ギニアビサウ共和国
República da Guiné-Bissau
国の標語:Unidade, Luta, Progresso (ポルトガル語: 統一、闘争、進歩)
国歌 :Esta É a Nossa Pátria Bem Amada (ポルトガル語) わが愛しき祖国
ギニアビサウ共和国 (ギニアビサウきょうわこく)、通称ギニアビサウ は、西アフリカ にある共和制 国家 。北はセネガル 、南と南東はギニア と国境を接し、西は大西洋 に面する。首都 はビサウ である。
概要
ギニアビサウはアフリカ大陸 西端部に位置する。かつてはカアブ帝国 (英語版 ) の一部であり、マリ帝国 の一部を構成する地域でもあった[ 3] 。これらの帝国の一部は18世紀 まで存続していたが、16世紀 以降からその幾つかの地域はポルトガル帝国 の支配下に置かれることになった。
1446年にポルトガル人 が上陸し、南北アメリカ大陸 への奴隷貿易 の中継地となった。1879年にポルトガル領ギニア が単独でポルトガル の植民地 となった。1963年から独立戦争 を戦い、ギニア・カーボベルデ独立アフリカ党 が国土の3/4を解放して1973年9月24日に独立を宣言し、アフリカで独立勢力が宗主国に一定の勝利を収めた唯一の国家となった。独立は1974年9月10日に承認された。
独立後、1990年代 以降は内戦 (英語版 ) が勃発し、軍の反乱やクーデターが頻発するなど不安定な政治が続き、経済的にも依然として世界最貧国 の一つとなっている。
独立後の現在も公用語 はポルトガル語 であり、ポルトガル語諸国共同体 、ポルトガル語公用語アフリカ諸国 に加盟している。アフリカ大陸では比較的面積の小さい国の一つである。
ギニアビサウは、国連 、アフリカ連合 、西アフリカ諸国経済共同体 、イスラム協力機構 、フランコフォニー国際機関 および南大西洋平和協力地帯 (英語版 、ポルトガル語版 ) の加盟国である。また同国は、近年まで存在していたラテン連合 の加盟国の一つでもあった。
国名
正式名称はポルトガル語で República da Guiné-Bissau [rɨˈpublikɐ dɐ ɡiˈnɛ biˈsaw] 。 通称 Guiné-Bissau (ギネ=ビサウ )。
公式の英語表記は Republic of Guinea-Bissau [ˌɡɪni bɪˈsaʊ] 。
日本語の表記は、ギニアビサウ共和国 。通称ギニアビサウ 。「ギニアビサオ 」と表記されることもある。
「ギニア」の名称の意味については諸説があるが、ベルベル語で「黒人たちの土地 」の意味に由来するともいわれている。ギニアを国名とする国家としてはこの国の他にギニア共和国 や赤道ギニア共和国 があるため、それらと区別する必要から、首都の名を冠した「ギニア=ビサウ」を正式名称とした[ 4] 。独立当初の国名はギニアビサウ国 だったが、1977年 にギニアビサウ共和国 へ改称した。
歴史
先ポルトガル期
ポルトガル植民地時代
1446年 にポルトガルがこの地域一帯の領有を宣言した。1482年 、勅許会社 のギニア会社 (英語版 ) を設立。ポルトガルはギニアビサウのカシェウ を拠点に、後にアフリカ全土でそうしたようにこの地でも奴隷貿易 を開始し、この地からも多くの黒人 奴隷 が南北アメリカ大陸 やヨーロッパ に送られた。1630年 にはポルトガルが総督府を設置。1671年 、独占貿易会社カシェウ会社 (ポルトガル語版 ) を設立。1687年 に奴隷貿易 の拠点として後に首都となるビサウ が建設された[ 5] 。
19世紀 後半まで行政上ポルトガル領ギニア は大西洋上のカーボベルデ 植民地の一部であったが、1879年にギニアは単独の植民地となった。20世紀に入るとポルトガルは沿岸のイスラム教徒 の民族の力を借り、内陸部のアニミスト の排疎運動を始めた。しかし、内陸部及び離島地域の植民地支配は混迷し、ビジャゴ諸島 が完全に政府支配下になるのは1936年以降であった。第二次世界大戦 中の1942年に、ビサウが正式にポルトガル領ギニアの首都と定められた。
1951年 に、アフリカにおける植民地帝国の維持を望んだアントニオ・サラザール 政権のポルトガルの植民地法の改正により、ポルトガルの全海外植民地は法的に植民地からポルトガルの海外州となったが、その後も各植民地の統治の実態に大きな変化はなかった[ 6] 。アミルカル・カブラル によればポルトガル領だった植民地時代のギニア、アンゴラ 、モザンビーク 、各植民地の非識字率は99%に達していた[ 7] 。
1956年 にはアミルカル・カブラルがクレオール のギニア・カーボベルデ独立アフリカ党 (PAIGC) を設立し、以降PAIGCによる独立・民族解放運動が始まった[ 8] 。当初カブラルは穏健な独立運動を構想していたが、1959年8月3日にビサウでストライキ を起こした港湾労働者がポルトガル軍 によって多数殺害されたピジギチ虐殺 (英語版 ) 以降は方針を変え、農村を根拠地にした武装ゲリラ 闘争による独立を目指した[ 9] 。
ギニアビサウ独立戦争
1963年 にはPAIGCがティテ (英語版 ) のポルトガル軍基地を襲撃し、ギニアビサウ独立戦争 が勃発した。ソビエト連邦 やキューバ 、ギニア などの支援を受けたPAIGCと、アメリカ合衆国 の支援を受けたポルトガルのエスタード・ノーヴォ 政権の間で植民地戦争 が続いた。
1973年 1月20日 にPAIGCの指導者であるアミルカル・カブラルはギニア の首都・コナクリ にてポルトガル秘密警察 PIDE (英語版 ) によって暗殺されたが、アミルカルの弟のルイス・カブラル が主導権を握って独立闘争は激化し、同年10月24日 に領土の3/4以上を解放したPAIGCは東部の町マディナ・ド・ボエ においてギニアビサウ国 (1977年 よりギニアビサウ共和国 )の独立を宣言した[ 10] 。独立は東側諸国 や非同盟 国家を中心に承認された。
初代大統領には暗殺されたアミルカルの弟のルイス・カブラルが就任した[ 11] 。一方、ポルトガル本土でもギニアビサウでPAIGCと対峙したアントニオ・デ・スピノラ (英語版 ) 将軍やオテロ・デ・カルヴァーリョ (英語版 ) 大尉をはじめとする軍人が中心となって設立されたポルトガル軍内の国軍運動 (英語版 ) (MFA)により、1974年 4月25日 にリスボン でカーネーション革命 が勃発し、エスタード・ノーヴォ体制は崩壊して左派政権が誕生した。以降、新たに成立したポルトガルの革命政権と各植民地の独立勢力との間で独立交渉が開始され、ポルトガル領ギニアでは既存のPAIGCの支配をポルトガルが承認する形で交渉が進み、同年9月10日 にポルトガル政府により正式に独立が承認された[ 6] 。
独立後
独立後、当初PAIGCはカーボベルデ との統一国家建設を目指していたが、初代大統領のルイス・カブラルがカーボベルデ系であったことに象徴されるようにギニアビサウではカーボベルデ系が高い地位に就いていたため、ギニアビサウ国内にてカーボベルデ系への反感が高まり、1980年にジョアン・ヴィエイラ 首相がルイス・カブラル大統領を軍事クーデターで失脚させたため、以降両国で統一が達成されることはなくなった[ 12] 。
ヴィエイラのクーデター後、革命評議会が全権を掌握しヴィエイラは革命評議会議長(国家元首に相当)に就任した。1984年 には憲法改正によって革命評議会に代わり国家評議会が設置され、同じくヴィエイラが議長に就任した[ 6] 。建国当初の親東側 路線はヴィエイラ政権により親米 路線に変更されたが、国内の治安は悪く、軍に対する統制も不十分なものに留まり、クーデター計画が頻発した。
1990年代 において、ギニアビサウは複数政党 民主主義へと移行していった。政党の結成が1991年 に解禁され[ 13] 、1994年 に大統領選挙が行われた。7月3日 に実施された第1回の投票で、ヴィエイラは他の7人の候補を下して46.20%を得票したが、過半数に満たなかったため8月7日 に第2回投票が実施された。ヴィエイラは52.02%を得票して、47.98%を得票した対立候補である元哲学の講師で社会革新党 (Partido para a Renovaçao Social)の代表であるクンバ・ヤラ 候補を下した。国際選挙監視団は、両方の投票とも公正なものと評価し、ヴィエイラは1994年 9月29日 にギニアビサウで初めての民主的選挙によって選ばれた大統領となった。
ギニアビサウ内戦
内戦により破壊された戦車
1998年 のクーデター未遂事件の後、ギニアビサウはヴィエイラ派の軍と反政府のリーダーであるアンスマネ・マネ (英語版 ) 派の軍との間で激しいギニアビサウ内戦 (英語版 ) が勃発した。内戦によって避難民30万人がビサウ に流入するなど社会、経済は混乱し、1999年 5月7日 に反政府軍がヴィエイラ政権を退陣させた[ 14] 。ヴィエイラはポルトガル大使館へ避難し、7月にポルトガルへと亡命した。
ヴィエイラの亡命後、1999年11月28日の大統領選挙によって2000年 には社会革新党(PRS)のクンバ・ヤラ が大統領に就任した。しかし、実態はアンスマネ・マネが実権を握る軍事政権であった。まもなくヤラ大統領とマネは対立し、2001年11月30日にマネが暗殺される形でこの対立は決着したが、経済の低迷や政情不安は続き、2003年 9月14日 にヴェリッシモ・コレイア・セアブラ 将軍の無血クーデターでヤラ大統領が辞任・逮捕された。後任としてエンリケ・ロザ が臨時大統領に就任し、2004年 にはセアブラ将軍が死亡したものの、議会選挙によりPAIGCが勝利。カルロス・ゴメス・ジュニオル 首相による連立政権が樹立された。
2005年 の大統領選挙では亡命先のポルトガルから帰国した無所属のヴィエイラが勝利し、大統領に就任した。ヴィエイラの就任後、カルロス・ゴメス・ジュニオル首相が更迭され、アリスティデス・ゴメス が首相となった。2008年 11月の議会選挙では多数派与党が勝利したが、選挙から一週間後には軍の不満分子による大統領官邸襲撃事件が発生した。この事件では反乱軍は撃退され、クーデターは未遂に終わったが、この事件によって大統領警護隊が組織された。
2009年 1月に、ナワイ参謀長が大統領警護隊の解散を命じた矢先に、ナワイ参謀長の暗殺未遂事件が起きた。3月1日には首都ビサウの軍司令部が爆撃を受け、大統領と対立していたナワイ参謀長が爆殺される(2人続けての参謀長暗殺)。翌3月2日、反乱軍兵士が大統領自宅を襲撃し、ヴィエイラ大統領を暗殺した[ 15] 。政府軍は、国営ラジオで反乱軍が「孤立した勢力」であり、鎮圧寸前であると発表し、また軍が憲法を守ることも保障した。ゴメス首相とルイス・サンカ国家安全保障顧問は、大統領が死亡したことを確認したが、詳細は発表しなかった。首都には軍部隊が配置され、民間ラジオ局を閉鎖した。大きな混乱はなかったとされたが、一方でBBCが軍本部の建物が爆発で一部破壊されたと報じた。大統領代行には議会のライムンド・ペレイラ 議長が就任している。2009年の大統領選では、マラム・バカイ・サニャ 元国民議会議長が大統領に選出された[ 16] 。
2010年4月1日にはゴメス 首相が一時兵士らに拘束される事態となったが、首相は数時間後に解放された[ 17] 。2012年にはサニャ大統領が在職中に死去し、後任大統領の選挙中の2012年4月12日、クーデター(en:2012 Guinea-Bissau coup d'état )が起きてライムンド・ペレイラ暫定大統領とカルロス・ゴメス・ジュニオル 候補が拘束された[ 18] 。5月にはマヌエル・セリフォ・ナマジョが暫定大統領に就任し、2014年には延期されていた大統領選挙が実施されてジョゼ・マリオ・ヴァス が大統領に選出された[ 19] 。2019年12月には大統領選挙が行われ、決選投票で野党・マデムG15候補のウマロ・シソコ・エムバロ が与党・PAIGC候補のドミンゴス・シモンエス・ペレイラを破って当選したが[ 20] 、与党側はこれを不服とし最高裁に提訴を行った。しかし2020年2月27日にエムバロは就任式を行い、大統領に就任した[ 21] 。
政治
首都ビサウにある
大統領官邸 (英語版 ) 2013年に
中国 の投資により資金提供を受ける形で改装され、再び運営されている
ギニアビサウは共和制 をとる立憲国家である。現行のギニアビサウ憲法 (ポルトガル語版 ) は1984年 5月16日 制定され、その後数回の改正を経たもの。
行政
国家元首 である大統領 は国民の直接選挙により選出され、任期は5年。再選制限は無い。行政府 の長たる首相 は、大統領が国家人民会議の多数派の指導者より任命する。
立法
議会は一院制 の国家人民議会 。定数100議席。議員は国民の直接選挙で選出され、任期は4年である[ 22] 。
2023年12月1日に首都で発生した銃撃戦をウマロ・シソコ・エンバロ 大統領はクーデターと断定し、ジェラルド・マルティンス (英語版 ) 内閣の取り組みが不十分として12月4日に議会を解散[ 23] 。一旦は2024年11月24日の選挙実施が決まったが、その後に決定が取り消され、2024年11月現在は選挙の実施予定日が定められておらず無期限延期状態にある[ 24] 。
政党
主要政党にはかつて一党支配を敷き、民主化後も1999年選挙を除いて議会第1党となっているギニア・カーボベルデ独立アフリカ党 (PAIGC) のほか、2000年から2003年のヤラ政権において与党だった社会革新党 (英語版 ) (PRS)がある。2019年の議会選挙においては新党・マデムG15 (英語版 ) が躍進してPRSに代わって第2党となり、2020年の大統領選挙においては同党のウマロ・シソコ・エムバロ候補が勝利して大統領に就任した。
司法
最高司法 機関は最高裁判所 である。
国際関係
ポルトガル語圏、いわゆるルゾフォニア に属しており、ポルトガル語諸国共同体 、ポルトガル語公用語アフリカ諸国 に加盟している。
沖合に浮かぶカーボベルデ とは元は同じ植民地であったことから関係が深く、独立戦争を戦った組織の「ギニア・カーボベルデ独立アフリカ党」(PAIGC)という党名にも反映されているように、独立闘争は両植民地を対象としたものだった。1974年に両国はそれぞれ単独で独立したものの、両国の支配政党はどちらもPAIGCであり、統一国家の建設を目指していた[ 25] 。しかし1980年にギニアビサウでビサウ出身のヴィエイラによるクーデターが起きてカーボベルデ出身のルイス・カブラル大統領が失脚すると両国関係は断絶し、1981年にはカーボベルデ側のPAIGCは党名をカーボベルデ独立アフリカ党 (PAICV)に改名して統一を断念した[ 26] 。これに対しギニアビサウ側は党名の維持とカーボベルデ側の除名をもって応じ[ 27] 、1982年には両国関係が修復された[ 28] ものの、統一の動きは下火となった。
日本との関係
日本とは1974年8月1日に外交関係を樹立している。ギニアビサウに日本の在外公館 は設置されておらず、在ギニアビサウ大使館は在セネガル大使館によって兼轄されている[ 29] 。
在留日本人数 - 0人(2022年2月現在)[ 30]
在日ギニアビサウ人数 - 10人(2020年12月末)[ 30]
国家安全保障
同国の軍隊は陸軍 、海軍 、空軍 、準軍事部隊で構成されている。
地理
ギニアビサウの地図
典型的な風景
国土全体が低平な平野 であり、高い山 は無く、国内の最高地点の標高は310mである。熱帯 地域の一ヶ所となっている。
大陸部はカシェウ川 、マンソア川 、ジェバ川 、コルバル川 といった河川が流れ、河口部はいずれも深い入り江 となっている。沖合にはボラマ島 やブバケ島 、ウノ島 、カラヴェラ島 といったビジャゴ諸島 の88の島々が点在する[ 31] 。
沿岸部は大陸部・島嶼部ともに潮位によって水没する沼沢地が多く、マングローブ林 が広がっている。内陸部は熱帯雨林が広がり、内陸北部はサバンナ となっている[ 32] 。
国土全体がサバナ気候 (Aw)に属し、雨季とサハラ砂漠からのハルマッタン による乾燥した乾季がある。
ビサウの平均気温は雨期が27℃程度であり、乾期は1℃ほど低くなる[ 33] 。
森林伐採 、土壌侵食 、過剰放牧 (英語版 ) 、乱獲 などの環境問題を抱えている[ 34] 。同国は2019年の森林景観保全指数 (英語版 ) 平均値が5.7/10であり、172ヶ国中97位にランクされている[ 35] 。
地方行政区分
ギニアビサウの行政区画
ギニアビサウの地方行政区分は8州 (regiõe) と1自治区 (sector autónomo) からなる。
主要都市
最大都市は首都のビサウ である。ビサウ市は国名の由来ともなっており、都市圏人口49万人(2015年)を擁し[ 33] 、ギニアビサウ国内では突出した大都市となっている。
経済
首都ビサウ
ギニアビサウでは工業 、鉱業 がほぼ存在せず、労働力 の8割が従事する主要産業 の農業 も稲作 などの自給農業 (英語版 ) が中心で、しかも国内需要すら満たせないほど生産性が低い。また、企業家 層がおらず識字率も低いために経済発展の基礎的な条件が存在していない。加えて産業と呼べるものがほとんど無いことから、世界最貧国 のひとつとなっている。
農業は沿岸低地で稲 (米 )、内陸でソルガム や雑穀 が自給用に栽培されるが[ 36] 、食糧自給ができておらず、2015年には穀物 輸入が総輸入の16.9%を占め、同国最大の輸入品となっている[ 33] 。
主な輸出品は世界6位の生産量があるカシューナッツ であり[ 4] 、2015年には総輸出の78.7%を占めた[ 33] 。この他の輸出品にはバンバラマメ と魚があるが、それ以外では目ぼしい輸出品が存在しない。同国産カシューナッツの多くはインド へと輸出され、総輸出に占めるインドの割合は72.9%にのぼる[ 33] 。
植民地時代は内陸部で栽培されるラッカセイ と沿岸低地で栽培されるアブラヤシ [ 37] によるパーム油 が輸出の柱となっており、1957年には総輸出の70%がラッカセイ、23%がパーム油となっていた[ 38] ものの、独立戦争時に農地の荒廃が進み[ 37] 、さらに1974年の独立後に行われた社会主義的農業政策によって農業の衰退はさらに進んだ[ 36] 。結果として自給農業への回帰が進み、カシューナッツ以外の商品作物栽培は衰退の一途をたどって、1986年の時点でカシューナッツの輸出が総輸出の50%以上を占める一方、ラッカセイやパーム油の輸出はそれぞれ輸出総額の10%程度にまで落ち込んでいた[ 39] 。
近年、内戦により政府の管理が行き届かないことや、島の多い地形が密輸 に有利なことから南米 からヨーロッパ への麻薬 の中継地点となっている[ 40] 。
通貨は1997年以前はギニアビサウ・ペソ が法定通貨であったが、1997年より西アフリカCFAフラン が導入された[ 33] 。
同国は、アフリカのビジネス法の調和のための組織である『OHADA (フランス語版 、英語版 ) 』に主要メンバーとして加盟している[ 41] 。
交通
ギニアビサウ国内の田舎道に路駐するトラック
首都ビサウ以外の道路 は未舗装のままとなっており、ほとんどが整備されていない。一方で西アフリカ横断高速道路 (英語版 ) に通じる路線が建設されている。鉄道 は存在していない。作業用の小型貨物鉄道は19世紀 から存在していたものの、現在は機能していない。
水運については、国内においていくつかの川が河川舟運 の重要拠点となっている。ビサウ港 (ポルトガル語版 、英語版 ) は同国最大の港湾 である。
ビサウにはオスヴァルド・ヴィエイラ国際空港 が存在し、同国唯一の国際空港となっている。その他の空港についてはギニアビサウの空港の一覧 を参照のこと。
国民
首都での祭りに集まった人々
人口
ギニアビサウの人口は独立前の1961年に57万人だった[ 38] ものが1986年には91万人[ 5] 、2017年には186万人にまで増加した[ 33] 。
民族
99%をアフリカ系の諸民族が占め、バランテ人 (英語版 ) が30%、フラニ人 が20%、マンジャカ人 (英語版 ) (葡 : Manjacos )が14%、マンディンカ人 が13%、パペル人 (英語版 ) が7%であり、他にも民族が存在する[ 42] 。分布としてはバランテ人が中央部から南部、フラニ人とマンディンカ人が北部、マンジャカ人とパペル人が海岸部に主に居住する[ 43] 。国民の1%以下だが、主にカーボベルデから来たクレオール (ムラート )やヨーロッパ 人(主にポルトガル人 )なども存在する[ 42] 。クレオールは政治などを支配していた事から現地住民(特にバランテ人)は長年不満を抱いており、1980年のクーデターに結びついた。
言語
公用語 はポルトガル語 だが、ポルトガル語を話す人の割合はあまり高くなく、ポルトガル語をベースにしたギニアビサウ・クレオール語 が共通語としての役割を果たしており、地元では「Crioulo」または「Kiriol」と呼ばれている。
1992年の調査によれば、ポルトガル語は国民の1割以下に話される言語に過ぎなかった[ 44] 。ほかにバランテ語 (英語版 ) 、フラニ語 、マリンケ語 などの現地語などが存在する。
なお、ギニアビサウはフランス語圏 の国家ではないが、フランコフォニー国際機関 の加盟国となっている。
宗教
宗教は、現地宗教が40%、イスラム教 が50%、キリスト教 が10%となっている[ 42] 。南北に隣接するギニア、セネガル両国がイスラム教徒が多数派なのに対し、ギニアビサウは飛び地的にその他の宗教の信者の比率が高い。
教育
就学前教育、初等および補完的基礎教育、一般および補完的中等教育、技術的および専門的教育、高等教育(大学および非大学)の5つの枠に分けられている。義務教育 は7歳から13歳までとなっており、3歳から6歳までの子供に対する就学前教育は任意とされている。
2011年の推計によれば、国民の識字率 は55.3%(男性:68.9%、女性:42.1%)である[ 45] 。植民地時代の1950年 の非識字 率は98.85%であった[ 46] 。1999年にはGDPの5.2%が教育に支出された[ 42] 。高等教育機関としては、国立アミルカル・カブラル大学 や私立のコリナス・デ・ボエ大学 が存在する。
保健
治安
ギニアビサウの治安は不安定さを強めている。2012年以降、ヴァス前大統領とペレイラ元首相の対立を中心に政治的混乱が続いており、その状況下の2019年12月に大統領選挙の第二回投票が行われ、国家選挙管理委員会が「(暫定結果として)エンバロ候補(元首相)が同国大統領へ選出された」と発表しているものの、ペレイラ候補(元首相)が暫定結果について異議を唱えている事から最高裁判所も未だ最終決定を下していない。
この点から、今後も政情が不安定化する可能性がある為に首都ビサウを含めた主要地域においては充分な注意が必要とされている。
人権
マスコミ
文化
ギニアビサウ国立民族学博物館 (ポルトガル語版 )
食文化
地域によって主食となる穀物の種類が異なるのが特徴となっている。海岸近くの住民の主食は米、内陸部の住民の主食はキビ である。
一般的な料理には、スープ やシチュー などの汁物ならび煮込み料理が上げられる。一般的な食材には、ヤムイモ 、サツマイモ 、キャッサバ 、タマネギ 、トマト 、プランテン が用いられており、スパイス にはギニアペッパーグローブ (英語版 ) 、コショウ 、唐辛子 が使用される。
音楽
マネカス・コスタ (ガリシア語版 ) ギニアビサウの国民的歌手である
グンベ と呼ばれる音楽 のジャンル が存在する。
世界遺産
ギニアビサウには現在、世界遺産 となるものが存在していない。ただし、2006年 5月11日 に世界遺産条約 を批准 している[ 47] 。
祝祭日
スポーツ
ギニアビサウでも他のアフリカ 諸国同様に、サッカー が最も人気のスポーツ となっている。サッカーギニアビサウ代表 はFIFAワールドカップ への出場歴こそないものの、アフリカネイションズカップ にはこれまで3度出場している。近年では日本 のJリーグ に移籍するギニアビサウ人 選手も出て来ており、2019年 から2020年 にイズマ が松本山雅FC に所属し、2021年 にはバルデマール がFC今治 に所属していた。
著名な出身者
脚註
参考文献
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
ギニアビサウ に関連する
メディア および
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外部リンク
政府
日本政府
その他
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