沖島(おきのしま)は、日本海軍の海防艦[1]。艦名は対馬海峡の沖、玄界灘に浮かぶ沖ノ島から命名と推測される[6][7]。
ちなみに艦名は初代であり、2代目は敷設艦「沖島」である[8]。
前身は1896年(明治29年)にロシアの新アドミラルティ造船所[9]で進水したロシア海軍のアドミラル・ウシャコフ級海防戦艦「ゲネラル・アドミラル・アプラクシン(Генерал-адмирал Апраксин)」[1]。
1894年10月12/24日[10]、建造開始[11]。1895年5月20日/6月1日起工[11]。1896年4月30日/5月12日進水[11]。
1899年8月、公試完了[12]。それからコペンハーゲン訪問に向かい、8月16/28日に到着[12]。9月14/26日まで同地に滞在した後、クロンシュタットへ向かった[13]。
11月12/24日、冬季の滞在地であるLibavaへ向けて出港[14]。悪天候で実際よりも南へ流されていると判断した結果、11月13/25日3時にゴーグラント島南東部で座礁した[14]。「ゲネラル・アドミラル・アプラクシン」は巨石に乗り上げ、艦底に27平方メートルほどの穴が空き700トンほどの浸水が生じた[14]。離礁できたのは翌年4月のことであり、5月6/18日にクロンシュタットに着き、修理を受けた[15]。
「ゲネラル・アドミラル・アプラクシン」はバルチック艦隊に所属して日露戦争に参加、ニコライ・ネボガトフ少将指揮下の第3艦隊(第3太平洋艦隊)としてウラジオストク回航中の1905年(明治38年)5月28日、日本海軍に降伏した(日本海海戦)[7][16]。8月31日/9月13日、除籍[17]。
1905年6月6日、日本海軍は鹵獲したロシア軍艦5隻を改名する[18][19]。「ゲネラル・アドミラル・アプラクシン」は海防艦「沖島」と改名される[1][20]。 同日附で5隻(石見、壱岐、沖島、見島、皐月)はそれぞれ軍艦籍に編入された[2][21]。 本艦は、佐世保鎮守府在籍となった[3]。樺太作戦のために新設された第四艦隊の第七戦隊に組み込まれ、陸軍輸送艦の護衛に当たっている。同年11月16日、アプラクシン(沖島)のロシア海軍将校より贈られた蓄音器譜面や幻灯種板が、西郷従義(当時海軍中尉)を通じて、裕仁親王(昭和天皇、当時4歳)・秩父宮雍仁親王・高松宮宣仁親王に献上されている[22]。
主砲は艦前方に45口径25.4cm連装砲塔を1基、艦後方に45口径25.4cm単装砲塔を1基の計3門(姉妹艦の「見島」は、同型砲を計4門搭載)[23]。その後、「沖島」は副砲の換装をおこなっている[24]。第一次世界大戦では第二艦隊・第二戦隊に所属し、青島方面で作戦に従事した[7]。
1922年(大正11年)4月1日、除籍[3]。 各艦と共に艦艇類別等級表からも削除[4][25]。 本艦は雑役船となり、佐世保海兵団の練習船として使用された[26]。
1924年(大正13年)に廃艦となり、翌年に日本海海戦戦跡保存会に払い下げられた。福岡県津屋崎町の町長・議会及び福岡県知事柴田善三郎の請願により[27]、海岸に係留され記念館として保存する予定であった[28][29]。だが、荒天時に座礁して破壊された。その後1939年(昭和14年)に現地で解体された[30]。
日本海海戦時において、当時の日本ではロシアの艦名が記憶できず、安保清種らの手によって特異的な呼び方をしていた。このゲネラル・アドミラル・アプラクシンは「油布巾」と訳されていたという。
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。階級は就任時のもの。
アドミラル・ウシャコフ - アドミラル・セニャーヴィン - ゲネラル・アドミラル・アプラクシン
見島 - 沖島
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