銀林 綱男(ぎんばやし つなお、1844年5月6日(弘化元年3月19日[1])- 1905年(明治38年)9月20日[2])は、幕末の尊攘運動家、明治期の内務官僚・実業家。官選埼玉県知事。孫に数学者の銀林浩、曾孫に政治家の片山さつきがいる[3]。同郷の前島密と親交があった[3]。
経歴
越後国頸城郡青海村(後の新潟県西頸城郡青海町→糸魚川市)の青海神社の宮司[4]銀林玄類の息子として生まれる[1]。江戸で医学、詩文を学んだ。戊辰戦争では新政府側の居之隊に属して転戦した[2]。
慶応4年(1868年)8月、新政府に出仕し民政方御用掛に就任。以後、新潟県少属、同一等警部を歴任。1876年、東京府に転じ、同大属、同戸籍掛長、同学務課長、同建築調査委員、同官報通信主任、同会計主務官代理などを務めた。1891年、世界界博覧会出品事務委員に就任[4]。
1892年12月、埼玉県知事に就任[5]。道路の改良整備に尽力。1894年1月20日、知事を非職となり[4]、同月31日、依願免本官[6]。その後、北越鉄道社長[2]、横浜火災運送保険株式会社 東京支店監督などを務めた[1]。1902年6月、東京市会議員に当選した[7][8][注釈 1]。市会議員在職中に死去した[10]。
栄典
- 位階
- 勲章等
出典
注釈
脚注
参考文献
- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。