島田 剛太郎(嶋田[1]、しまだ ごうたろう / こうたろう[1]、1867年10月12日(慶応3年9月15日[1])- 1945年(昭和20年)2月28日[1][2])は、日本の農商務・内務官僚。官選県知事。
経歴
越前国[2]勝山藩士・島田静虎[注釈 1]、つるの長男(4男3女)として生まれる[1][3]。京都で旧制中学校の教育を受けて上京し[1]、大学予備門を経て[1]、1890年、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年7月15日、農商務省に入省し試補となり参事官室に配属された[3][4]。
1902年、農商務省参事官に就任。以後、林務官、鉱山監督兼農商務省参事官、臨時葉煙草取扱所建築事務官、林野整理局書記官、林務官兼山林局書記官兼農商務書記官などを歴任し、1907年1月、京都府事務官・第一部長兼第三部長となる[5]。
1907年12月、埼玉県知事に就任。産業、教育の振興に尽力[6]。1913年6月、岐阜県知事に転任。加納高等女学校の開校、米の生産検査の施行などを推進[7]。1917年1月、長崎県知事に転任。労働争議、スペイン風邪の対応などに尽力。1919年4月に知事を辞職し退官した[3][4]。
退官後、1919年10月に矢作川において電源開発を手掛ける矢作水力の監査役に就任[8]、1936年10月まで在任した[9]。なお、1937年版の興信録に見える役職は矢作水力監査役のみである[10]。
栄典
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g 「嶋田 剛太郎」『埼玉人物事典』404頁。
- ^ a b 『日本人名大辞典』930頁。
- ^ a b c 『新編日本の歴代知事』1018頁。
- ^ a b 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』154頁。
- ^ 『官報』第7061号、明治40年1月15日。
- ^ 『新編日本の歴代知事』312頁。
- ^ 『新編日本の歴代知事』542頁。
- ^ 『矢作水力株式会社十年史』147頁
- ^ 『矢作製鉄 風雪の60年小史』219頁
- ^ 『人事興信録』第11版上巻シ82頁。NDLJP:1072916/1118
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第1688号「叙任及辞令」1918年3月22日。
参考文献