北都銀行
株式会社北都銀行(ほくとぎんこう、英: The Hokuto Bank, Ltd.)は、秋田県秋田市に本店を置く地方銀行。 1895年に、現在の横手市で増田銀行として設立され、1922年に改称した地銀の羽後銀行が、1993年に第二地銀であった秋田あけぼの銀行を合併して発足した銀行である。横手市・にかほ市などの指定金融機関。 山形県に基盤を持つ地方銀行・荘内銀行と経営統合、同行と共に仙台市青葉区に本社を置く金融持株会社・フィデアホールディングス株式会社(フィデアHD)の傘下に入った。 概要行名の「北都」は「北国の都=秋田」を意味しており、金融サービスを通じて秋田が東北地方の政治・経済・文化の中心たる「都」として発展することに寄与したいという思いが込められている[2]。 プロジェクトファイナンスなどの実行による地域経済の活性化に取り組んでおり、2014年8月には、北海道銀行と共に石狩市の風力発電事業に5億円のシンジケートローンを組成した他[3]、翌2015年3月には秋田港内の工業団地に「ユナイテッドリニューアブルエナジー」が建設中である東北最大級の木質バイオマス発電所に関し、新生銀行と共に幹事を担い、総額106億円のシンジケートローンの組成もしている[4][5]。さらに同年2月に明らかとなった、丸紅が秋田港と能代港で手掛ける洋上風力発電事業のSPCに秋田銀など共に参画した[6]。このほか2016年5月20日には、北都銀系列のウェンティ・ジャパン(本社:秋田市)と三菱商事などが出資し「秋田潟上ウインドファーム合同会社」を設立。総事業費は200億円超を投じ、潟上市と秋田市の沿岸に風車を22基建設。2019年前半に稼働を開始し発電した電力を固定価格買取制度を使って東北電力へ売電する計画を明らかとしている[7][8]。 また2015年1月には、内閣府による「女性が輝く先進企業表彰」で内閣総理大臣賞を受賞するなど、女性行員の登用にも積極的である[9][10]。 沿革増田銀行として創立北都銀行の前身は、1895年(明治28年)5月3日に設立された「増田銀行」である[11][12]。増田銀行が設立された秋田県平鹿郡増田町(現在の横手市)は、横手盆地の南西部に位置し、皆瀬川と成瀬川の合流点に近い。増田町は、両流域に点在する雄勝郡東部の各村の物資集散地として発展し、地域の中心商業地として栄えていた[11][13]。増田町は地勢上の利点から多数の大地主が存在し、それぞれが事業を営んでいた[14]。これらの大地主はいずれも、多くの小作人や葉たばこ、カイコ、クワの育成に従事する人々を抱えており、そうした人々への資金貸与や回収業務の煩雑さを軽減するため、これらを取り扱う銀行を設立する機運が高まっていた[14]。 この時期、政府が「国立銀行条例」を発布しており、さらに日清戦争による好景気も重なり、秋田県内でもすでに数行の銀行が設立されていた[14]。また、増田町出身の[15]久米田正之助が東京の和仏法律学校(後の東京法学校、現在の法政大学の前身)にて法学を修めており、彼を中心に銀行設立の準備がなされた[14]。 1894年(明治27年)12月13日、久米田正之助とその他増田の地主ら9人が発起人となり、株式会社増田銀行発起許可願および株式会社増田銀行目録見書を大蔵大臣宛に提出した[14]。これは翌年2月25日(1月28日との記述もあり[16])に認可され、同年2月28日に創立総会を開催[17][16]。同3月1日に設立免許申請書を提出し、3月28日に許可書が下付された[17][16]。そして1895年5月3日、開業届を秋田県知事宛に提出し、増田銀行として開業(営業開始[16])した[17]。会社設立登記については5月2日にされているが、開業日は5月3日として登記されており、この日を創立日としている[17]。 創立当初から大正中期に至るまで、営業範囲は極めて狭い地域内に限られており、業績も横ばいが続いていた[18]。そのため、中央経済界の変動が当地に影響を及ぼすまでには約1年の時差があり、影響の度合いも軽微なものであった[18][19]。 羽後銀行への商号変更と事業拡大1909年(明治42年)、早稲田大学政治経済学部を卒業した久米田正之助の長男・正治は無冠のまま増田銀行へ入行し、1916年(大正5年)11月の父急逝の後は家名襲用により二代目・久米田正之助を名乗り、1917年(大正6年)1月より専務取締役に就任した[20]。久米田は、将来的には小銀行は淘汰されるだろうという考えから、従来の消極的な経営を打破するため、まず資本金の増資を計画し、1917年7月1日に従来の4倍となる20万円への増資を成功させた[21]。さらに、県南の中心地である横手町(現在の横手市)に最初の支店を開設することを目指し、資本金をさらに50万円へと増資するとともに、取締役陣に初めて町外から横手町の富豪である杉田清治を招き入れた[22]。また、横手支店の支店長には、土地の名望家である伊藤慶太郎に委嘱することを企画した[22]。 1922年(大正11年)1月20日、株主総会において「羽後銀行」への商号変更、岩手県和賀郡湯田村川尻(後の湯田町、現在の西和賀町)および県都秋田市への支店開設、資本金の200万円への増資を決議し、土田万助を取締役に選任した[22][23]。新たな商号は、律令国時代の旧国名である「羽後」に由来しており、発祥の地「増田」から脱皮し、全県的な広がりを目指す意図を込めて命名された[24]。商号変更は1922年2月15日付で認可され、同年3月1日に「株式会社羽後銀行」へと改称した[24]。 銀行法の成立と小銀行の合併昭和金融恐慌の発生から半月後である1927年(昭和2年)3月30日に「銀行法」が公布され、翌年1月1日に施行された[25]。当時、銀行の乱立による倒産が相次いでおり、銀行業務の公共性の高さに由来する信用回復などを目的に新法が制定された[25]。羽後銀行はこの新法に合致する銀行となり、政府は当行の存続を基本とする一貫した合同政策を進めた。その結果、1928年(昭和3年)9月20日に大館銀行および仁賀保銀行と合併し、資金の増強や店舗網の拡充が図られた[26][27]。両行との合併により、羽後銀行の資本金は大館銀行の70万円と仁賀保銀行の42.5万円を合わせて、312.5万円となった[28]。 大館銀行は、当時の小林定修大館町長の呼びかけにより1921年(大正10年)10月に創立された[29]。地域の産業振興と庶民金融を目的とし、株主は約400名、資本金は70万円で、大館町(現在の大館市)字馬喰町拾四番地に置かれた[29]。当時、大館町にはすでに1898年(明治31年)に第四十八銀行(秋田銀行の前身)、1907年(明治40年)に第五十九銀行(青森銀行の前身、現在の青森みちのく銀行)、1916年(大正5年)に旧・秋田銀行がそれぞれ支店を開設しており、大館銀行の創立は比較的遅かった[30]。 仁賀保銀行は、北能喜市郎が有志らとともに1919年(大正8年)9月12日に創立した[28]。資本金は50万円で、由利郡金浦町(現在のにかほ市)に設立された[28]。当時、同じ由利郡には本荘町(現在の由利本荘市)に本荘銀行(後に山形銀行へ合併)が設立されていたが、業態が安定せず、臨時休業や預金受入停止などが行われ、業況は不振であった[28]。 また、大館銀行と仁賀保銀行の合併に加え、銀行法による都市銀行の郡部への進出抑制の動きもあり、仁賀保銀行の親銀行であった安田銀行(富士銀行の前身、現在のみずほ銀行)に本荘支店の譲渡を打診したところ、交渉は順調に進み、1928年(昭和3年)11月1日に羽後銀行本荘支店として発足した[31]。これに加え、横手支店の譲渡も打診し、こちらも安田銀行から羽後銀行に譲渡された[31]。 金融恐慌の影響1932年(昭和7年)4月18日、平鹿郡植田村(後の十文字町、現在の横手市)に本店を置く植田銀行から事業譲渡を受けた[32]。もともと、羽後銀行と植田銀行は本店所在地が近接しており、また両行役員間には交友があることから、小銀行の合併の機運が高まる時勢もあり、両行の合併は自然な成り行きと見られていた。昭和農業恐慌が深化すると、1930年(昭和5年)11月、資金調達が困難になった[33]八戸銀行休業の報が入ると、青森県の第五十九銀行と岩手県の岩手銀行、盛岡銀行が取り付け騒ぎに遭い、日銀特融を受けるに至った[34]。横手には盛岡銀行の支店が所在しており、同行横手支店における取り付け騒ぎは横手地区に本拠を置く羽後・植田・五業の3行にも波及し、五業は休業に追い込まれた[35]。植田は羽後と合併するに至ったが、五業は廃業となった[35]。 植田銀行は、当初「近合名会社」と称して1897年(明治30年)4月10日に植田村にて創立された[36]。植田村は農村であったが、明治に入ってからは十文字通、浅舞・湯沢街道の四通路が交差する裏町衝突(つきあたり)の前に市が開かれるようになり、近村の農産物の集散地となっていた[37]。明治24年から25年頃になると、米殻や生糸の仲介業者が現れ[37]、資金供給を行う組織の必要性が高まったため創立された[38]。創立時の資本金は1万円であったが、すぐに資金不足となり、1900年(明治33年)9月10日に資本金を2万円に増資し、銀行業(銀行類似会社)を開始した[38]。1905年(明治38年)2月には普通銀行となり、合名会社植田銀行と称した[38]。さらに、1917年(大正6年)10月4日には植田金融合資会社を合併し、株式会社へ改組するとともに、資本金も20万円に増資した[36]。それ以降は浅舞、大森、院内、前郷、横手の支店を設置し業績を伸ばし、1934年(昭和9年)3月には資本金を50万円へと増資した[36]。 一県一行主義への反対秋田県に本店を置く普通銀行は、1920年(昭和元年)の時点で14行あったが、銀行法施行後は小銀行の再編が進み、1938年(昭和13年)には(旧) 秋田銀行(秋田市)、第四十八銀行(秋田市)、湯沢銀行(湯沢町)、羽後銀行(増田町)の4行となった[39]。かねてより銀行合同化は進められてきたが、日中戦争(支那事変)の勃発により戦時経済が色濃くなってくると、一経済地域一行から一県一行主義とする画一的なものへと変化し、銀行合同をさらに積極的に推進した。1941年(昭和16年)には(旧) 秋田銀行、第四十八銀行、湯沢銀行が合併し、新たな秋田銀行が発足したことにより、秋田・羽後の2行体制となった[39]。 1940年(昭和15年)9月、大蔵省の検査のために検査員が来行したが、その際の態度から、県下4行(当時、新秋田銀は未発足)を1行に合同させようとする意図が明らかであった[40]。これを察知した羽後銀行は、「地方銀行における当行の地位」と題する論文を提出し、具体的な動きが起こる前に合併に反対であることを表明した[40]。しかし、同年末には県下4行に大同合併するようしきりに要請がなされた。羽後銀行は、秋田県の県南地区が一つの経済圏を形成していることから、その地域銀行として存続するのがふさわしいと主張し、合同への不参加を表明した[41]。しかし、大蔵省は、経済基盤の弱い秋田県においては一行体制が適当であると判断し、県下一行化が確定方針であるかのように強引に合同を勧告した[41]。1941年(昭和16年)4月30日に大蔵省が示した「秋田県新立銀行案」に対し、羽後銀行は正式に反対であることを示し、同年5月29日の大蔵省臨検の際も、断固として合併に反対であるとした[42][43]。 本店を県南の中心都市・横手へ移転久米田正之助専務の後を継いだ久米田七之助常務は、戦後の混乱の中、さらなる飛躍を目指して本店を県都秋田市へと移転する構想があった[44]。しかし、当時の行員はわずか30数名ほどで、支店数も25店であり、秋田市へ進出するにはまだ体を成していないと判断し、まずは県南地区の中心都市である横手町へと移転することを決めた[44]。増田町は鉄道が通らず、交通や運輸、通信はすべて横手町もしくは十文字町を経由するという状況で、諸官庁との交渉や連絡を迅速に行えず、業務に支障をきたしているのに対し、横手町は奥羽本線・横黒線(現在の北上線)・横荘線(現在は廃止)が十字に交差する交通の要所となっており、商工業の規模も大きくなっていた[45]。増田は特産物の生産が激減したことにより商工業が著しく縮小しており、横手とは対照的に衰微していた[46]。 1949年(昭和24年)6月20日の取締役会において、本店を横手町に移転し、増田町の本店を増田支店へ、横手支店は廃止することを決議し、同年7月4日の株主総会でこれを可決した[47]。同月8日には当局へ申請を行い、8月2日付で認可、9月20日に移転を完了させた[47][48]。 本店を県都・秋田市へ移転本店を横手に移転してから、1951年、1952年、1954年の3度にわたって増資を行い、資本金は1億円となった[49]。また、角館、能代、土崎に支店を開設するなど、自己資本の充実や店舗網の拡大に努めた[49]。さらに、本部機構の改革や諸規程の制定を進め、近代的な銀行への脱皮を目指し、1955年(昭和30年)には、大蔵省に対して本店の秋田市移転を陳情し始めた[49]。 陳情を続ける中、本店予定地として秋田県物産館(3,878m2)跡地を1960年(昭和35年)11月18日に取得した[50]。本店予定地は確保できたものの、大蔵省からは時期尚早としてなかなか認可が降りず、やむを得ず支店として店舗を設置し、本部機能の一部を移転して将来的には本店とするという構想を示した[51][52]。その名称は中央支店とすることを1961年(昭和36年)7月25日の取締役会で決議し、同年11月10日には中央支店設置およに不動産取得についての内許可申請書を提出し、同年12月11日に内認可を、翌年9月25日に本認可を受けた[52]。 1962年(昭和37年)12月10日、中央支店が開店した[53][54]。建物は鉄筋コンクリート構造の地上4階、塔屋1階[55][54]。中央支店の開設を機に、行明看板の色が赤(金赤)に統一された[55]。また、中央支店の開設に伴い、役員室の一部および営業に関連するすべての部門が秋田市の中央支店へ移転された[56]。一方で、横手の本店には総務部の一部、人事部、研修課、検査部が残されが、本部機能が本店と中央支店に二分されたことにより、不便さが増大した[56]。そのため、本店の早期移転を実現するためにさらなる陳情を重ねた結果、1964年(昭和39年)4月28日付で本店移転の本認可を得ることができた[56]。 1964年5月1日、本店は横手市(1951年市制施行)から秋田市へと移転され[57]、従来の本店は横手支店へと改称された[56][58]。また、本店の移転に伴い、1964年(昭和39年)6月19日に羽後銀行は横手市へ旧本店の別館を寄贈した[59][56]。この頃、横手市では図書館の移築を計画しており、これを知った羽後銀行は、本店別館の建物が図書館への転用に適していると判断し、建物を寄贈するに至った[60]。その後、1965年(昭和40年)5月に横手市立図書館が別地から移転し、同館に入居して開館した[59][61]。 北都銀行の誕生1992年当時における秋田県内の銀行の勢力図は、資金量1兆5,000億円を誇るトップ地銀の秋田銀行を筆頭に、6,000億円の羽後銀行、3,000億円の秋田あけぼの銀行が続く“一強二弱”の体制となっていた[62]。こうした中、羽後銀は1995年に迎える創業100周年にむけ、資金量9,000億円の達成のため業容の拡大に取り組んでいたが、自己資本比率規制によりむやみに資産は増やせない状況下にあり、徹底した合理化を図るにせよ資金量は1兆円は欲しいと考えていた[62]。一方、秋田あけぼの銀は1991年に合理化推進のため実業団野球チームを解散したほか、これからのコンピュータ投資には最低1兆円の資金量が必要であると認識しはじめていた[63]。この資金量1兆円への渇望が、両行が合併に向う大きな誘引となった[63]。また、今後一層の金融自由化や国際化が進展し多岐にわたることが予想される顧客ニーズを踏まえ、収益状況に余裕のある段階での合併が最良であるとも判断した。 1993年4月1日に誕生した北都銀行は、合併時の店舗合算が131店となり秋田銀の107店を上回る体制となったため、これを有効に活用しリテールバンク「大衆金融」に徹し、地元中小企業や、個人事業主に対する資金提供や経営相談に特化する戦略が打ち出された[63]。合併当初は、県内を代表する二大銀行のひとつとして行内外より歓迎を受け、創業100周年にあたる1995年には業績も順調に伸びていた。この時点では、2005年の創業110周年を目処に、秋田県の企業としては2社目となる東京証券取引所一部上場を計画していた。 混迷、そしてフィデアホールディングス傘下へしかし、その後の長期不況やデフレーションの進行により秋田県経済も深刻度を増した上、1996年に始まった金融ビッグバンの荒波にもまれ経営は苦戦を強いられた。北都銀もその渦中には、2003年までには53か店の統廃合や人員削減中心の合理化策を講じるも、2期連続の赤字計上となり効果がうまく生かされなかったほか、行員の不祥事により金融庁から業務改善命令を受け、ついには齋藤隆夫頭取(当時)が引責辞任に追い込まれるほど、経営は混迷を極めた[64]。そして、収益力の脆弱さを補うべく講じられていた積極的な有価証券運用あるいはデリバティブ取引が、サブプライムローン問題やリーマンブラザース破綻による市場の混乱により、あだとなってしまい、2008年3月末には120億円を超える含み損を抱える事態となり、自己資本比率も5.58%に低下するなど非常事態を迎えるに至った。そこで、顧客に安心感を与えるため早急な自己資本増強策に迫られた加賀谷武夫頭取(当時)が、親密先であるみずほフィナンシャルグループに相談したところ、荘内銀行への橋渡しをされたことが、資本提携、ひいてはフィデアHD傘下入りする端緒となった[65][66]。 公的資金注入2010年3月、フィデアHDに整理回収機構から優先株方式の資本注入が行われ、それを元資に、北都銀行が新たに発行する優先株[注釈 2] をすべてフィデアHDが引き受ける形で間接的に100億円の公的資金が注入された[67]。 2021年9月末、21年3月期の利益剰余金が190億円となり財務が改善し、返済後の自己資本比率も健全性を確保できる水準が見込めると判断し、前倒して半額の50億円を返済した[68]。 業務効率化と併せて「法個一体営業」を推し進め、県内中小企業向けの貸し出しを大きく伸ばし、2022年12月末時点での県内中小企業向け貸出金残高が3578億円[69]。公的資金注入前と比べて約1千億円増やした[69]。再生可能エネルギー分野に加え、販路開拓などの本業支援も地道に進めてきた結果、2023年2月27日、期限を2年前倒しで残り50億円を完済した[69]。 荘内銀行との合併構想2024年1月25日、フィデアホールディングスは北都銀行と荘内銀行の2026年度中の合併に向けて検討を進めることを発表した[70][71]。同年2月に合併に向けた準備委員会を設置し、新銀行の名称や本店の所在地などを協議してきた[72]。2024年11月8日、フィデアホールディングスは2027年1月1日に北都銀行と荘内銀行を合併しフィデア銀行とする予定であることを発表した。本店は現在の荘内銀行山形営業部とし、現在の荘内銀行本店はフィデア銀行鶴岡営業部とする予定である。また、合併に先立って2025年4月1日から北都銀行と荘内銀行の頭取は兼務とし、2025年5月26日から荘内銀行は本店所在地を山形県鶴岡市から山形県山形市へ変更し、同日に店名を現山形営業部から山形本店営業部へ、現本店営業部から鶴岡営業部へ変更予定である[72]。 年表
歴代頭取羽後銀行頭取
北都銀行頭取
営業政策県内店舗秋田市2005年以降順次、市内店舗のリロケーションと営業体制の見直しがはかられた。その端緒として、同年には八橋支店(旧羽後銀八橋支店)を西支店(旧あけぼの銀西支店)と統合の上、現在地に新築移転し秋田西支店と改称した。2007年には、港北支店(旧羽後銀港北支店)を飯島支店(旧あけぼの銀飯島支店)と統合、新築移転し秋田北支店と改称。また、翌年には秋田支店を本店営業部に統合(後述の北都銀行秋田支店を参照)[注釈 3]。 さらに、2009年には秋田南支店を現在地に移転させ、旧あけぼの店としては、同市初の中核店に格上げした。これにより、同市中心部の中核店を本店営業部(副次的に秋田駅前支店および保険相談プラザ)、郊外部の中核店を土崎支店、秋田・東西南北各支店とする体制が確立された。2010年10月24日には、同市では羽後銀行時代に設置された店舗としては最後の店舗である泉支店を、隣接する駐車場敷地内に新店舗を建設したうえで新店舗開業と同時に個人専門店に転換し、平日の延長営業と土日営業を開始した[109]。次いで、同年11月22日には、牛島支店(旧・羽後店)を、マルダイ牛島店敷地向かいに移転し、土日の窓口は従来どおり開かれないものの、平日の時間延長の部分のみながら営業内容自体は泉支店同様の営業スタイルの店舗に転換した。泉支店には、2015年1月22日より、「ほくと泉ローンステーション」を併設し、ローン相談の強化を図ることになった。2014年1月14日には、新国道支店を新店舗へ移転し、AOKIと同一敷地内の拠点で、平日延長営業を開始している。なお、新国道支店・秋田西支店・秋田南支店の3拠点に関しては、2015年4月1日より時間延長を取りやめた。
横手市横手市には、前身である羽後銀行が1964年まで本店を置いていた。また、横手市役所出張所は、北都銀における唯一の有人出張所となっている[注釈 4]。
主要拠点事例北都銀行本店営業部1964年5月1日、秋田市役所の初代庁舎[110] 跡地である現在地に開設。既に、後述する(旧)秋田支店や秋田駅前支店が秋田市進出していたため、進出1号店ではなかった。2013年10月には、翌年の県都への本店設置50周年に先立ち、本店本館の外装をはじめとした営業部窓口の改修工事が完了した。なお、本部棟である本店新館は1977年竣工。秋田市への本店開設当初から営業窓口として使用している本店本館とともに、今日まで使用されている。 北都銀行秋田支店![]() 秋田市進出の1号店は、秋田支店であった。これは、当時の増田町に本店を置いていたことから、秋田市の基幹拠点として設置したものである。1922年の設置であるため、戦後の発足である秋田無尽を前身とする旧秋田あけぼの銀行本店だった、旧秋田中央支店よりも歴史が古い。なお、北都銀発足後に、旧あけぼの店である旭南支店を統合している。しかし、法人顧客の重複などを理由に、2008年11月17日に本店営業部に統合され、店舗外ATM「本店営業部大町出張所」として存続させたが、翌年には同出張所は閉鎖した。その後跡地には2010年2月9日に「だんまや水産秋田大町店」がオープンした。これにともない、秋田市で最古の拠点は後述の秋田駅前支店となり、戦前に開設された拠点はなくなった。本店所在地の都市名の支店が設置されるのは全国的にも珍しいが、北都銀の場合は、上記のいきさつによるものである。 北都銀行秋田駅前支店(旧・中通り支店跡地 2008年11月に本店営業部に統合された秋田支店に次ぎ、市内店舗としては2番目に古い店歴(あけぼの店を含めれば3番目)を誇り、現存店舗としては、旧あけぼの店を含め、秋田市では最古の拠点となる。これは、1956年に当時の羽後銀秋田支店を母店とする有人出張所(秋田支店秋田駅前出張所)として開設されたのが始まりで、正式には1959年の改組、支店昇格が当支店発足の原点としている(支店昇格からカウントしても、現本店発足より5年も前に設置されている)。1969年には、2代目店舗に移転し、北都銀発足後も変わらず同地に所在したが、1996年10月、旧あけぼの銀秋田駅前支店を前身とする中通り支店を統合し、同時に旧中通り支店跡地に移転、2020年10月完成したクロッセ秋田1階に移った。 北都ビルディング(旧:北都銀行別館)![]() 秋田あけぼの銀行本店ビルは、合併後北都銀行別館と称した。これにより、旧あけぼの銀本店営業部は、秋田中央支店に改称後、1996年に本店営業部に統合となった。2011年6月1日「北都ビルディング」に改称、翌年系列の秋田不動産サービスがビルを取得した。 北都銀行分館![]() 北都銀行本店新館に隣接する旧住友生命秋田分館を買収し、北都銀行分館として利用している。フィデアカード(本社および秋田営業部)が所在する。 インストアブランチ秋田県内で最大5店舗を展開していたが、2020年3月までにイオンモール秋田内の御所野支店を除き、ほかの全店は近隣支店に統合となった。 ほけんの窓口@北都銀行2009年8月11日、ライフプラザホールディング(現:ほけんの窓口グループ)と保険商品窓口販売に関する業務提携を締結。御所野支店、大曲プラザ支店などの保険販売拠点で同社のスタッフ派遣を受け入れていたが[111]、提携をさらに強化し、共通ブランドを設けることが集客や販売強化につながると判断し、新たに「ほけんの窓口@北都銀行」を創設した[112]。 海外駐在員事務所2014年7月31日、北都銀としては初の海外の拠点としてタイのバンコクに駐在員事務所を開設した[113][114]。同行から派遣する行員と、2010年8月から2年間、国際教養大学専門職大学院(秋田市雄和)に留学し、北都銀でインターンシップに臨んだいたバンコク出身の女性を新規採用し[115]、県内企業の現地での販路拡大や進出を支援するほか、タイの旅行代理店に秋田県をPRして誘客に取り組むとしている[113]。 県外店舗
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廃止・統合となった県外店舗
地方公共団体取引
自動機サービス
系列会社の新設等ウェンティ・ジャパンを設立2012年9月28日、風力発電事業を手掛けることによって、人口減や経済低迷に悩む地域を再生させることを目標に、市民風力発電(本社:札幌市)や北都銀のほか、地元企業などの出資によって設立。社長には町田睿北都銀会長(当時)からの推薦によって、羽後設備(本社:秋田市)の佐藤裕之社長が就任した[135]。地銀としては異例の参画で、風力発電の整備計画を進めている。売り上げのみならず、建設、メンテナンスなどを内製化し、地元秋田に経済効果が広がる仕組みとした。秋田、新潟などに77基の設置を予定している[136]。 あきた食彩プロデュースを設立2012年10月29日、秋田県農業におけるコメ生産偏重から脱し、農産物に付加価値をつけ農業の6次産業化などを推し進めることを目的に[137]、北都銀やフィデアグループ、JR東日本やパソナのほか、県内企業等の出資によって設立。また秋田とは縁の深いTDKは設立にあたって500万円を寄付した[138]。
2014年10月、秋田からの食品輸出や台湾からの誘客などに関するマーケティング調査にあたる台湾事務所を開設し[139]、県内企業と現地の商社やバイヤーをつなぐ商談会のほか、輸出促進を図る県内自治体や経済団体の案内業務などを担い、北都銀から出向した所長と現地採用の社員の計2人が業務に当たってきた。しかし、新型コロナウイルスの影響で業務が減り、先行きも見通せないため、今後はリモートでも商談などの業務ができると判断から、2021年2月19日を以って事務所を閉鎖した[140]。
秋田市中通1丁目のエリアなかいち内の商業施設を所有する「秋田まちづくり」からテナント管理等の委託を受けていた「秋田まるごと市場」(本社:秋田市)の事業撤退を受け、2014年6月、新たに秋田まちづくりと業務委託契約を結んだあきた食彩プロデュースが[141][142]、タニタとFC契約を締結のうえ、12月27日、『@4の3』(アットヨンノサン)と命名され、改装オープンした商業施設の1階にあきたタニタ食堂を開業した。しかし、タニタ食堂は売上低迷のため、2018年3月末で閉店した[143]。その後、タニタ食堂跡地にはレンタル店舗8店とレンタルボックス16個が設置のなかいち秋田銘品館としてリニューアルオープンしている[144]。
2015年4月19日には仙北市角館のホテル跡地に農産物の6次産業化拠点施設として飲食や物販を営む「食彩・町家館」を開業した[145][146]。あきた食彩プロデュースが1階で土産品店を直営していたが、新型コロナウイルスの影響で売り上げが減少したことなどから2020年12月で閉店。翌年4月からあきた食彩プロデュースとテナントの賃貸契約を締結した「秋田まるごと市場」が入居し、地元の特産品や県内各地の土産品、アンティーク雑貨などをそろえた新たな土産品店にリニューアルオープンした[147]。 高齢者移住施設を整備北都銀系列の秋田不動産サービス(本社:秋田市)が事業主体となり、秋田駅前の北都ほけんプラザや秋田信用金庫秋田駅前支店跡地に、医療や介護などの機能を備え、高齢者の移住の受け皿となる拠点施設であるクロッセ秋田を整備した。 →詳細は「クロッセ秋田」を参照
情報処理システム![]() 前身である羽後銀は富士通、あけぼの銀はIBMともに構築した勘定系システムを運用していたが、合併の翌年明け当初に実施されたシステム統合の際には、副会長であった本山剛の主導の下、羽後銀の富士通のシステムに一本化された[148]。2006年の5月連休明けからはPROBANKに移行した(当初は、2003年10月からの移行としていた)[149][150]。 →フィデアHD傘下以後についてはフィデアホールディングス#情報処理システム参照
チャネル系システム
CI及びキャラクター1993年4月1日の合併時にCIを導入。シンボルマークやロゴのデザインを始めとした VIシステムおよび通帳や名刺などのアプリケーションの開発デザイナーは末広峰治デザイン室(現・パワーデザイン)の末広峰治。シンボルマークの中心の大きな正円は自然の宝庫である秋田の豊かな大地、また大地に根付いた地域の金融機関でありたいという願いを。 周りの6つの楕円は東北6県と移り変わる東北の四季を、また価値の増大と、今後変わりゆく時代環境に順応していく同行の姿を表すとしている。 また、合併後の1995年(平成7年)2月には、デザイナーである片岡文広がデザインした秋田犬をモチーフとするオリジナルキャラクターが発表された[151][注釈 6]。同年3月1日から15日まで愛称を公募し、選考の結果「ほっくん」に決まった[151]。 脚注注釈
出典
参考文献
関連項目
外部リンク |