見島 (みしま)は[ 5] 、日本海軍 の海防艦 [ 6] [ 7] 。
後日、砕氷艦 [ 8] 。
その後、潜水艦母艇[ 9] [ 10] として運用された。
艦名は山口県 の沖、日本海 に浮かぶ見島 からとられる[ 11] 。
前身は1894年 (明治27年)にロシアの新アドミラルティ造船所 [ 12] で進水したロシア海軍 のアドミラル・ウシャコフ級 海防戦艦 「アドミラル・セニャーヴィン(Адмирал Сенявин)」である。
艦歴
アドミラル・セニャーヴィン
1892年7月9/21日[ 14] 、建造開始[ 15] 。1893年4月8/20日起工[ 15] 。1894年8月10/22日進水 [ 15] 。1897年7月、公試完了[ 16] 。
日露戦争 時、バルチック艦隊 に所属して日本海海戦 に参加、1905年 (明治38年)5月28日 に降伏した[ 11] [ 17] 。8月31日/9月13日、除籍[ 18] 。
見島
1905年6月6日 、日本海軍は鹵獲したロシア軍艦5隻を改名する[ 19] [ 20] 。
「オリョール 」は戦艦「石見 」、「インペラートル・ニコライ1世 」は戦艦「壱岐〈壹岐〉 」、駆逐艦「ベドーヴイ 」は駆逐艦「皐月 」[ 20] 、「ゲネラル・アドミラル・アプラクシン」は海防艦「沖島 」、そして「アドミラル・セニャーヴィン」は海防艦「見島 」と命名された[ 5] [ 11] 。
同日附で5隻(石見、壱岐、沖島、見島、皐月)は、それぞれ軍艦籍に編入される(沖島と見島は二等海防艦籍)[ 6] [ 21] 。
「見島」と「沖島」は損傷状態も少なく、樺太作戦 のために新設された第四艦隊 の第七戦隊に組み込まれている。もともと海防戦艦であるため航洋能力は劣るが、防御力は戦艦に準じており、当時の日本海軍装甲巡洋艦を上回る。当初はロシア海軍時代の武装をそのまま使用していたが、本艦は1907年 (明治40年)に主砲爆発事故を起こし、主砲を10吋砲(25.4cm)に換装した。4.7吋砲(11.9cm)4門は、6吋砲(15.2cm)6門に換装された。「見島」と「沖島」は兵装の変更が多い艦であったという。
第一次世界大戦 における「見島」は第二艦隊 に所属し、青島 方面で作戦に従事した[ 8] [ 17] 。またシベリア出兵 に際して1918年 (大正7年)[ 25] に砕氷艦 としての改造が行われる[ 8] 。工事内容は、前部砲塔を撤去、艦首の砕氷構造、艦橋の耐寒令式とするなど[ 8] 。改装前の主砲は艦前方に45口径25.4cm連装砲塔を1基、艦後方に45口径25.4cm連装砲塔を1基の計4門。改装後は艦後方に45口径25.4cm連装砲塔を1基の計2門となった[ 8] 。
1919年 (大正8年)2月以降、「見島」はウラジオストック やシベリア 方面に進出した[ 11] 。舞鶴で修理後、1920年(大正9年)2月からは、小樽港 (北海道 )を基地としてシベリア方面に出動した[ 8] 。
1920年 (大正9年)、佐世保鎮守府 に初めて潜水艇 が配備される[ 26] 。当時の潜水艦 は性能的にも技術的にも未熟で、常に母艦の支援を必要としていた[ 27] [ 28] 。
1922年 (大正11年)4月1日、「見島」他艦艇は軍艦籍より除籍された[ 29] 。
艦艇類別等級表 からも削除[ 30] [ 31] 。
2隻(千代田 、見島)は特務艇(潜水艦母艇 )に類別される[ 9] [ 11] 。
「見島」は佐世保防備隊の潜水艦母艇として[ 26] 、長期間にわたり使用された[ 8] 。兵装や甲鈑を撤去したため「見島」の乾舷は増し、南西諸島 まで潜水隊に随伴して出動することもあったという[ 26] 。
1924年 (大正13年)3月19日[ 32] 、佐世保港外で佐世保鎮守府第1回基本演習がおこなわれる[ 33] 。第43号潜水艦 は輸送船にみたてた「見島」を襲撃中、「見島」に後続していた天龍型軽巡洋艦「龍田 」と衝突した[ 33] 。司令塔下のハッチが閉鎖されていなかったため、第43号潜水艦は浸水して沈没した[ 33] 。潜水艦乗組員45名[ 34] 全員が殉職した。
5月1日、摂政宮(裕仁親王〈昭和天皇〉 )は岡田啓介 海軍次官と高橋節雄 佐世保防備隊司令と会い、第43号潜水艦沈没事故の状況を聴取した[ 35] 。
1935年 (昭和10年)10月10日、「見島」は除籍される[ 36] 。
翌1936年 (昭和11年)1月10日には「廃艦第七号 」と仮称された[ 1] 。
以後は実艦標的として使用される。
5月上旬、空母「鳳翔 」の標的艦となり演習に従事した[ 37] 。装甲巡洋艦「常磐 」に曳航されて宿毛湾 へ移動中[ 38] 、5月5日 都井岬 沖合にて浸水が進み[ 39] 、廃艦7号(見島)は艦前部から海没する[ 40] 。16時43分に全没した[ 41] 。
艦長
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
和田賢助 大佐:1905年6月14日 - 1905年12月12日
(兼)高木助一 大佐:1905年12月12日 - 不詳
高橋助一郎 大佐:不詳 - 1907年9月28日
東郷吉太郎 大佐:1907年9月28日 - 1908年7月11日
山田猶之助 大佐:1908年7月11日 - 9月15日
上村経吉 大佐:1908年9月15日 - 12月10日
森義臣 大佐:1909年11月1日 - 1910年4月9日
松岡修蔵 大佐:1910年4月9日 - 12月1日
(兼)榊原忠三郎 大佐:1910年12月1日 - 1911年1月16日
(兼)水町元 大佐:1911年1月16日 - 4月1日
(兼)今井兼胤 大佐:1911年4月1日 - 1912年12月1日
(兼)本田親民 大佐:1912年12月1日 - 1914年5月27日
(兼)三輪修三 大佐:1914年5月27日 - 不詳
(兼)有馬純位 大佐:不詳 - 1915年10月1日
(兼)大島正毅 大佐:1915年10月1日 - 12月13日
(兼)四元賢助 大佐:1915年12月13日 - 1917年5月8日
(兼)島内桓太 大佐:1917年5月8日 - 12月1日
(兼)篠崎真介 大佐:1917年12月1日 - 1918年5月3日
(兼)安村介一 大佐:1918年5月3日 - 11月10日
(兼)福地嘉太郎 大佐:1918年11月10日[ 42] - 12月5日[ 43]
横地錠二 大佐:1918年12月5日 - 1919年2月21日
(兼)福地嘉太郎 大佐:1919年2月21日[ 44] -
坂元貞二 大佐:1920年1月30日 - 6月3日
(兼)福地嘉太郎 大佐:1920年6月3日[ 45] -
谷川清治 大佐:1920年12月1日[ 46] - 1921年12月27日[ 47]
(兼)有沢四十九郎 大佐:1921年12月27日[ 47] -
脚注
^ a b 「昭和11年1月10日(金)海軍公報(部内限)第2233号 p.17 」 アジア歴史資料センター Ref.C12070359300 「官房第九七號 當分ノ間舊特務艦見島ヲ左ノ通假稱シ部内限之ヲ使用ス 昭和十一年一月十日 海軍大臣 假稱名 廢艦第七號」
^ 『日本海軍史 第7巻』によると排水量4,126トン。
^ 『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』附表1-1によると長さは164フィート6インチとなっているが排水量に比較して短すぎる。要目がほとんど同一の沖島と同じ264フィート6インチと思われる。『日本海軍史 第7巻』によると長さ84.3m、幅16.5m、吃水5.6m。
^ 『日本海軍史 第7巻』によると25cm砲4門、12cm砲4門、8cm砲4門、魚雷発射管4門。改装前の要目と思われる。
^ a b #海軍制度沿革(巻8、1940) 第199コマ「◎戰利軍艦石見壹岐沖島見島命名ノ件 明治三十八年六月六日(達七三) 戰利軍艦「アリヨール」外三隻左ノ通命名セラル|戰艦「アリヨール」 石 イハ 見 ミ |戰艦「インペラートルニコライ」第一世 壹 イ 岐 キ |海防艦「ゲネラルアドミラル、アプラキシン」 沖 オキノ 島 シマ |海防艦「アドミラル、セニヤーウヰン」 見 ミ 島 シマ 」
^ a b #海軍制度沿革(巻8、1940) 第52コマ〔 明治三十八年六月六日(達七六)軍艦及水雷艇類別等級別表中戰艦ノ欄「三笠」ノ次ニ「石見」ヲ、「鎮遠」ノ次ニ「壹岐」ヲ、海防艦ノ欄二等ノ部ニ「沖島」「見島」ヲ、驅逐艦ノ欄「霰」ノ次ニ「皐月」ヲ追加ス 〕
^ 「海軍」編輯局 編「二等海防艦 見島 」『帝国最新軍艦帖』画報社支店、1912年11月。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966146/78 。
^ a b c d e f g 日本補助艦艇物語 230-231頁「(2)二等海防艦 見島」
^ a b #海軍制度沿革(巻8、1940) コマ73〔 大正十一年四月一日(内令一一〇)特務艇類別等級別表中左ノ通改定ス 掃海艇二等ノ欄内「叢雲」「夕霧」ヲ削リ「薄雲、」「不知火、」「朝潮、」「白雲、」「村雨、」「朝霧」ヲ加ヘ潜水艦母艇ノ欄内「椅子山」ヲ削リ「千代田、」「見島」ヲ加フ 〕
^ 日本潜水艦物語 222頁「▽見 み 島 しま 」
^ a b c d e 幕末以降帝国軍艦写真と史実 コマ68(原本102頁)「見島(みしま) 艦種 海防艦二等 二檣(戰闘檣あり)艦名考 島峡名に採る、見島は長門國阿武郡に属す、高山岬の西微北20浬、萩の北微西に當る。艦歴 明治29年露國「ニュー・アドミラルチー」造船所にて進水したる舊露國軍艦、原名「アドミラル・セニヤーウヰン」。明治37・8年日露戰役中、「バルチック」艦隊の一艦として日本海々戰に参加、同38年5月28日竹島(日本海の孤島)の南西沖合に於て、我が艦隊之を捕獲す、同年6月6日帝國軍艦と定め「見島」と命名す。大正3年乃至9年戰役(日獨)從軍:同13年8月第二艦隊第二戰隊に属し、膠州灣封鎖哨戒勤務に從事(艦長中佐坂本重國)、同8年2月砕氷艦に改装、同9年2月第三艦隊第五戰隊に属し、北樺太竝に沿海州に出動、警備任務に從事(艦長大佐坂本貞二)、同11年4月1日軍艦籍より除かれ、更に潜水艦母艇として佐世保防備隊に附属せしめらる。 ―要目― 長264呎/幅52呎/吃水18呎/排水量4,200噸/機關 三聯成汽罐2基 ベルビル罐8臺/馬力5,000/速力16/乗組人員400/船材 鋼|兵装 9吋砲4/12拇砲4/8拇砲4/發射管4/起工 明治26/進水 同27/竣工 /建造所 露國ニュー・アドミラルチー」
^ 『日本海軍史 第7巻』によると建造所はニュー・アドミラルティー工廠。
^ ユリウス暦 /グレゴリオ暦
^ a b c "The Admiral Seniavin Class Coast Defense Ships", p. 50
^ "The Admiral Seniavin Class Coast Defense Ships", p. 57
^ a b #水難救済軍艦 コマ97-98(原本41-42頁)「二等海防艦 見島(舊名 アドミラルセニヤーウヰン)|一、進水年月日 明治二十七年/一、排水量 四千五百噸/一、馬力 約五千馬力/一、速力 約十六節/一、主砲 四五口徑露式十吋砲四門/一、建造地及建造所 露國ペトログラード海軍造船廠/一、日清戰爭に参加したる際重要なる事項 /一、日露戰爭に参加したる際重要なる事項 三十八年五月二十八日鬱陵島附近に於て旗艦「ニコライ」一世と共に我軍に降伏し捕獲せらる/一、日獨戰爭に参加したる際重要なる事項 青島攻撃に参加し各所砲撃に偉功あり/一、其他特に重要なる事項 /以上」
^ "The Admiral Seniavin Class Coast Defense Ships", p. 65
^ #達明治38年6月p .2〔 達第七十三號 戰利軍艦「アリヨール」外三隻左ノ通命名セラル 明治三十八年六月六日 海軍大臣 男爵山本権兵衛|戰艦アリヨール 石 イハ 見 ミ |戰艦インペラートルニコライ第一世 壹 イ 岐 キ |海防艦ゲネラルアドミラル、アプラキシン 沖 オキノ 島 シマ |海防艦アドミラル、セニヤーウヰン 見 ミ 島 シマ 〕
^ a b #達明治38年6月p .2〔 達第七十四號 明治三十八年六月六日 海軍大臣 男爵山本権兵衛 戰利驅逐艦「ビヱードウヰー」ヲ皐月 サツキ ト命名ス 〕
^ #達明治38年6月p .3〔 達第七十六號 軍艦及水雷艇類別等級別表中戰艦ノ欄「三笠」ノ次ニ「石見」ヲ、「鎮遠」ノ次ニ「壹岐」ヲ、海防艦ノ欄二等ノ部ニ「沖島」「見島」ヲ、驅逐艦ノ欄「霰」ノ次ニ「皐月」ヲ追加ス 明治三十八年六月六日 海軍大臣 男爵山本権兵衛 〕
^ 『日本海軍史 第7巻』によると工事は1919年 (大正8年)2月に舞鶴工廠 で行われる。
^ a b c 日本潜水艦物語 、227-229頁「駒橋」
^ 日本潜水艦物語 、48-51頁「潜水母艦と後方支援」
^ 日本潜水艦物語 、219-221頁「わが潜水母艦の諸特徴」
^ #達大正11年4月(1)pp .1-2「達第四十七號|横須賀鎮守府在籍 軍艦 津輕/軍艦 橋立/軍艦 武藏|呉鎮守府在籍 軍艦 周防/軍艦 千代田/軍艦 大和|佐世保鎮守府在籍 軍艦 沖島/軍艦 見島 右帝國軍艦ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 薄雲/驅逐艦 不知火|呉鎮守府在籍 驅逐艦 朝潮/驅逐艦 白雲/驅逐艦 村雨/驅逐艦 朝霧/驅逐艦 陽炎 右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル|呉鎮守府在籍 第六十七號水雷艇/第六十八號水雷艇/第七十号水雷艇/第七十一號水雷艇|佐世保鎮守府在籍 水雷艇 雁/水雷艇 蒼鷹/水雷艇 鴿/水雷艇 燕 右帝國水雷艇籍ヨリ除カル|大正十一年四月一日 海軍大臣 男爵加藤友三郎」
^ #海軍制度沿革(巻8、1940) コマ59〔 大正十一年四月一日(達四八)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 軍艦ノ欄内「、千代田」「、津輕」「、周防」「沖島、」「見島、」「橋立、」「大和、」「武藏、」ヲ、驅逐艦ノ欄内「不知火、」「陽炎、」「薄雲、」「白雲、」「朝潮、」「村雨、」「朝霧、」ヲ、水雷艇ノ欄内「雁、」「蒼鷹、」「鴿、」「燕、」「第六十七號、」「第六十八號、」「第七十號、」「第七十一號、」ヲ削ル 〕
^ #達大正11年4月(1)pp .2-3〔 達第四十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 大正十一年四月一日 海軍大臣 男爵加藤友三郎|軍艦ノ欄内「、千代田」「、津輕」「、周防」「沖島、」「見島、」「橋立、」「大和、」「武藏、」ヲ、驅逐艦ノ欄内「不知火、」「陽炎、」「薄雲、」「白雲、」「朝潮、」「村雨、」「朝霧、」ヲ、水雷艇ノ欄内「雁、」「蒼鷹、」「鴿、」「燕、」「第六十七號、」「第六十八號、」「第七十號、」「第七十一號、」ヲ削ル 〕
^ 昭和天皇実録第四 、50頁「(大正十三年三月)十九日 水曜日 潜水艦沈没/飛行船墜落/博忠王危篤」
^ a b c 戦史叢書98巻 83-84頁「大正13年3月19日 第43号潜水艦」
^ 戦史叢書98巻 83-84頁の事故記録では46名とする。
^ 昭和天皇実録第四 、69頁「(大正十三年五月)一日 木曜日 殉職海軍軍人の遺書を御覧」
^ #海軍制度沿革(巻8、1940) コマ74〔 昭和十年十月十日(内令三九四)特務艇類別等級別表中左ノ通改定ス 特務艦ノ部潜水艇母艦ノ項中「見島」ヲ削ル 〕
^ #廃艦第7号沈没pp .31-38「第四 常磐ニ於ケル爆撃観測圖」
^ #廃艦第7号沈没p .9「昭和十一年官房機密第三九九號ニ依リ廢艦第七號ヲ宿毛湾ニ曳航中同艦全部ニ浸水ノ為宿毛湾外ニ於テ沈没セリ」
^ #廃艦第7号沈没p .39「別紙第一 行動経過圖」
^ #廃艦第7号沈没pp .47-48「別紙第五」
^ #廃艦第7号沈没p .24「一六四三|廢艦々首ヲ突込ミ垂直ニ全没ス状況寫眞別紙第六」
^ 『官報』第1883号、大正7年11月12日。
^ 『官報』第1903号、大正7年12月6日。
^ 『官報』第1965号、大正8年2月22日。
^ 『官報』第2351号、大正9年6月4日。
^ 『官報』第2501号、大正9年12月2日。
^ a b 『官報』第2823号、大正10年12月28日。
参考文献
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片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』(光人社、1993年) ISBN 4-7698-0386-9
宮内庁 編『昭和天皇実録 第四 自大正十三年至昭和二年 』東京書籍株式会社、2015年3月。ISBN 978-4-487-74404-6 。
防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』(朝雲新聞社、1969年)
防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 潜水艦史』 第98巻、朝雲新聞社、1979年6月。
福井静夫 著「第三部 日本海軍の潜水母艦」、阿部安雄・戸高一成/編集委員 編『福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記 日本潜水艦物語』 第9巻、光人社、1994年12月。ISBN 4-7698-0657-4 。
福井静夫 著、阿部安雄・戸高一成/編集委員 編『福井静夫著作集-軍艦七十五年回想記 日本補助艦艇物語』 第10巻、光人社、1993年12月。ISBN 4-7698-0658-2 。
歴史群像編集部編「第10章 鹵獲艦と賠償艦 「鎮遠」から「オルデンドルフ」まで」『決定版 日本の戦艦 日本海軍全戦艦ガイダンス 』学習研究社〈歴史群像シリーズ 太平洋戦史スペシャル Vol.5〉、2010年10月。ISBN 978-4-05-606094-2 。
『官報 』
国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
アジア歴史資料センター(公式) (防衛省防衛研究所)
『軍艦壱岐以下三艦ヘ勅諭ヲ下付セラル』。Ref.A01200239900。
『明治三十七、八年戦役ニ於ケル戦利艦船処分済ノ件』。Ref.A04010138000。
『日本海海戦戦果(明治38年5月27・28日)戦場に現はれたる敵艦数38隻中』。Ref.C14120009600。
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『明治38年 達 完/6月』。Ref.C12070053000。
『明治38年 達 完/12月』。Ref.C12070053600。
『大正4年 達 完/5月』。Ref.C12070069200。
『大正11年 達 完/4月(1)』。Ref.C12070080200。
Stephen McLaughlin, "The Admiral Seniavin Class Coast Defense Ships", Warship International Vol. 48, No. 1, International Naval Research Organization, 2011, pp. 43-66
国旗は建造国 転用艦a
新造艦
戦利艦
a. 1942年7月1日までに除籍もしくは他艦種に類別変更
b. 1931年5月30日等級廃止
c. 1912年8月28日三等廃止、二等に類別換え
d. 就役後他艦種に類別変更