燕市(つばめし)は、新潟県のほぼ中央部に位置する市である。
概要
2006年3月20日、燕市と西蒲原郡吉田町、同郡分水町の3市町の新設合併により、現在の燕市として発足した。人口は県下7位であるが、市域の大部分が平地であるため、人口密度は新潟市に次いで2番目である。
洋食器の生産では世界的なシェアを誇る工業都市である[1]。新潟県内では主に下越地方、もしくは県央地域に分類される。同じく県央地域の三条市、加茂市などと合わせ三条都市圏を形成している。
特に三条市はともに金属加工を中心に栄えたこともあって古くから相互補完の関係が深く、燕は「職人の町」、三条は「商人の町」とも称される。近年でも、燕市から三条市への通勤率は10.1 %(2010年度国勢調査より)に達する。
本市の固定電話における市外局番は全域で0256であるが、単位料金区域(MA)が旧燕市(三条MA)と旧吉田町及び旧分水町(巻MA)に分かれているため、互いの地域をまたがる通話に際しては、市外局番をつけてダイヤルする必要がある。
「燕」を発音する上でのアクセントは標準語では「つ」に置かれるが、地元では2文字目の「ば」に置かれることもある(これは白根、新発田、新井など県内の3文字地名で多く見られるパターンである)[2]。市名の由来は#歴史を参照。
地理
燕市は越後平野の中央部、下越地方南端に位置する。日本海には接しておらず、山岳は弥彦山脈南端の国上山があるのみで、それ以外の市域は概ね平坦である。市域には信濃川、大河津分水路、中ノ口川、大通川、西川などの河川が流れている。
市役所などが所在する吉田地区、旧燕市の中心地である燕地区、大河津分水路右岸側の分水地区の計3箇所に大きな市街地(人口集中地区)があり、この3地区の市街地外郭部には水田が広がる。また水田と各市街地の境界部には県内有数規模の工業団地が所在する。
吉田地区、分水地区の国道116号沿いと、燕地区の国道289号沿いにはロードサイド型の店舗が数多く林立する。特に燕地区の井土巻は燕三条駅や北陸自動車道の三条燕インターチェンジ、国道8号などが交わる交通網の要衝という立地から、隣接する三条市の須頃と共にビジネスホテル、シネコン、飲食店、アパート、マンションが林立するなど、都市化が著しく進捗している。
2015年(平成27年)の国勢調査によれば、新潟県の人口重心は燕市小池地区の住宅地内に存在する[3][4]。「県央地域」とは自然地理のみならず人口分布の面でも新潟県の中央部といえる。
隣接している自治体・行政区
歴史
古くは「津波目」と表記され、「津」は港、「目」は中心地を意味していた[7]。波頭(水上)に垣間見える多くの港の中で最も栄えた中心地、という意味で名付けられたものと考えられる。燕市は内陸部にあるため、ここでいう港とは信濃川の河岸に多くあった船着場の一つという意味であり、燕市周辺が米の集積地とされ水運の中継基地として栄えたようである。伝説では川上から流れてきて燕が群れていたことから見出された祠を建てた地とされるが、「燕」の文字に置き換えられた時期や由来は明確には分かっていない。
年表
飛鳥時代
奈良時代
平安時代
鎌倉時代
室町時代
安土桃山時代
江戸時代
明治時代
- 1868年(明治元年):信濃川大洪水、燕村を含む信濃川河川流域が1ヶ月間水に浸かる。
- 1870年(明治3年):享保の頃から願い出ていた大河津分水の工事が始まる。
- 1872年(明治5年):学制が施行され、多くの学校が建てられる。
- 1874年(明治7年):安全社により、新潟、燕、三条、長岡まで汽船航行が始まる。
- 1875年(明治8年):大河津分水の工事が中止される。
- 1896年(明治29年):7月洪水で横田村の堤防が切れる(横田切れ)。
- 1904年(明治37年):西川閘門が出来る。
- 1909年(明治42年):大河津分水の工事が再開される。
大正時代
昭和時代
平成時代
行政区域の変遷
人口
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燕市と全国の年齢別人口分布(2005年)
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燕市の年齢・男女別人口分布(2005年)
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■紫色 ― 燕市 ■緑色 ― 日本全国
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■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性
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燕市(に相当する地域)の人口の推移
1970年(昭和45年)
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78,444人
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1975年(昭和50年)
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80,471人
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1980年(昭和55年)
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82,984人
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1985年(昭和60年)
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84,181人
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1990年(平成2年)
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83,377人
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1995年(平成7年)
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84,051人
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2000年(平成12年)
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84,297人
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2005年(平成17年)
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83,269人
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2010年(平成22年)
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81,876人
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2015年(平成27年)
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79,784人
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2020年(令和2年)
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77,201人
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総務省統計局 国勢調査より
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行政
旧・燕市
当項目では、1954年3月31日から2006年3月19日まで新潟県に存在した(旧)燕市について紹介する。
市町村合併
前述の通り、2006年3月20日に燕市と吉田町、分水町が新設合併し、新しい燕市となった。
当初は、県央地域全体で政府案に沿った合併協議が進められていた。燕市は元々、新潟県西部広域消防事務組合(実質的後継組織は燕・弥彦総合事務組合)の構成町村である弥彦村、寺泊町、岩室村、分水町、吉田町との合併を目指し「西蒲原南部法定合併協議会」を結成して協議を進めたものの、吉田町、岩室村が相次いで離脱、残った4市町村も協議継続を断念して協議会は解散した。このうち岩室村は後に新潟市への編入合併に至っている。
その後、当時の燕市長である高橋甚一は三条市との合併を提案したところ、市内は賛成派と反対派で真っ二つに別れ、住民投票の結果わずかではあったが反対票が上回ったため、合併構想は消滅した。
一方、寺泊町、分水町、弥彦村の3町村による合併協議が進められたものの、弥彦村が合併条件の不備を理由に協議から離脱し、こちらも結局破談となった。
このように県央地域の中でも、特に西蒲原南部地区では合併協議が進まず混乱が続き、燕市をはじめとする各市町村は孤立状態に陥った。しかし吉田町が燕市に対して合併を打診したことから協議が再開され、のちに分水町も参加し、この3市町によって協議が進められることになった。さらに寺泊町も参加の意思を示したものの、3市町からの合意が得られず断念し、寺泊町は後に長岡市への編入合併に至った。また弥彦村はその後合併協議には参加せず、独自立村の道を歩むことになった。
そして2004年3月8日、3市町による任意協議会「燕・吉田・分水合併推進協議会」が発足[7]して具体的な協議を開始し、同年11月4日に法定協議会「燕・吉田・分水合併協議会」に改組、3市町が新設合併によって新市を発足させることで合意に至った。新市名は市民公募の結果「燕市」とする旨も決定。そして2005年2月21日、吉田町産業会館(現在の燕市吉田産業会館)において合併協定の調印式を執り行い、同年3月17日には泉田県知事へ合併申請を行い、同年8月16日付官報に告示され、2006年3月20日付で新設合併により現在の燕市が発足した。
庁舎
合併協議においては合併方法や新市の名称、合併建設計画などに加え、市庁舎の位置についても議論がなされたが、3市町の庁舎はいずれも既に築40年前後を経過して老朽化が著しいことから既存庁舎の活用は断念し、吉田地区を建設地として新市庁舎の建設計画を立案する方針が決まった。それに伴って新市庁舎が竣工するまでの間は、本庁機能を分散配置する分庁舎方式をとることとなり[11]、市長室や市議会などをはじめとした市政の中枢部は吉田庁舎(旧吉田町役場)に配置された[12]。吉田庁舎と燕庁舎(旧燕市役所)、分水庁舎(旧分水町役場)では引き続き各地区の業務が行われると共に、市の各部署が分散して置かれ、業務が行われていた。
2009年2月、市は「新市庁舎建設基本計画[13]」をまとめ、市域のほぼ中心点で、吉田庁舎から南東側約1.6km、国道116号吉田バイパス予定地沿線にあたる吉田西太田地内の農地を市庁舎の建設地とする旨を決定し、2011年7月に着工、2013年4月に竣工、同年5月7日から業務を開始した[14]。現市庁舎は地上4階建て、延床面積約11,400m2で、市内の公共施設では初めて免震構造を採用するなど防災機能を強化した他、太陽光発電や風力発電を採用するなど環境対策も図られた。総工費は45億5800万円を要した。新庁舎への移転と併せ、旧吉田庁舎は改修後、市民交流センターや別棟は水道局庁舎として活用され、その後、旧燕庁舎新館は新たに燕庁舎として開庁して水道庁舎が移転し、健診センターを設置。新しい燕庁舎と分水公民館に行政サービスコーナーを開設して証明書類の交付などを実施している。老朽化が著しかった旧燕庁舎本館と旧分水庁舎は閉鎖の上、解体撤去された。
議会
市議会
- 定数:20人[15]
- 任期:2018年11月1日 - 2022年10月31日
- 議長:大原伊一
- 副議長:渡邉雄三
衆議院
当落 |
候補者名 |
年齢 |
所属党派 |
新旧別 |
得票数 |
重複
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当 |
細田健一 |
57 |
自由民主党 |
前 |
105,426票 |
○
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|
高倉栄 |
50 |
国民民主党 |
新 |
37,157票 |
○
|
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平あや子 |
41 |
日本共産党 |
新 |
33,399票 |
○
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経済
産業
新潟県県央地域は日本を代表する金属加工製品の一大産地で、機械、自動車部品の製造が非常に盛んである。
とりわけ燕市はステンレス製品の加工業者が数多く立地し、特にカトラリーを中心とした金属製洋食器においては日本国内生産シェアの90%以上を占める。またプレス金型の製造業者が数多く、プラスチックなど非金属製品の製造も盛んに行われている。
市内に立地する全産業のうち、製造事業者の割合が36.4%であり、全国市区町村(従業者数1万人以上)の中で最も製造業の比率が高い市区町村である。(平成21年経済センサス)[16]
燕市には、得意とする部品や加工技術(溶接など)を異にする小規模な工場が多い。このため、医療機器など技術的に高度な少量の案件にも経営者や職人が話し合って素早く対応し、生産品目を多角化してきた[17]。
市内3地区の外郭部は水田がその多くを占めており、稲作を中心とした農業も基幹産業の一つである。養豚も盛んで、特に豚肉は県内各産地と共に「越後もちぶた」のブランドで県内外へ出荷している。
燕市における金属加工業の歴史
17世紀初頭、毎年のように起こる風水害に疲弊した三条・燕地域の領民を救うため、三条城に在任していた出雲崎陣屋代官の大谷清兵衛が、江戸から和釘の鍛冶職人を招き、農民の副業として和釘製造を奨励した。これが燕鍛冶の始まりである。その後、度重なる江戸の大火で和釘の需要は甚だしく増え、生産は繁忙を極めた。和釘のほかにも自家用鋸の目立用の刃鈩、仙台出身の藤七という名の人物が始めた銅器、江戸や会津から伝わった煙管、矢立の製造も始められた。
明治時代以降も東京や横浜では大災害や大火があり、和釘の需要はさらに拡大したが、燕・三条など国内の生産だけでは間に合わなかったことから、洋釘が導入され、これをきっかけに和釘の需要が減り、明治20年代には洋釘にほとんど取って替わられた。これによって、燕の主力産業であった和釘鍛冶業は、鈩、煙管、銅器、矢立、彫金など、他の金属加工業種への転業を余儀なくされた。銅製品は「燕銅物」と呼ばれ、もともと和釘とともに高い評価を受けており、明治後期には銅器・鈩・煙管業界は盛況を極めた[18]。
主な企業
- 玉川堂 ‐ 日本を代表する伝統工芸の一つ、鎚起銅器の鍛造を営む1816年(文化13年)創業の老舗で、燕(中央通二丁目)に工房を有する。鎚起銅器の製作技術は県の無形文化財および国の記録作成等の措置を講ずべき無形文化財にそれぞれ指定・選択され、店舗等建物は国の登録有形文化財に登録されている。また5代目次男の玉川宣夫は、鍛金の製作技術で国の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されている。
- 明道メタル - リロール・メーカー機能とコイルセンター機能を併せ持つ総合ステンレス加工メーカー。燕の本社・工場の他、吉田鴻巣にも工場を有する。
- 北越工業 - 大型エアコンプレッサーのブランド「AIRMAN」を中心とした建設機械メーカー。吉田地区南部の下粟生津に本社・工場が所在する他、創業地である分水地区の笹曲にも工場を有する。
- 三星金属工業 - コンクリート用棒鋼、土工用砕石など建設部材の製造を手掛ける合同製鐵の連結子会社。燕地区の小関に本社・工場を有する。三星の読み仮名は「みつぼし」で、韓国の三星財閥(サムスングループ)とは無関係である。
- うさぎもち - 餅、冷凍米飯、米粉など米加工品の製造。特に包装餅は「うさぎもち」のブランドで国内各地に出荷されており、サトウ食品、越後製菓に次ぐ業界シェア第3位である。本社は吉田東栄町。2014年7月に民事再生法の適用を申請し、前掲のサトウ食品とスポンサー契約を締結して経営再建が進められる。2017年5月に「きむら食品」から現商号に変更。
- 遠藤製作所 - ステンレス加工。自動車部品用ステンレス材の他、鋳造ゴルフクラブ・ヘッドの製造も手掛け、自社ブランド「エポン」の製造販売元でもある。本社は燕地区の東太田。
- 遠藤工業 - 産業用機械部品、工具等製造メーカー。上記の遠藤製作所とは無関係。
- 遠藤商事 - プロ用厨房機械器具、ステンレス洋食器の輸入・製造卸。上記2社とは無関係。
- 富士通フロンテック - 前身企業は燕地区で洋食器製造業を営んでいた金岩工作所で、1944年に富士通傘下となり電話機等の電気機器製造に転換。現在はATMやPOS等、金融・流通関連のシステムを手掛けるメーカーである。吉田東栄町に新潟工場を有する。
- パナソニック - 分水地区の大川津字島畑にエコソリューションズ社新潟工場を有する。1973年11月、松下電工新潟工場として操業開始。2008年のパナソニック電工への商号改称を経て、2012年のパナソニックグループの組織再編に伴って現体制となった。新潟工場では操業開始以来、主に照明機器の製造が行われている。
- フジイコーポレーション - 除雪機、農業用機械製造の準大手。
- 曙産業 - プラスチック製品加工メーカー。「くっつかないしゃもじ」などアイディア提案型日用品の企画・製造に特化している。本社所在地は燕地区の南町。
- ユニフレーム - キャンプ・アウトドア用品メーカー
- 和田ステンレス工業 - ステンレス容器製造。ビール樽など各種容器はもとより、電子工業や食品加工、製薬などの分野で使用されるクリーン容器の製造技術を有する。吉田下中野に本社・工場を有する。
- 東陽理化学研究所 - ステンレス、アルミニウム、チタニウム等表面処理
- サクライ - 洋食器メーカー。本社所在地は燕地区の物流センター一丁目。事業内容は金属洋食器製造販売、HVS(特殊表面加飾)、表面硬化処理等[19]。
- 燕振興工業 - カトラリーなど洋食器の他、カーブミラーなどの反射鏡や道路標識、広告板、案内板などの製造を数多く手掛ける。本社所在地は燕地区の小池。
- ツインバード - 小型家電製品メーカー。スタンドなどの小型照明機器で国内第2位のシェアを持つ他、ニッチ製品の企画・販売に特化している。本社所在地は吉田西太田。
- 山崎金属工業 - ステンレス食器・銀食器を中心としたカトラリーの製造メーカー。ノーベル賞授賞式の晩餐会に用いられるカトラリーの製造を手掛けるなど高級品に特化しており、世界各地へ出荷されている。本社所在地は燕地区の大曲。
- 藤次郎 (刃物製造) - 「藤次郎」ブランドの業務用・家庭用包丁専門メーカー。
- ホクエツ - 小型農業機械のメーカー。農業関係以外にも宅配トマト事業部でオフィス向けの消耗品も取扱いしている。
- 丸七 - 日用品卸売会社。本社所在地は燕。
- エムテートリマツ - 給食・外食向けキッチン用品の卸販売。厨房良品サイト運営
- アキラ産業 - 新潟県内を中心に100円ショップ「なんじゃ村」を展開。
- 協栄信用組合 - 燕市を中心に加茂市、田上町、新潟市南部に店舗網を有する信用協同組合。本部・本店は燕地区の東太田。
- 原田乳業
姉妹都市・提携都市
その他
燕市は日本プロ野球 (NPB) のチームである東京ヤクルトスワローズ(セントラル・リーグ)との間で、2011年(平成23年)シーズンからチーム名と同じ「つばめ」に因んで交流・連携事業を実施している。
2010年(平成22年)9月15日、ヤクルト球団の本拠地である明治神宮野球場の対読売ジャイアンツ(巨人)戦で実施されたイベント「うまさぎっしり新潟Day」で、燕市が市内産ブランドコシヒカリ「飛燕舞(ひえんまい)」を出品した所、「縁起が良い」と球団関係者の眼に止まった事が契機となり、翌年には正式に連携協定を締結して交流事業が開始された。
燕市では、同球団と共同で同年から市内の水田で田植え・稲刈りを通じた市民とファンの交流イベント「スワローズ・ライスファームプロジェクト」を開催している他、燕市に拠点を置く企業による主催公式戦の賞品提供や、球団グッズの企画・製造等が行われている。球団マスコットのつば九郎は2013年(平成25年)、燕市の親善大使として「燕市PR隊鳥」に任命され、市内の祭りやイベント等に派遣されている。
同球団ではキャンプ地でもある愛媛県の松山市、宮崎県の西都市、沖縄県の浦添市とも交流・連携事業を実施しており、これら計4市が相互理解と協力関係を深めると共に、相乗効果で各市のイメージアップや地域活性化に繋げる事を目的に、同球団の本拠地である明治神宮野球場でのイベントや、各都市が持ち回りで毎年夏に開催している少年野球大会等で交流を深めている。
因みに同球団に在籍した事がある新潟県出身のプロ野球選手は渡辺保[注釈 1]、大滝信孝[注釈 2]、黒坂幸夫、川村一明[注釈 3]、青島健太、本間忠、鈴木裕太の7人である[注釈 4]。
なお、同球団のユニフォームのロゴを担当した亀倉雄策も、燕市の出身である。
教育
大学
市内に大学は所在しない。
なお2005年には柏崎市の新潟産業大学が、燕市内にサテライトキャンパスを設置する構想を明らかにしたものの、同市および財界関係者などが「機能の一部だけであっても、産大が市外に移転する事は容認しがたい」と難色を示すなどし、実現には至らなかった。
中等教育学校
高等学校
中学校
- 燕市立燕中学校
- 燕市立小池中学校
- 燕市立燕北中学校
- 燕市立吉田中学校
- 燕市立分水中学校
小学校
- 燕市立燕東小学校
- 燕市立燕西小学校
- 燕市立燕南小学校
- 燕市立燕北小学校
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- 燕市立粟生津小学校
- 燕市立吉田小学校
- 燕市立吉田北小学校
- 燕市立吉田南小学校
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- 燕市立島上小学校
- 燕市立分水小学校
- 燕市立分水北小学校
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特別支援学校
ライフライン
施設
| この節の 加筆が望まれています。 (2021年9月) |
- 主な文化・ホール施設
- 燕市文化会館
- 吉田産業会館 - 吉田町産業会館として東栄町工場団地内に1984年完成[20]。
- 主なスポーツ施設
- 燕市体育センター
- 吉田トレーニングセンター(ビジョンよしだ) - 1994年竣工[21]。
- 吉田総合体育館 - 1977年完成[22]。
- 分水総合体育館
- ジムナスト分水
- スポーツランド燕
交通
鉄道路線
- 東日本旅客鉄道(JR東日本)
中心となる駅は吉田駅(市内唯一の有人駅)であるが、市役所庁舎の最寄り駅は越後線の南吉田駅。
過去の鉄道路線
バス
越後交通および新潟交通観光バスの路線バスのほか、市により循環バス「スワロー号」「やひこ号」が運行されている。また、市内全域に予約制乗合ワゴン車「おでかけきららん号」が設定されている。
このほか、2020年(令和2年)10月からは燕市産業史料館や燕三条駅を経由するコミュニティバスの実証実験が行われている[23]。
高速バスは、北陸自動車道上の三条燕バスストップから県内線・県外線とも多数の路線が利用できる。また、燕駅を発着地とし、三条燕ICから高速道路を出入りして新潟市街を結ぶ路線も平日2往復のみ新潟交通観光バスにより運行されている(詳細は新潟交通観光バス#高速バスを参照)。
道路
- 高速道路
- 一般国道
- 県道
道の駅
文化
料理
- 背脂ラーメン - 市内のラーメン店(福来亭)が発祥。背脂チャッチャ系の源流ともいわれる。
- 鶏肉のレモン和え - 鶏のから揚げに、レモン果汁をブレンドした甘辛いたれを絡めたもの。吉田地区で1981年(昭和56年)から学校給食のメニューとして提供され、同地区を中心に親しまれている[25]。
このほか、昭和30年代以降、釜飯が根付いている[26]。
観光
参考Webページ:「観光パンフレット(燕市観光協会)」
工場見学・体験などの産業観光が盛んである[27]。
観光スポット
- 国上寺や、五合庵、乙子神社といった良寛ゆかりの地をめぐることができ、遊歩道や展望台、ビジターサービスセンター、駐車場など観光整備が行われている。
- 日本さくら名所100選に選定された桜の名所。大河津分水と信濃川に挟まれた地域は公園として整備されており、大河津可動堰や新洗堰、国の登録有形文化財である(旧)洗堰を眺めることができるほか、「信濃川大河津資料館」や魚道観察室が設けられるなど総合学習の場となっている[28]。
- 天保8年(1837年)に隕石が落下してきた場所であり、跡地には記念碑が建てられている[30]。
- 樹齢350年と推定され、県指定の天然記念物となっている[31]。
このほか、隣接する三条市に燕三条地場産センターが設けられ、県央地域の情報発信拠点となっている。
娯楽・レジャー
祭事・催事
- 分水おいらん道中(4月第3日曜)
- 燕戸隠神社春季祭礼(5月中旬)
- 天満宮祭礼(5月24日、25日)
- 飛燕夏まつり(7月第3土曜・日曜)
- 分水まつり(7月第3土曜・日曜)
- 吉田まつり(7月第4金曜・土曜)
- 燕戸隠神社秋季祭礼(9月15日)
- 燕三条 工場の祭典(10月上旬)
- 越後くがみ山酒呑童子行列(9月下旬)
著名な出身者
50音順。職種等の後に出生地区を旧自治体名で記載する。このうち4名が2020年7月現在、燕市から「燕市PR大使」に任命されている。
脚注
注釈
出典
関連項目
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、
燕市に関連するカテゴリがあります。
- 行政
-
- 歴史・報道
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- 観光・その他
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