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年、大宝律令の国郡里制を踏襲して浦河郡(20村)が置かれた(この時、浦川から浦河となった)。
郡発足以降の沿革
明治9年の大区小区
- 第23大区
- 1小区 : 浦河村、向別村、茅実村、宜保村、鱗別村、蹈牛村、後鞆村
- 2小区 : 問民村、透消村、開深村、居壁村、姉茶村、野深村、荻伏村
- 3小区 :塘沸村、西舎村、杵臼村、可礼村、富菜村、原遠村
・茅実村、宜保村、鱗別村→浦河村
・蹈牛村→後鞆村
・問民村→荻伏村
・透消村→姉茶村
・開深村→後邊戸村
・居壁村→野深村
・塘沸村(一部)、原遠村(一部)→幌別村
・可礼村、塘沸村(一部)→西舎村
・富菜村、原遠村(一部)→杵臼村
参考文献
外部リンク
関連項目