座標: 北緯39度01分55秒 東経125度45分14秒 / 北緯39.031859度 東経125.753765度 / 39.031859; 125.753765
平壌市(ピョンヤンし、朝: 평양시 , 英: Pyongyang City)は、朝鮮民主主義人民共和国の首都であり、国内最大の都市である[3]。
朝鮮八道では平安道、十三道制では平安南道に属するが、同国の行政区画においては道に属さず、道級の直轄市となっている。
平壌準平原に位置し、北と東と西は平安南道、南は黄海北道に接する。北朝鮮の政治と経済の中心地であり、軽工業、重工業など工業が盛んである。
427年以降高句麗の首都となった。市の中心には大同江が流れている。中心部に金日成広場があり、その付近に主体思想塔がそびえており、平壌のシンボルまたはランドマークとなっている。
平壌は北朝鮮の建国時から事実上の首都としての役割を持っていたが、憲法で正式に平壌が首都となったのは1972年からで、それ以前の平壌は「祖国統一を成し遂げるまでの暫定首都(臨時首都)」という位置づけで、ソウルを正式な首都と定めていた。これは、建国以来現在に至るまで憲法上は朝鮮半島全域を領土としていたためである(なお、韓国も憲法上は朝鮮半島〔韓国名:韓半島〕全域を領土としており、以北五道委員会においては平壌直轄市を認めず「平安南道平壌市」として扱われている)。
「公民登録法」の規定で、17歳以上の北朝鮮国民は「公民証」が政府から発給されているが、1997年以後、平壌市民については公民証が「平壌市民証」に切り替えられ、他地域住民と明確に区別されるようになった。この区別による特に大きな影響として、旅行に対する待遇が挙げられる。
北朝鮮国民は、国内(北朝鮮各地)の旅行でも、政府に旅行証明書を申請し旅行許可を得る必要があるが、この「平壌市民証」を所有していると、旅行証明書なしで北朝鮮各地を自由に行き来できるといわれている。
市内のインフラは老朽化が進んでおり、2002年頃から街路樹の植樹、歩道のタイルの張替え、ビルの改装など市内中心部の再開発が始まった。2010年代初頭には、故金日成生誕100年に当たる2012年を目前に控え、軍人や学徒も動員しての高層住宅を中心とした建設ラッシュの様相を呈している一方、突貫工事による被害も報じられている。2014年5月13日には、入居が始まっていた23階建ての高層マンションが倒壊し、崔富日人民保安部部長や車熙林平壌市人民委員会委員長など政府高官が現地で謝罪するという異例の事態になっている[4]。
気候は亜寒帯冬季少雨気候で気温は年較差、日較差とも大きく大陸性気候の特徴が強い。冬から春にかけては三寒四温の気候が見られる。
年間の降水の半分ほどが7月と8月に集中し、冬は雨が少ない。一年を通じて日照に恵まれ、年間の日照時間は合計すると2500時間ほどとなる。
古くは衛氏朝鮮の王険城で、紀元前108年にこれを征服した漢の武帝が楽浪郡治を置いた。これ以後4世紀後半に百済が領有するまで中国人による現地支配の拠点となる。
高句麗の長寿王は427年に鴨緑江流域の集安から平壌に遷都し、高句麗王国の都となった。当初は現在の平壌市街から北東へ8kmほど離れたところにある大城山に都があり、現在も山をとりまく城壁や、王宮であった安鶴宮の跡などが残る。552年から586年にかけて、現在の平壌市街の場所に都城が築かれ大都市となったが、668年に唐に滅ぼされた。唐は平壌を含む南満州から半島北部を管轄する安東都護府を設置して当該地方の直接支配を図るが、新羅の反乱によって遼東より南を失った。
10世紀に興った高麗は首都を開京(現在の開城特別市)に定める一方、平壌を副都・西京とした。12世紀には妙清という国粋主義的な仏教僧が西京への遷都を主張し、西京遷都運動という仏教対儒教の争いが起きた。妙清は、風水説の混合した高麗仏教に基づき、風水的に弱くなったために内乱で破壊された開京から、高句麗の首都であり風水も良い西京に首都を遷し、金に戦いを挑んで高句麗の旧領土(満州)の回復の拠点とすることを掲げたが、事大主義的な儒家の反発で遷都案は葬られ王の支持が得られなかった。1135年、妙清はついに反乱(妙清の乱)を起こして西京を首都として「大為国」を称し、宋の年号を捨てて「天開」という独自の年号を掲げたが、金富軾ら儒家の文官らの率いる軍により翌年鎮圧された。
1269年には西京を治めていた崔坦らが反乱を起こし、西京を含めた北界54城と西海道の慈悲嶺以北の6城を率いて元に帰依する事件が起きた。元は西京を遼陽行省に属する「東寧府」と改名して領土に編入した。東寧府は同じく元領となった双城総管府とともに高麗と分立したが、元の直接支配強化により1290年(至元27年)に東寧府は高麗行省(征東行省)と統合され共に元の直接支配地域となった。東寧府は元末期に再び設置されたという記録もある。
李氏朝鮮時代には平壌は平安道の首邑となった。文禄の役では日本軍が平壌にまで達している。18世紀には、冊封体制下の清との往来の中で、北京にいたキリスト教宣教師からキリスト教が朝鮮の官僚に伝わり、平安道はキリスト教徒が増加した。しかし、18世紀末には大規模なキリスト教徒弾圧が起こった。また外国勢力が朝鮮周囲に現れ、平壌では大同江を遡ってきた米国船を官民が焼き討ちするジェネラル・シャーマン号事件が起こっている。
日清戦争では平壌城は平壌の戦いの舞台となった。李朝末期の1896年に平安道が分割されて、平安南道の首邑となっている。日本統治時代には、1910年(明治43年)に平壌府(へいじょうふ)となり[9]、平安南道の道庁所在地となった。この頃路面電車の軌道などが整備された。1913年(大正2年)に平壌神社が鎮座した。また平壌神学校などキリスト教の神学校や教会が設立され、キリスト教徒の人口に対する割合も増加した平壌は、報道関係者から「東洋のエルサレム」と呼ばれるほどに朝鮮のキリスト教布教の中心地となった[10]。現在の韓国のキリスト教徒には、朝鮮戦争の前後に韓国側へ移住した平壌出身者もいる。1931年(昭和6年)には朝鮮排華事件が起き平壌で最も多くの中国人犠牲者がでた。
1945年(昭和20年)にソビエト連邦軍(赤軍)が北緯38度線以北を占領するとソ連軍政の中心地となり、1946年に行政機関である平壌市人民委員会が設置され、1948年の朝鮮民主主義人民共和国成立により事実上の首都となった。しかし1950年に北朝鮮の韓国侵攻により勃発した朝鮮戦争では、アメリカ軍を中心とする国連軍の激しい空爆を受けた上に、国連軍の占領下になった後は、これに対して朝鮮人民軍や中国人民志願軍による攻撃が行われたことで、市街地は大きく破壊された。
停戦実現後、ソ連の援助で街は急速に復興を始める。朝鮮建築家同盟創設メンバーのひとりで、戦前の日本にて建築学を学んだ経験を持つ金正煕(キム・ジョンヒ)が金日成に登用され、モスクワ建築アカデミー(ロシア語版、ウクライナ語版、アルメニア語版、英語版)留学後、1951年に「平壌市復旧建設総合計画」をデザインし、1953年に正式採用とされ、巨大なパレードを行える「社会主義国」特有の広場整備や、北朝鮮風のアレンジが加えられたスターリン様式建築(その他、ブラジル人建築家オスカー・ニーマイヤーの影響を大きく受けたとされるモダニズム建築)といった近代的でプロパガンダ色の濃い計画都市への変貌が始まる[11]。
1968年には平安南道の道庁機能を平城市に移して直轄市となり、1972年に正式に首都となった。1980年代以降、金日成や主体思想を称える記念碑や建築物、競技場やホテルが多数建設された。
平壌直轄市は19「区域」と4郡に区分されている。ただし、2011年2月には食糧難により、勝湖区域、江南郡、祥原郡、中和郡の4つの郡・区域を黄海北道に編入し、約2630平方キロメートルの市域面積を約半分にして市域人口も50万人ほど減らしたとされる[12]。平壌市民にはこれまで配給制度が保障されていたが、深刻化する食糧難のため市の規模を縮小せざるを得なかったとみられる[13]。しかし、江南郡は2011年に黄海北道から平壌直轄市に再び編入された。
市の管轄区域はこの他にも各地に飛び地として存在しているとみられており、平安北道香山郡に所在する国際親善展覧館および金日成の別荘がある妙香山の一帯、ミサイル開発の重要拠点である平安北道亀城市の方峴洞が挙げられている[14]。ミサイル開発に従事する科学者や技術者の士気を高めるため、地方都市の市民の身分ではなく、平壌市民並みの配給と特権を与えることが目的であろうとされている[14]。
この節の出典[15]
平壌式冷麺が有名。他に甘肉(犬肉)、オリコギ(家鴨肉)など。
2016年11月に大同江の両岸を結ぶ遊覧船の運航が再開した。屋根にソーラーパネルを搭載し、太陽光発電だけで動く。
最上級蹴球連盟戦に所属する4.25体育団や平壌市体育団などが存在する。サッカー北朝鮮代表にも多数の選手を送り出している。
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