平山靖彦

平山靖彦

平山 靖彦(ひらやま やすひこ、天保15年10月6日1844年11月15日[1] - 1912年大正元年)12月9日)は、日本の官僚、政治家。秋田大分佐賀県知事、衆議院議員貴族院勅選議員錦鶏間祗候

略歴

広島藩士。成川大五郎の次男として生まれ、平山良太郎の養子となった[1]。広島藩学問所(現:修道中学校・高等学校)にて学ぶ[2]明治維新後、大蔵省内務省広島県奈良県書記官等を経て、帝国奈良博物館館長となる。

1892年明治25年)、第2回衆議院議員総選挙広島1区に中央交渉部より出馬し当選。衆議院議員となり、同年から秋田県、大分県、佐賀県の各県知事を歴任。1900年12月28日、錦鶏間祗候に任じられる[3]1907年(明治40年)12月10日、貴族院議員に勅選され[4]、死去するまで在任した。

栄典

脚注

  1. ^ a b 『人事興信録 3版』(人事興信所、1911年)ひ60頁
  2. ^ 修道中学校編「修道中学校史」1931年 28頁
  3. ^ 『官報』第5250号、明治34年1月4日。
  4. ^ 『官報』第7337号、明治40年12月11日。
  5. ^ 『官報』第2776号「叙任及辞令」1892年9月27日。
  6. ^ 『官報』第4172号「叙任及辞令」1897年6月1日。

関連項目

参考文献