寺田 祐之(てらだ すけゆき、1851年1月27日(嘉永3年12月26日) - 1917年(大正6年)3月14日[1])は、日本の内務官僚。鳥取・岡山・宮城・広島の各県知事を歴任した。特に広島県知事在任中、県物産陳列館(現在の原爆ドーム)の設立に関わったことで知られる。
信濃国水内郡飯山に後の旧飯山藩士(長野県士族)寺田覚の長男として生まれ、慶応3年、寺田勘兵衛の養子となり家督を相続[2]。1871年、飯山県文学助教兼学監となり、司法省十二等出仕警視属四等警視に転じた。その後、警察は内務省に移り、兵庫・山梨・香川・広島の各県警部長、新潟県内務部長などを経て1901年(明治34年)4月2日、鳥取県知事に就任。就任直後には県下を巡回視察し、教育施設の整備や森林の増殖、県営模範林造成などの事業を進め[3]、1906年7月28日に退任すると同時に岡山県知事に転じる。1908年7月20日に退任し宮城県知事に転じる。ここで彼は七ヶ浜・塩釜・松島・鳴瀬と松島湾の島々を含んだ地域を一大観光地化する「松島公園」構想を打ち出し、そのシンボルとして東北地方初のリゾート・ホテルである松島パークホテル(現存せず)を建設した[4]。
そして寺田は1913年(大正2年)2月27日に宮城県知事を退任し広島県知事に転じるが、ここで彼は、日清戦争を契機に発達した県内製品の販路を開拓する拠点として、各府県で設置が進んでいた「物産陳列館」を同県にも建設する計画を進め、宮城県知事時代に松島パークホテルの設計を依頼していたチェコ(当時はオーストリア=ハンガリー帝国領)出身の建築家ヤン・レツルに同館の設計を託し、広島県物産陳列館は1915年4月5日に竣工した(開館は8月5日)[5]。彼はこれ以外にも県内の興業政策を推進し1915年4月5日より「広島県物産共進会」を開催、同年7月には広島県植民協会を発足させた。翌1916年4月28日に知事を退任した後は文官分限令第11条第1項第4号に基づいて休職[6][7]したが、1917年3月6日に脳溢血を発症。東京・赤坂表町の自宅で療養するも肺炎をも併発[8]、同月14日に死去した。葬儀は19日、青山斎場にて営まれ、青山霊園に葬られた[1]。
なお、位階は従三位勲二等であったのが危篤に際して一段特進したため、最終的には正三位勲二等となった[1]。