山内 義文(やまうち よしふみ、1893年(明治26年)7月[1] - 1945年(昭和20年)1月19日[2])は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。陸軍司政長官。旧姓・伊藤[3][4]。
三重県出身[3]。伊藤茂右衛門の四男として生まれ、山内家(本籍:愛知県)の養子となる[1]。第八高等学校を卒業[4]。1918年7月、京都帝国大学法科大学政治経済学科を卒業[3]。1919年10月、高等試験行政科試験に合格。1920年、内務省に入省し警保局嘱託となる[4]。
以後、高知県警部・警務課長、神奈川県警視・監察官、福井県警視・特別高等課長、山口県書記官・警察部長、岐阜県書記官・警察部長、熊本県書記官・警察部長、和歌山県書記官・警察部長、高知県書記官・総務部長、鹿児島県書記官・総務部長、静岡県書記官・総務部長などを歴任[5]。
1940年4月9日、岩手県知事に就任。戦時体制の整備に尽力[6]。1942年6月15日、長崎県知事に転任。戦時緊縮財政を継続した[5]。
1944年8月1日、陸軍司政長官に発令され[7]、香港占領地総督部総務長官に就任[8]。在任中の1945年1月19日、「南支那方面ニ於テ戦死」した[2][8]。
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