煩悩 (ぼんのう、サンスクリット語 : क्लेश , kleśa 、クレーシャ、巴 : kilesa 、キレーサ、英 : Kleshas )とは、仏教 の教義の一つで、身心を乱し悩ませ智慧 を妨げる心 の働き(汚れ)を言う。同義語として、漏 (ろ; aśrava 、アーシュラヴァ、巴 : asava 、アーサヴァ)[ 1] [ 注 1] [ 注 2] 、随眠 (ずいめん; anuśaya , アヌシャヤ、巴 : anusaya 、アヌサヤ)、暴流(ぼうりゅう; ogha)[ 1] 、軛(くびき; Yoga)[ 1] など、数多くの表現が用いられたりもする。
仏教では、人の苦 の原因を自らの煩悩ととらえ、その縁起 を把握・克服する解脱 ・涅槃 への道が求められた。釈迦は、まず煩悩の働きを止めるのは気づき (念)であり、そして根源から絶するものは般若 (智慧)であると説いている[ 2] [ 3] 。
部派仏教 の時代になると、煩悩の深い分析が行われた。
煩悩の数について
煩悩の根本に三毒 がある。人生 においてどのような局面がどのような煩悩となるかをよく知る(遍知)ため、後代にそれを細かく分析し修習の助けとしたものであり、「数」を突き詰めれば無限にあると考えられる。このため、「稠林」(森林のように数多の煩悩)とも表される。
日本では俗に煩悩は108あり、除夜の鐘 を108回衝くのは108の煩悩を滅するためと言われる。実際には時代・部派・教派・宗派により数はまちまちであり、少なくは3、多い場合は(約)84,000といわれる。
心所 の区分から言えば、
を煩悩とみなすことができる。
基本
三毒
煩悩の根源(人間の諸悪の根源)は、
の3つとされ、これをあわせて三毒(さんどく)と呼ぶ。三毒の中でも特に痴愚、すなわち物事の正しい道理を知らないこと、十二因縁 の無明 が、最も根本的なものである。
煩悩は、我執 (自己が実体的に存在すると考えて執着すること[ 4] )から生ずる。この意味で、十二因縁中の「愛」は、ときに煩悩のうちでも根本的なものとされる(日常語の愛 と意味が異なることを注意)。
五蓋
の5つを、五蓋(ごがい)と呼ぶ。蓋とは文字通り、心を覆うものの意味であり、煩悩の異称。
これらは比丘 の瞑想 修行の妨げになるものとして、取り除くことが求められる。
五下分結・三結
修行者を欲界 (下分)へと縛り付ける煩悩を、五下分結 (ごげぶんけつ)と呼ぶ。結 とは束縛の意。
欲愛 (よくあい) - カーマ (五感)への渇望・欲望
瞋恚 (しんに) - 悪意・憎しみ
有身見 (うしんけん) - 我執
戒禁取見 (かいごんじゅけん) - 誤った戒律・禁制への執着
疑 (ぎ) - 疑い
この5つを絶つことで、不還果 へと到達できる[ 5] [ 6] 。
この5つの内、3.〜5.の3つを特に三結 (さんけつ)と呼び、これらは四向四果 の最初の段階である預流果 において、早々に絶たれることになる。
五上分結
修行者を色界 ・無色界 (上分)へと縛り付ける煩悩を、五上分結 (ごじょうぶんけつ)と呼ぶ。
色貪(しきとん) - 色界 に対する欲望・執着
無色貪(むしきとん) - 無色界 に対する欲望・執着
掉挙 (じょうこ) - (色界・無色界における)心の浮動
慢 (まん) - 慢心
無明 (むみょう) - 根本の無知
この5つを絶つことで、四向四果 の最終段階である阿羅漢果 へと到達できる[ 5] [ 6] 。
三漏
相応部 漏経では、釈迦は以下の三つの漏 (asava)を挙げている[ 1] 。
欲 漏 (Kāma āsavo)
有 漏 (bhava āsavo)
無明 漏 (avijjā āsavo)
四暴流・四軛
ブッダゴーサ によると、釈迦は渇愛を川に喩え、「川の流れ」すなわち暴流(ogha)を渡って彼岸 に至ることを涅槃 と位置づけた[ 7] 。四暴流は四漏 ともされる。これら四暴流を絶つ道は、八正道であると釈迦は述べている[ 8] 。
Cattārome āvuso oghā: kāmoso bhavogho diṭṭhogho avijjogho. Ime kho āvuso cattāro oghāti.
友よ、これら四つの暴流がある。欲暴流、有暴流、見暴流、無明暴流。友よ、これらが四暴流である。
欲 暴流(kāma ogha)
有 暴流(bhava ogha)
見 暴流(diṭṭhi ogha)
無明 暴流(avijjā ogha)
Cattāro'me bhikkhave yogā. Katame cattāro? Kāmayogo bhavayogo diṭṭhiyogo avijjāyogo.
比丘たちよ、これら四つの軛がある。いかなる四か。欲軛、有軛、見軛、無明軛である。
四軛(しけつ)とは、四つの軛(くびき,Yoga)のことであり、同じく煩悩を指す[ 1] 。
欲 軛 (Kāma yogo)
有 軛 (bhava yogo)
見 軛 (diṭṭhi yogo)
無明 軛 (avijjā yogo)
諸説
説一切有部
説一切有部 では、煩悩を分析し、見惑と修惑(思惑)とに分け、また貪 ・瞋 ・癡 ・慢 ・疑 ・悪見 の6種を根本煩悩とした。さらに、付随する煩悩(随煩悩 )を19種数える。
九十八随眠
また説一切有部 では、『倶舎論 』「随眠品」などにも見られるように、伝統的に煩悩(随眠)を九十八随眠 として表現することもある[ 9] 。
これは、貪・瞋・痴・慢・疑・見の六随眠を起点とし、三界 の内の欲界 に32、色界 ・無色界 にそれぞれ28、計88の見惑(見道所断によって断たれる煩悩)を配置し、更に10の修惑(修道所断によって断たれる煩悩)を加えて、九十八随眠としたものである。
これに十纏 とよばれる10の煩悩を付け加えたものが、俗に108つの煩悩と呼ばれているものである。
唯識派・法相宗
大乗仏教 の瑜伽行派 (ゆがぎょうは)では、上記の根本煩悩から派生するものとして、20種の随煩悩を立てた。
瑜伽行派の後継である東アジアの法相宗 もこの説に従う。
脚注
注釈
出典
関連項目