大久保 利武(おおくぼ としたけ、1865年5月7日〈慶応元年4月13日〉 - 1943年〈昭和18年〉7月13日[1])は、日本の内務官僚、政治家。日本赤十字社理事。位階・勲等・爵位は正二位勲一等侯爵[1]。
1865年(慶応元年)4月13日、薩摩国鹿児島城下新照院通町に大久保一蔵(利通)と満寿子の三男として生まれる。幼名は三熊。1887年(明治20年)、第一高等中学校を卒業後、アメリカ合衆国に留学し、イェール大学を卒業。さらにドイツに留学し、ハレ大学、ハイデルベルク大学、ベルリン大学で学ぶ。
1894年(明治27年)に帰国。日清戦争で大本営付通訳官を務め、その後、台湾総督秘書官に就任。1896年(明治29年)9月、内務省に入省し、内務大臣秘書官に就任。さらに内務省監獄局長を務める。
1900年(明治33年)1月、鳥取県知事となる。以後、大分県・埼玉県の各知事を歴任。1901年(明治34年)には大分県知事として八鹿酒造麻生観八らの農地灌漑工事につき起債を認可している[2]。1907年(明治40年)12月、農商務省商工局長となり、さらに商務局長を務めた。1912年(大正元年)12月、大阪府知事に就任。1917年(大正6年)12月、大阪府知事を退任後、同月26日[3]、貴族院勅選議員に任じられ研究会に属した[1]。1922年(大正11年)2月13日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた[4]。
継嗣がいなかった兄・利和の養子となり、1928年(昭和3年)6月5日、利和の隠居に伴い家督を相続。6月14日、貴族院勅選議員を辞任[5]、6月15日には侯爵を襲爵し、貴族院侯爵議員に就任[5]。
1937年(昭和12年)には、ナチス支持の学者であったウォルター・ドーナート(ドイツ語版)が主宰した日独文化協会の会長を務める。他、維新史料編纂会委員、日本赤十字社理事などを務めた。
1943年(昭和18年)7月13日、兄・利和に先立ち死去。満78歳没。墓所は青山霊園。家督は長男の利謙が継いだ。
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