郡区町村編制法(ぐんくちょうそんへんせいほう、明治11年7月22日太政官布告第17号)は、1878年(明治11年)7月22日に制定された、日本の地方制度に関する太政官布告である。
概略
いわゆる地方三新法の一つとして、明治11年(1878年)7月22日に太政官布告第17号として制定された。従前の大区小区制が地方の実情に合わず不評であったために見直しが必要となったことや、自由民権運動の高まりにより地方政治への住民の参加を認める必要性が出てきたこと[1]から導入された。旧来の郡町村制に戻すことで人民の便宜を図ると同時に、戸長を民選とすることにより地方に一定の自治を認めた一方で、官選である郡長・区長が戸長の上に位置し、また郡長・区長が同じく官選である府県知事の指揮下に置かれ、その府県知事を内務省が指揮することで、旧来からの地方共同体である「部落」の解体を行い中央集権体制を作ろうとした。しかし後者の目的については、地方における部落単位でのまとまりが強く、その解体を達成することはできなかった。
1888年(明治21年)4月17日に制定された市制・町村制、1890年(明治23年)5月17日に制定された府県制・郡制により(具体的には郡制附則の規定により同法施行時に)、各道府県において明治33年(1900年)4月1日までに順次失効した。
施行日
内容
当初は全6条。明治13年(1880年)の太政官布告第14号により、3条が追加されて全9条となった。従来の大区小区制を廃して、郡区町村を置くことを定めた(第1条)。郡町村の名称と区域は江戸時代のものを継承した(第2条)。
郡
郡は広すぎるものを分割した上で(第3条)、1人の郡長を置いた(第5条前段)。郡が狭い場合には、複数の郡に1人の郡長を置くこともあった(第5条後段)。なお条文上に明記されていないが、郡の役所は郡役所と称した。また、郡長は官選とされた。
区
三府・五港・人口密集地・交通の要所には郡から分けて区を置き、広い人口密集地には複数の区を置いた(第4条)。区には区長を置いた(第5条)。区長も郡長と同様、官選とされた。
明治12年(1879年)1月1日の本籍人口が多い三都では複数の区が置かれ、東京府に麹町区・神田区・日本橋区・京橋区・芝区・麻布区・赤坂区・四谷区・牛込区・小石川区・本郷区・下谷区・浅草区・本所区・深川区の15区(→東京15区)、京都府に上京区・下京区の2区、大阪府に東区・南区・西区・北区の4区が設置された。
その他の都市では都市毎に1区が置かれ、札幌区(北海道)・函館区(北海道)・仙台区(宮城県)・横浜区(神奈川県)・新潟区(新潟県)・金沢区(石川県)・名古屋区(愛知県)・伏見区(京都府)・神戸区(兵庫県)・堺区(堺県)・和歌山区(和歌山県)・岡山区(岡山県)・広島区(広島県)・赤間関区(山口県)・福岡区(福岡県)・長崎区(長崎県)・熊本区(熊本県)が設置された。伏見区のみ明治14年(1881年)1月10日に廃止されて紀伊郡に属するようになり、他は後の市制施行により市へ移行した。
町村
町と村には戸長を置いた。数町村に1人の戸長を置くこともできた。区内の町村については区長が戸長の事務を兼ねることもできた(第6条)。戸長は民選の後、府県知事の任命により就任した。町村の役場は戸長役場と呼ばれた。
脚注
注釈
- ^ 布達は前年12月6日だが、本項では実施日とした。施行関連の布達が数度に及ぶため、資料により日付に異同がある。
- ^ 沖縄県は明治12年(1879年)4月4日発足。明治29年(1896年)4月1日の「沖縄県ノ郡編制ニ関スル件」(明治29年勅令第13号)で郡が、明治41年(1908年)4月1日の島嶼町村制で町村が発足。
出典
- ^ 『わかりやすい岐阜県史』(2001年3月31日、岐阜県発行)416ページ『地方自治制度の展開』より。
外部リンク