山野 哲也 (やまの てつや、TETSUYA YAMANO、1965年 10月2日 - )は、日本のレーシングドライバー 。東京都 出身。帰国子女 。上智大学 経済学部経営学科卒業。茨城県 守谷市 在住。弟の山野直也 もプロドライバー。
来歴
概要
東京都武蔵野市 に生まれ、主に東京都府中市 で育つ。15歳だった1981年、父親の仕事の都合で家族でロサンゼルス に移住。国立市 の桐朋高等学校 からカリフォルニア州 トーランス 市のサウス・ハイスクール (英語版 ) に転校した。16歳で運転免許を取得し、自動車 の運転 を始めた。南カリフォルニア大学 に入学後、両親と弟はドイツ ・フランクフルト へ移住。山野は単身で1年間アメリカに残った後、日本に帰国し上智大学 へ編入。同大学卒業後本田技研工業 に入社。従業員として勤務しながら週末にモータースポーツ に参戦した。
1998年、チーム国光 代表の高橋国光 の誘いを受けたことから本田技研工業を退社。2000年にレーシングドライバー として独立し、有限会社 コムドライブを設立した。
ジムカーナの経歴:デビューから現代まで
上智大学3年生のとき、安全運転技術コンテストに優勝したことがきっかけとなり、バレーボール 部から自動車部に移籍。大学4年生だった1988年、AE86 を駆り学生自動車連盟主催全関東学生ジムカーナ 選手権と全日本学生ジムカーナ選手権の双方で個人タイトルを獲得。上智大学から最優秀選手賞を受賞。
1989年にAS型CR-X に乗り換え、JAF関東ミドル戦全戦全勝の成績を残す。EF8型CR-Xに乗り換えた1990年-1991年、JAF近畿ジムカーナ選手権およびJMRC全国フェスティバルシリーズで2年連続ダブルチャンピオンタイトルを獲得。1992年、この年よりシリーズ化されたJAF全日本ジムカーナ選手権で、初の全日本チャンピオンを獲得。その後シビック 、インテグラ 、S2000 、NSX と常に新しいホンダ車を投入し、数々の優勝やチャンピオン獲得を果たした。
2007年は、ロータス・エキシージ で参戦。外国車による初の全日本チャンピオンをもたらした。2012年にはSUPER GT と同じスバル・BRZ での参戦を表明し、デビューとなった第2戦の広島TS-タカタサーキット 戦でBRZ世界初優勝を飾った。2017年にはアバルト・124スパイダー を投入し、イタリアブランド初のチャンピオンを獲得。翌年の2018年、第3戦エビス 戦で逆転優勝を飾り、この日の優勝が全日本ジムカーナ選手権100回目の優勝となった。シーズン終了後には日本自動車連盟 から「JAFモータースポーツ特別賞」を受賞した。2019年度はシリーズ10戦中9戦で優勝を果たし、年間最多優勝記録を更新した。2020年度は新型コロナウイルス の影響で全8戦から全4戦へ縮小されたがこの年3勝を記録。全日本ジムカーナ選手権における単戦の優勝回数を117と伸ばし、大台となる20回目の全日本ジムカーナ選手権チャンピオン獲得となった。2021年、5年連続124スパイダーよるシリーズタイトルを完結。2022年にはフランス国籍の車両での参戦を発表。AT限定免許比率の増加、2ペダル車の増加、EPB(エレクトリックパーキングブレーキ)車の増加に伴い、3つの条件を満たしているアルピーヌA110Sを選択。ジムカーナ界の未来を作り上げる決意を表明し、第1戦つくばラウンドでデビューウィンを飾った。2024年は同カテゴリー通算143勝目を挙げ、24回目のシリーズタイトルを決定した。
レースの経歴:デビューからSUPER GT3年連続チャンピオンまで
ジムカーナと並行して、1992年にホンダ・シティ にてN1耐久 にデビュー。その年には東日本ツーリングカー選手権P1600クラスでシリーズチャンピオン獲得。筑波サーキット でのシビックレースデビュー戦では雨中の予選でポール・ポジション 獲得、決勝レースも後続を引き離し優勝した。1994年にはシビック東日本シリーズにおいて出場全戦ポールtoフィニッシュを達成。1995年に十勝24時間レース でクラス優勝。1996年にはEK4型シビックをデビューウィンさせ、F1日本グランプリ のサポートレース「シビックF1チャレンジカップ」でポールtoフィニッシュを果たす。
1999年、雨宮勇美 が主宰するRE雨宮レーシング のオーディションに合格し、全日本GT選手権 に参戦開始。参戦初年度よりチャンピオン争いの上位に加わる活躍を見せる。2002年には長谷見昌弘 率いるハセミモータースポーツ からシルビアで参戦したが、最終戦鈴鹿でエンジンブローしチャンピオンを逃した。2004年にはM-TEC からホンダ・NSX で参戦。開幕戦の岡山 ラウンドで初となるGT300コースレコードを樹立。この年はARTA・ガライヤ と最終戦までチャンピオンを争ったが、最終戦でシーズン初優勝を決め、僅か1ポイント差でガライヤを逆転し、GTマシンによる自身初のシリーズチャンピオンを獲得した。全日本GT選手権からSUPER GT と改称された2005年にはチームレクリスから参戦、トヨタ・MR-S で優勝1回を含む6戦で表彰台に登壇。2年連続チャンピオンを獲得した。2006年のSUPER GTには古巣RE雨宮からマツダ・RX-7 で参戦。首位のプリヴェチューリッヒ・紫電 と5P差で最終戦富士 を迎え、レースでは序盤に単独スピン を喫するが、ピットワークとパートナー井入宏之 の踏ん張りで決勝を6位でフィニッシュ。タイトル争いをしていた紫電がポイント圏外でレースを終えたため、同ポイントで優勝回数も同じながら2位の入賞回数が紫電よりも多かったことから、3年連続チャンピオンを獲得した。SUPER GTの歴史において、3年連続チャンピオンという実績は山野哲也のみ[ 注 1] 。付け加えるとこの3年連続チャンピオンは異チーム(M-TEC、TEAM RECKLESS、RE雨宮レーシング)、異メーカー(ホンダ、トヨタ 、マツダ )、異タイヤメーカー(ダンロップ 、ミシュラン 、ヨコハマ )、異ペアドライバー(八木宏之 、佐々木孝太 、井入宏之)の構成によるもので、同条件での再現はできないと言われている。
レースの経歴:スバルへの移籍からスーパーGT勇退、その後スプリントレース、スーパー耐久へ復帰
2007年、クスコレーシング に移籍。4WD仕様のスバル・インプレッサ で参戦したが、シリーズランキングは22位と振るわなかった。しかしシーズンオフにマシンの大改造を行ったことが功を奏し、2008年は第4戦セパン で佐々木孝太 とともに優勝を飾った(チームとしては1998年第5戦以来、4WD 及び4ドア車としても初)他、第2戦岡山、最終戦富士でも3位表彰台に上がるなど速さを見せ戦闘力の高さを示した。なお第8戦から佐々木に代わりカルロ・ヴァン・ダム が参戦した。2009年はクスコレーシングの休止により序盤は参戦しなかったが、第6戦よりR&D SPORT よりスバル・レガシィB4 にて密山祥吾 とともに参戦。トラブルが多かったが、2010年には駆動方式を4WDからFRに変更、さらに第5戦よりトランスアクスル化されエンジンもWRC 用ベースとなった。第6戦鈴鹿1000km では予選11位からポジションアップし、レガシィ初優勝を飾る。2011年も同様の体制で参戦。レガシィのメインフレームの大改造を行ったのが功を奏し戦闘力がアップされたマシンで第5戦鈴鹿(夏の鈴鹿2連勝)と第7戦オートポリスで2勝を上げランキング4位につけた。2012年もR&D SPORTにて佐々木とともに参戦し、マシンは注目のスバル・BRZ に変更。ニューマシンということで苦悩の年となったが、翌2013年には戦闘力を上げ、得意とする鈴鹿1000kmレースの予選でGT300コースレコードを樹立。決勝も優勝した。2013年の最終戦もてぎでは辰己英治総監督とともに記者会見に出席。TEAM SUBARUを勇退すると報じられる。その直後のフリー走行ではベストラップを記録し、決勝も3位表彰台登壇。7年間のTEAM SUBARUでの活動の終止符に相応しいレースとなった。
2017年、CABANA Racing Teamから日本初開催となったGLOBAL MX-5 CUP JAPANに出場した。開幕戦から優勝し、シリーズチャンピオンを獲得。ラグナセカでのインターナショナルカップに出場した。翌年は同レースのアンパサダーに就任した。2022年、スーパー耐久シリーズにおいてOHLINS ROADSTER NATSのAドライバ―として登録されたことが発表された。スーパー耐久シリーズにはスポット参戦することはあったが、レギュラー参戦は1998年TK インテグラタイプR 以来24年ぶりとなった。開幕戦鈴鹿5時間耐久ではポールポジションを獲得し、決勝も燃費走行からラスト9分で逆転し、チームに初優勝をもたらした。2023年スーパー耐久シリーズ開幕戦鈴鹿で他車との接触から大クラッシュに遭い救急搬送されたが翌富士24時間レースで復帰。その後3勝を挙げシリーズチャンピオンを獲得した。
パイクスピークインターナショナルヒルクライムなどの経歴
レースやジムカーナの活動だけでなく、スポット参戦した他のカテゴリーでも実績を残している。全日本ダートトライアル 選手権丸和ラウンドでは三菱・ランサー で5位に入賞。全日本ラリー選手権 新城ラウンドではトヨタ・86 で2年連続で入賞。特にハイスピードSSではクラストップを連続して記録するなど、高い順応性を示した。2015年には本田技術研究所 の開発車両でアメリカコロラド州 で行われるパイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライム に参戦。「Honda Electric SH-AWD with Precision All-Wheel Steer」で総合11位、エキシビションクラス優勝を果たした。2016年は発売前のNSXを模した「4-Motor EV Concept」で総合3位、エレクトリックモディファイドクラス2位、それまで田嶋伸博 が持っていた日本人最速記録を自らが出した9分06秒015というタイムで塗り替えた。
マルチタレントとしての活動
レース活動の一方で、ドライビングスクールや安全運転のアドバイザー、ジャーナリスト、コースデザイナーをはじめ、自動車メーカー、タイヤメーカー、パーツメーカーの開発テストドライバーとしても活動している。オンボードレッスンやイベント企画、人材派遣、デザイン業務などもこなす。茨城県守谷市にある「オフィス コムドライブ」の会長。
普段の愛車遍歴はホンダ・ラグレイト 、スバル・レガシィ 、BMW・M5 、メルセデスAMG ・C63S、アウディ・RS5 、スマート ・ブラバス、メルセデスAMG E63S、BMW・M3 、アウディe-tron 55 quattro、メルセデスAMG CLA45S、メルセデスAMG CLS53 4MATICなど。
戦歴
全日本ジムカーナ選手権
1992年 - EF8型CR-XでAIIクラスチャンピオン 第1回目 シリーズ化した選手権での最速初代チャンピオン
1993年 - EF8型CR-X及びEG6型シビックでAIIクラスシリーズ2位
1994年 - EG6型シビックでAIIクラスチャンピオン 第2回目
1995年 - EG6型シビックでAIIクラスチャンピオン 第3回目 JAF カップのみDC2型インテグラで参戦し優勝
1996年 - EK4型シビックでAIIクラスチャンピオン 第4回目 1戦のみDC2型インテグラで参戦しAIIIクラス優勝
1997年 - EK4型シビックでAIIクラスチャンピオン 第5回目
1998年 - EK9型シビックでAIIクラスチャンピオン 第6回目
1999年 - NA1型NSXでAIIIクラスチャンピオン 第7回目
2000年 - AP1型S2000でAIIIクラスチャンピオン 第8回目
2001年 - AP1型S2000でAIIIクラスチャンピオン 第9回目 最終戦をDC5型インテグラで参戦
2002年 - DC5型インテグラでAIIIクラスシリーズ6位
2003年 - AP1型S2000でN3クラスチャンピオン 第10回目
2004年 - NA2型NSXでN3クラスチャンピオン 第11回目
2005年 - NA2型NSXでN3クラスチャンピオン 第12回目
2006年 - AP2型S2000でN3クラスシリーズ2位
2007年 - ロータス・エキシージでN3クラスシリーズチャンピオン 第13回目 日本選手権初の外国車(イギリス車)でのタイトル
2008年 - エキシージでN3クラスシリーズチャンピオン 第14回目
2009年 - エキシージでN3クラスシリーズ2位
2010年 - エキシージでN3クラスシリーズ4位
2011年 - エキシージでN3クラスシリーズ2位
2012年 - ZC6型BRZでPN2クラスシリーズ2位 BRZのモータースポーツにおける世界初優勝
2013年 - ZC6型BRZでPN3クラスシリーズチャンピオン 第15回目
2014年 - ZC6型BRZでPN3クラスシリーズ2位
2015年 - ZC6型BRZでPN3クラスシリーズチャンピオン 第16回目
2016年 - エキシージでPN4クラスシリーズ5位
2017年 - アバルト・124スパイダーでPN2クラスシリーズチャンピオン 第17回目 日本選手権2車種目の外国車(イタリア車)でのタイトル
2018年 - 124スパイダーでPN2クラスシリーズチャンピオン 第18回目 第3戦で全日本ジムカーナ選手権「100戦目の優勝」
2019年 - 124スパイダーでPN2クラスシリーズチャンピオン 第19回目 全10戦中9戦で優勝 年間最多優勝記録を更新
2020年 - 124スパイダーでPN2クラスシリーズチャンピオン 第20回目 全4戦中3戦で優勝
2021年 - 124スパイダーでJG7クラスシリーズチャンピオン 第21回目 全7戦中5戦で優勝
2022年 - アルピーヌA110SでJG10クラスシリーズチャンピオン 第22回目 全8戦中7戦で優勝
2023年 - アルピーヌA110SでPE1クラスシリーズチャンピオン 第23回目 全8戦中6戦で優勝
2024年 - アルピーヌA110RでPE1クラスシリーズチャンピオン 第24回目 全10戦中8戦で優勝 単戦優勝回数合計143勝
全日本GT選手権/SUPER GT
1999年 - RE雨宮マツモトキヨシ RX-7で参戦 ドライバーズランキング5位
2000年 - RE雨宮マツモトキヨシRX-7で参戦 ドライバーズランキング5位
2001年 - RE雨宮マツモトキヨシRX-7で参戦 ドライバーズランキング2位
2002年 - ユニシアジェクス シルビアで参戦 ドライバーズランキング3位
2003年 - AMPREX BMW M3GT , CASTLEIDEAL RX-7参戦
2004年 - M-TEC NSXで参戦 GT300クラスチャンピオン
2005年 - TEAM RECKLESS MR-Sで参戦 2年連続GT300クラスチャンピオン
2006年 - 雨宮アスパラドリンク RX-7で参戦 3年連続GT300クラスチャンピオン
2007年 - クスコ DUNLOP インプレッサで参戦 ドライバーズランキング22位
2008年 - クスコDUNLOP スバル・インプレッサで参戦 ドライバーズランキング6位 (この年の第4戦マレーシアセパンサーキットでAWD車初優勝(GT300としてはAWD車初優勝)に導いた)
2009年 - R&D SPORT レガシィB4で第6戦から参戦
2010年 - R&D SPORT レガシィB4で参戦 ドライバーズランキング11位
2011年 - R&D SPORT レガシィB4で参戦 ドライバーズランキング4位
2012年 - R&D SPORT BRZ GT300で参戦 ドライバーズランキング14位
2013年 - R&D SPORT BRZ GT300で参戦 ドライバーズランキング4位
エピソード
東京オートサロン 2019[ 注 2] のEXEDY ブースにて。写真左から央川かこ [ 2] 、山野、瀬谷ひかる[ 3] 。
カリフォルニア州トーランス市サウス・ハイスクール 11年生のとき、オールAの成績を取り、クルマを購入するための父親からの条件をクリア。初めてのクルマ”トヨタ・カローラ SR5”を中古で購入。
16歳で免許を取得したころ、毎日家のガレージで3時間車庫入れをしていたが「車庫入れが運転がうまくなる第一歩」と言っている。
ジムカーナ会場ではEF8型CR-Xで参戦していた当時、その車のカラーリングがリゲイン に似ていた(車のカラーリングは黒地に黄色のロゴであったが)ことから、出走時に「勇気のしるし 」が流れる。ジムカーナの実況アナウンサー からは「24時間戦えるドライバー 」と称されていた。
スタート位置が変更された鈴鹿サーキット での初レースでのポールポジション 獲得者。1996年CIVIC F1 CHALLENGE CUPで雨の予選1位から晴れた決勝も逃げ切り優勝を遂げた。その嬉しさからメインストレートで箱乗りを披露したが、競技団から「F1のタイムスケジュールが遅れる」と厳重注意を受けた。
ジムカーナキングの異名を持ち、GTでも前人未到の3連覇を達成しているが、自身のジムカーナのデビュー戦はアルトワークス で転倒、レースのデビュー戦はGA2型シティ で予選落ちであった。
SUPER GTに参戦してもジムカーナを辞めない理由として「ジムカーナが最も運転がうまくなるカテゴリー」と断言している。
ツインリンクもてぎ 開催のミジェットレーシング 選手権の初代チャンピオン。
上智大学自動車部OB会長を務めている。また、同部にコムドライブのガレージを提供している[ 4] 。
令和元年度茨城県 表彰「特別功労賞」受賞。SUPER GT3年連続シリーズチャンピオン、全日本ジムカーナ選手権優勝114回&シリーズチャンピオン19回が選考理由。
2020年茨城県守谷市 「もりや広報大使」を委嘱される。
2021年、日本自動車ジャーナリスト協会 会員となる。
茨城県により2020年東京オリンピック 聖火ランナーに選出され、2021年7月5日、茨城県常総市 にある水海道あすなろの里を走った。
2023年11月24日JAFモータースポーツ表彰式において、ファン投票によるJAFドライバー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。
脚注
注釈
^ ただしGT500とGT300のクラス別によるクラスまたぎで連続チャンピオンを獲得したドライバーも含めると、元チームメイトの柳田真孝もいる。柳田は2010年はGT300でチャンピオン、2011年、2012年はGT500でチャンピオンを獲得している。
^ 2019年1月11日 - 13日、幕張メッセ にて開催[ 1]
出典
外部リンク
全日本GT選手権
SUPER GT
1 94 - 95年まではGT1クラス。
2 94 - 95年まではGT2クラス。