下大久保(しもおおくぼ)は、埼玉県さいたま市桜区の大字。荒川河川敷周辺に飛地がある。郵便番号は338-0825[2]。
地理
さいたま市桜区西部の沖積平野(荒川低地)に位置し、秋ヶ瀬公園周辺に入会地由来の三つの飛び地がある。また、桜区の荒川河川敷は北から南まですべてが大字下大久保となっており、同川を隔てて(上流側から)富士見市、志木市、朝霞市の3市(さいたま市成立前は4市)に隣接している。更に、旧大宮市である西区にも隣接しており、さいたま市成立前は4市に隣接していた。
埼玉大学西側付近には旧入間川の流路があった名残の自然堤防上に本村遺跡があり、弥生時代から古墳時代後期の土器や住居跡が多数発見された。地内には大久保古墳群に属する古墳後期の金剛塚古墳[4]もある。鴨川が流れ、水田の残るのどかな地域である。東部を道の下排水路が流れる(暗渠が多い)。北西部の境界を鴨川の旧流路である千貫樋排水路が東西に流れる。渋滞が多発している下大久保交差点から道場方面への県道57号は都市計画道路大谷場高木線の予定路線でもあり、今後片側二車線の道路に拡幅される。 鴨川に架かる諏訪前橋には橋脚が用意されており、開通すれば渋滞緩和に効果があるとされている。
羽根倉橋のたもとの羽根倉の渡しや羽根倉河岸があった場所には羽根倉古戦場跡があり、観応の擾乱の羽根倉合戦があった場所である。足利尊氏方の高麗経澄が直義方の難波田九朗三郎以下を討ち取った。
歴史
もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡植田谷領に属する大窪村であった[4]。元禄年間に上大久保村と下大久保村に分村された[4]。入会地に飛地を領していた。村高は『元禄郷帳』では412石余、『天保郷帳』では489石余。化政期の戸数は80軒で、村の規模は東西12、13町、南北8、9町であった[4]。
世帯数と人口
2017年(平成29年)9月1日時点の世帯数と人口は、以下のとおりである[1]。
大字 |
世帯数 |
人口
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下大久保
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2,494世帯
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4,432人
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小・中学校の学区
市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下のとおりとなる[13]。
交通
鉄道
地内に鉄道路線は通っていない。最寄り駅は武蔵野線の西浦和駅または埼京線の南与野駅であるが、徒歩圏内ではない。路線バスが最寄り駅、北朝霞駅(武蔵野線)、浦和駅(京浜東北線ほか)、北浦和駅(京浜東北線)、志木駅(東武東上線)を往来している。
バス
道路
施設
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク