東本願寺(ひがしほんがんじ)は、京都府京都市下京区常葉町にある真宗大谷派の本山寺院[1]。本尊は阿弥陀如来。正式名称は真宗本廟(しんしゅうほんびょう)[2][3]であり、山号はない。東本願寺の名は通称であり、西本願寺(龍谷山本願寺)に対して東に位置することに由来している。愛称は「お東」「お東さん」。2020年(令和2年)7月現在の門首は、大谷暢裕(修如)。
天正19年(1591年)、浄土真宗本願寺派法主で本願寺11世の顕如は、豊臣秀吉により新たに寺地の寄進を受け、本願寺を大坂天満から京都堀川六条に移転させた。
慶長7年(1602年)、後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康から、豊臣秀吉の命により本願寺の寺内で隠居所(御影堂と阿弥陀堂もあり)を設けて、北方に隠居させられていた教如(顕如の長男)へ烏丸七条に寺領が寄進された。これにより本願寺は正式に准如(顕如の三男)の西(本願寺派)と、新たに分派してできた教如の東(大谷派)に分立した。この時、江戸幕府内では本願寺派法主の准如が関ヶ原の戦いにおいて西軍に味方したことから、准如に代わり教如を本願寺派法主にしようとの考えもあったが、浄土真宗の力を削ぐのに有効との考えから結局分立させることになった、ということになっている。しかし、教如は以前から石山合戦以来の自らの派(後の大谷派)を有しており、宗派内部はすでに完全に分裂状態にあった。
分立当初は准如の堀川六条の「本願寺」は「本願寺」「六条門跡」「本門」「にしもんぜき」などと呼ばれ、教如の烏丸七条の「本願寺」は「信淨院(教如の院号)本願寺」「本願寺隠居」「七条本願寺」「信門(「信淨院の門跡」の意)」「ひがしもんぜき」などと呼ばれた。便宜上、堀川六条の本願寺の東側にある烏丸七条の本願寺が「東本願寺」と通称されたため、相対的に堀川六条の本願寺も「西本願寺」と通称されるようになった。
寛永18年(1641年)、3代将軍徳川家光から1万坪の土地が寄進された。寄進された土地は東本願寺から少し東に行ったところであり、以後、飛び地境内となった。その後、承応2年(1653年)に石川丈山によって庭園が造られ、渉成園と名付けられた。
万治元年(1658年)、3年後(寛文元年(1661年))に親鸞聖人四百回御遠忌があるため、それに合わせて老朽化していた阿弥陀堂・御影堂(以下、両堂)を再建する。
寛文10年(1670年)、親鸞聖人を祀る大谷祖廟が造立される。延享2年(1745年)には8代将軍徳川吉宗が、大谷祖廟に隣接している長楽寺の境内地1万坪を没収し、そのまま大谷祖廟に寄進している。
天明8年(1788年)1月の天明の大火によって両堂が焼失するが、寛政10年(1798年)に幕府による用材の寄進もあって両堂は再建された。
文政6年(1823年)11月15日、境内からの失火で両堂が焼失する。天保6年(1835年)、両堂が再建される。
安政5年(1858年)北の町屋からの火で両堂が焼失する。しかし、3年後(文久元年(1861年))に親鸞聖人六百回御遠忌が控えていたために、万延元年(1860年)には早くも両堂は仮堂ながらも再建された。しかし、仮堂とはいえその平面規模は焼失以前の両堂と同規模であった。
元治元年(1864年)7月の禁門の変に伴うどんどん焼けで両堂は焼失する。
東本願寺は、江戸時代に上記にある通り4度の火災に遭っており、その火災の多さから「火出し本願寺」と揶揄された。しかし、東本願寺が火元となったのは、文政6年(1823年)11月15日の火災のみである。
現在の阿弥陀堂と御影堂は1880年(明治13年)に起工され、1895年(明治28年)にようやく落成した建物である。建築・障壁画等の製作には当時の第一級の職人が参加している。
大谷派の最高規範である『真宗大谷派宗憲』(以降、『宗憲』)には、「真宗本廟は、宗祖聖人の真影を安置する御影堂(ごえいどう)及び阿弥陀堂を中心とする聖域であって、本願寺とも称し、本派[4]の崇敬の中心、教法宣布の根本道場である」と規定[5]される。しかし、お東騒動と呼ばれる内紛が起こり、その結果、1987年(昭和62年)に「単位宗教法人(被包括宗教法人) 本願寺(通称:東本願寺)」は、「包括宗教法人 真宗大谷派」によって解散させられ、「包括宗教法人 真宗大谷派」に吸収されてその直属の宗教施設となり、通称:東本願寺は正式名称を「本願寺」から「真宗本廟」に改称した[6]。
よって現在、真宗本廟は真宗大谷派が管理する礼拝施設等(伽藍)の総称であり、宗教法人法による「寺院」ではない(宗教法人法による宗教法人の分類については、宗教法人#単位宗教法人と包括宗教法人を参照。)。
これ以降厳密には本願寺と呼ばれる寺院は、下京においては浄土真宗本願寺派本山の本願寺(通称:西本願寺)のみとなっているのだが、現在でも真宗本廟の通称として「東本願寺」の名称が引き続いて使用されている。
特別な儀式・法要・行事のない日の予定。儀式・法要などが営まれる日は、日程および時間を変更する場合がある。
親鸞の入滅から本願寺東西分立までの歴史の詳細については、「本願寺の歴史」を参照。
文禄元年(1592年)11月24日、本願寺十一代 顕如の示寂にともない顕如の長男である教如(光寿)が本願寺を継承する。この時、石山合戦で篭城した強硬派を側近に置き、顕如と共に鷺森に退去した穏健派は重用しなかったため、教団内に対立が起こる。
文禄2年(1593年)閏9月、教如は豊臣秀吉の命により退隠させられ、准如に法主が継承する事が決定する。(教如#退隠を参照。)
慶長7年(1602年)2月、後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康より烏丸六条[39]に寺地を寄進され、教如は本願寺の第十二代に就任する。このことにより本願寺は、「堀川七条の本願寺」と「烏丸六条の本願寺」とに分立する。(詳細は、本願寺の歴史・「教如退隠」〜「本願寺分立」のセクションを参照。)
慶長8年(1603年)11月10日、阿弥陀堂が落成する。
慶長9年(1604年)9月16日、、御影堂が落成する。
承応元年(1652年)、規模拡大のため御影堂の再建に着手する。
明暦4年/万治元年(1658年)3月28日、御影堂が落成する。
寛文7年(1667年)、規模拡大のため阿弥陀堂の再建に着手する。
寛文10年(1670年)3月15日、阿弥陀堂が落成する。
元治元年(1864年)7月20日、禁門の変を発端とする兵火が元となり、京都市街は「どんどん焼け」と呼ばれる大火災となる。東本願寺も罹災し、御影堂・阿弥陀堂・渉成園など伽藍の大部分を焼失する。
1977年(昭和52年)11月2日、東本願寺爆破事件が起きる。
1981年(昭和56年)6月11日、新『真宗大谷派宗憲』(「新宗憲」)発布。宗憲改正にともない、「法主」を廃して「門首」を新たに設け、本願寺住職および管長の役職を廃止した。(詳細は「お東騒動」を参照。)
1987年(昭和62年)12月、「宗教法人 本願寺[40]」を宗教法人法に基づいて解散の登記[41]を行い、「宗教法人 本願寺」は「宗教法人 真宗大谷派」に吸収合併される。このことを「宗本一体」という。当時の法主は、第二十四代法主 闡如。合併により「東本願寺」は、法人格を有さない寺院[42]となり、真宗大谷派の本山としての礼拝施設となる。正式名称は「真宗本廟」に変更される。また、「東本願寺」の通称も公式に併用している。
2003年(平成15年)11月、「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌」の特別記念事業の一環として行われる「御影堂修復」のため、「御影堂」に安置している「御真影」(宗祖親鸞の坐像)を「阿弥陀堂」へ移す、「御真影動座式」を執り行う。「御真影」は、「阿弥陀堂」の本間右側に新たに設けた仮の「御厨子」に安置する。
2004年(平成16年)3月4日、「真宗本廟御影堂御修復起工式」を執り行う。修復は、非解体修理を基本とし、素屋根工事、瓦葺き替え工事[43]、御厨子・須弥壇の修復を含む内陣・外陣等の美装工事、大虹梁鉄骨補強補強を含む構造補強工事、耐震補強工事、土居葺工事、木工事、金属工事、外部鋩金物工事等の大規模修復である。
2009年(平成21年)8月3日、「御影堂」において「真宗本廟御影堂修復竣工式」が執り行う。
同年9月30日、「阿弥陀堂」に安置していた「御真影」を「御影堂」の「御厨子」に戻す、「宗祖親鸞聖人御真影還座式」を執り行う。
同年11月20日、「御影堂御修復完了奉告法要」を厳修する。
本願寺寺基の移転と分立
大谷廟堂 1272-1295(1321) → (大谷影堂)1295-1321 → 大谷本願寺1321 - 1465 ⇒ 山科本願寺1483 - 1532 ⇒ 石山本願寺(大坂本願寺)1532 - 1580 ⇒ 鷺森本願寺1581 - 1583 ⇒ 貝塚本願寺1583 - 1585 ⇒ 天満本願寺1585 - 1591 ⇒ 本願寺(堀川六条)1591 - (1603) → (1603本願寺の東西分立) ↙
→ 本願寺(通称:「六条門跡」・「本門」→「西本願寺」)1591(1603) -
⇒ 本願寺(通称:「信淨院本願寺」・「七条本願寺」→「東本願寺」)1603 - (1987) → (東本願寺分派)↙
本願寺(東本願寺)1603 - 1987 → 真宗本廟(通称:東本願寺・本願寺)1987 -
東京本願寺1981 - 2001 → 浄土真宗東本願寺派本山東本願寺2001 -
⇒ 本山本願寺(山科区上花山)1996 -
⇒ (嵯峨)本願寺2005 -
東西分立後も、1987年に真宗大谷派が「宗教法人 本願寺」の解散の登記を行うまでは、共に「本願寺」が正式名称である。真宗大谷派は、1987年以降も「真宗本廟」の別称として「本願寺」を用いている『宗憲』第十三条。記号 - 「⇒」は寺基移転を表し、「→」は寺基移転を伴わない名称変更などを表す。
本願寺歴代
(宗祖) 親鸞 - (2) 如信 - 3 覚如 - 4 善如 - 5 綽如 - 6 巧如 - 7 存如 - 8 蓮如 - 9 実如 - 10 証如 - 11 顕如 - (12→隠退) (教如) - (1603年 本願寺の東西分立) ↙
→ 西12 准如 - 西13 良如 - 西14 寂如 - 西15 住如 - 西16 湛如 - 西17 法如 - 西18 文如 - 西19 本如 - 西20 広如 - 西21 明如 - 西22 鏡如 - 西23 勝如 - *西24即如 - 西25大谷光淳(専如) -
→ 東12 教如 - 東13 宣如 - 東14 琢如 - 東15 常如 - 東16 一如 - 東17 真如 - 東18 従如 - 東19 乗如 - 東20 達如 - 東21 嚴如 - 東22 現如 - 東23 彰如 - 東24 闡如 → (東本願寺分派)↙
東25 淨如 - 東26 大谷暢裕(修如) -
東本25 興如 - 東本26大谷光見(聞如) -
東山25 大谷暢順(經如)[2] -
嵯峨25 大谷光道(秀如) -
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称名念仏 | 末法思想
「浄土三部経」(『仏説無量寿経』 曹魏康僧鎧訳 / 『仏説観無量寿経』 劉宋畺良耶舎訳 / 『仏説阿弥陀経』 姚秦鳩摩羅什訳)『般舟三昧経』 支婁迦讖訳
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