大谷 光勝(おおたに こうしょう)は、江戸時代後期から明治時代にかけての浄土真宗の僧。法名は、「嚴如[1]」(ごんにょ)。東本願寺第二十一代法主[2] 。真宗大谷派管長。子に四男・大谷光瑩、九男・大谷勝信、次女(水谷川忠起の妻)、六女・梭子(おさこ。岩倉具経の妻)ら。
生涯
本ページでは、年齢は、数え年。日付は、暦の正確性、著作との整合を保つ為、天保14年12月29日(1844年2月17日[3] )までは、寛政暦表示。天保15年1月1日(1844年2月18日)から明治5年12月2日(1872年12月31日)までは、天保暦表示。明治6年1月1日(1873年1月1日)からは、グレゴリオ暦表示とする(誕生年月日を除く)。また本山は、「本願寺」が正式名称だが、「西本願寺」との区別の便宜上、「東本願寺」と表記。
栄典・授章・授賞
- 位階
脚注
- ^ a b c 嚴如…旧字体が正式表記。「厳如」と新字体で表記する場合もある。
- ^ 正式には「本願寺」。一般には通称である「東本願寺」と呼称するので、「東本願寺第二十一代法主」と表記。
- ^ a b グレゴリオ暦。
- ^ 奥野研寿『厳如上人御一代記』P.42 - 43。
- ^ 柏原祐泉『近代大谷派の教団』真宗大谷派宗務所出版部、1986年、45頁。
- ^ 『官報』第372号「叙任」1884年9月22日。
- ^ 『官報』第1878号「叙任及辞令」1889年10月1日。
- ^ 『官報』第3162号「叙任及辞令」1894年1月16日。
- ^ 『官報』第4871号「叙任及辞令」1943年4月10日。
参考文献
奥野研寿『厳如上人御一代記』(増訂)護法館、1895年5月。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/820739/1。
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東西分立前 (本願寺の歴史) | |
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東西分立後 |
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東西分立後も、1987年に真宗大谷派が「宗教法人 本願寺」の解散の登記を行うまでは、共に「本願寺」が正式名称である。真宗大谷派は、1987年以降も「真宗本廟」の別称として「本願寺」を用いている『宗憲』第十三条。 記号 - 「⇒」は寺基移転を表し、「→」は寺基移転を伴わない名称変更などを表す。
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東西分立前 | |
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東西分立後 |
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略称 - 「西」=本願寺派、「東」=大谷派、「東本」=東本願寺派、「東山」=(東山上花山)本願寺、「嵯峨」=(嵯峨)本願寺 |