新高(にいたか/にひたか)は、日本海軍の軍艦[2][3]。 艦名は当時日本領内の最高峰であった台湾の「新高山」(現「玉山」)にちなんで名づけられた[2]。 新高型防護巡洋艦の1番艦。 建造時の艦種は三等巡洋艦[4]。続いて二等巡洋艦に類別[5]。旧式化により二等海防艦に類別された[6]。 1922年(大正11年)8月26日、カムチャツカ半島で悪天候により遭難、沈没した[7][8]。
それまで巡洋艦の主砲はアームストロング社から輸入した安式砲であったが、新高からは国産の四一式砲となった。
1901年(明治34年)1月7日、横須賀工廠で起工[2]。1902年(明治35年)11月15日の新高進水式には[2]、明治天皇皇后(のち昭憲皇太后)が臨席した[9][10]。 同日附で第一号三等巡洋艦は制式に「新高」と命名される[11][3]。三等巡洋艦に類別[4][12]。 1904年(明治37年)1月27日に竣工[2]。新高と装甲巡洋艦磐手は二本スクリュー内側回転のため、操艦の難しい艦として有名であったという[13]。
日露戦争では、仁川沖海戦、旅順攻略作戦、蔚山沖海戦(直接の戦闘には間に合わず)、日本海海戦等に参加[2][14]。
1912年(大正元年)8月28日、日本海軍は艦艇類別等級表を改訂する[15]。排水量7,000トン未満の巡洋艦を『二等巡洋艦』と規定したため[15]、新高以下13隻が二等巡洋艦に類別された[16][5]。
第一次世界大戦では、青島攻略戦に参加、さらにインド洋、南アフリカ水域での作戦に従事した[2]。
尼港事件後の1920年6月、「新高」はカムチャツカ半島へ派遣された[17]。
1921年(大正10年)初頭には巡洋艦2隻(利根、新高)で第二南遣艦隊(吉田清風少将)を編制していたが間もなく解隊され、「新高」(当時の新高艦長今村信次郎中佐、副長柳沢恭亮少佐、航海長福留繁大尉)[18]は単独で東南アジア方面の巡航に従事した[19]。5月から9月にかけて、南シナ海、オランダ領東インド諸島、スラバヤ・バタビア方面の警備と調査をおこなっている[2]。
同時期、欧州訪問を終えた皇太子(のち昭和天皇。当時20歳)は御召艦「香取」に乗艦し、帰路についていた[20]。8月21日、「香取」(艦長漢那憲和大佐)および随艦「鹿島」(第三艦隊司令長官小栗孝三郎中将、鹿島艦長小山武大佐)はカムラン湾に到着した[21]。「新高」及び給炭艦「室戸」(侍従甘露寺受長乗艦)は2隻を出迎えた[22]。 8月23日、給炭作業の合間に皇太子と閑院宮載仁親王は「新高」に乗艦し、乗組員の歓迎を受けた[23]。8月25日午前6時、艦隊(香取、鹿島、新高、室戸)はカムラン湾を出発、「室戸」は台湾へ、「新高」はマニラへ向かい、日本を目指す戦艦2隻(香取、鹿島)と別れた[24]。 9月1日、本艦含め二等巡洋艦5隻(千歳、須磨、明石、新高、対馬)は二等海防艦に類別変更された[25][6]。
1922年(大正11年)6月10日、古賀琢一大佐(新高艦長)指揮下の3隻(海防艦〈新高〉、第1駆逐隊〈欅、槇〉)は室蘭を出発、漁船保護を主任務として北方海域に向かった[26]。8月25日、カムチャツカ半島(オホーツク海)で漁業保護任務に従事中の「新高」はオジョールナヤ基地沖で停泊中、夕刻より天候が急変する[26][27]。新高乗組員は「千島列島の火山が噴火したのか」と噂していたという[26]。その後、新高は暴風(台風)に遭遇し、8月26日午前5時30分から午前6時頃にかけて北緯51度33分 東経156度28分 / 北緯51.550度 東経156.467度 / 51.550; 156.467地点で座礁、右舷に転覆した[28][29]。
8月27日正午、海岸に漂着した岡田一等水兵よりキスカ島電信所を通じて遭難報告を受けた第一駆逐隊司令中川鞆信中佐は[30][31]、駆逐艦「欅」から「槇」(艦長山中順一少佐、水雷長小柳冨次大尉)に移乗(欅は座礁によりスクリュー損傷中)[26]。ペトロパブロフスクを出撃し、占守海峡を通過して8月28日朝になり新高遭難現場に到着する[26]。 新高艦長の古賀琢一大佐以下300余名(傭人4名)の乗員のうち生還したのは[32]、岡田水兵と艦内から救助された機関兵15名(1名は救出後に死亡)のみであった[29][26]。 また新高遭難現場には、9月4日に室戸型給炭艦2番艦「野島」[33]、同月6日に装甲巡洋艦「八雲」も派遣されている[34][35]。 新高沈没の情況は皇太子(のちの昭和天皇)にも報告された[7]。殉職者の葬儀は9月29日(下士官兵)と9月30日(艦長以下士官)に行われた[36]。
翌1923年(大正12年)4月1日、「新高」は除籍[2][37]。艦艇類別等級表からも除かれた[38][39]。「新高」の残骸については、工作艦「関東」(艦長内藤省一大佐)の手により現地で解体処分および遺体の回収が実施された[40]。
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。階級は就任時のもの。
この項目は、軍艦に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:軍事・PJ軍事・PJ船)。
Lokasi Pengunjung: 3.145.17.55