サラエヴォ [ 3] [ 4] [ 5] (ボスニア語 :Sarajevo [sǎrajeʋo] ( 音声ファイル ) 、クロアチア語 :Sarajevo 、セルビア語 :Сарајево )は、ボスニア・ヘルツェゴビナ の首都 。同国の構成体のひとつであるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦 の首都でもある。ボスニア・ヘルツェゴビナで最多の人口をもつ都市。
日本語表記においては、一般に「サラエボ 」[ 6] や「サライェヴォ 」[ 7] などの表記も多く見られる(以下、本項では「サラエヴォ」とする。呼称と表記 も参照 )。
概要
2011年8月の推計では、ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエヴォ県 に属する4つの自治体の人口は併せて311,161人である。サラエヴォはまた、サラエヴォ県 の県都でもある。サラエヴォはボスニア 地方のサラエヴォ渓谷のなかにあり、ディナール・アルプス に取り囲まれ、ミリャツカ川 周辺に広がっている。サラエヴォの町は宗教的な多様性で知られており、イスラム教 、正教会 、カトリック教会 、ユダヤ教 が何世紀にもわたって共存してきた[ 8] 。旅行ガイドブックのロンリープラネット では、「世界の都市」ランキングにおいてサラエヴォを43位にランクしている。これは、同じ旧ユーゴスラビア諸国の観光都市であるドゥブロヴニク の59位、リュブリャナ の84位、ブレッド の90位、ベオグラード の113位、ザグレブ の135位を上回る[ 9] 。
サラエヴォに隣接して、ボスニア・ヘルツェゴビナの構成体のひとつであるスルプスカ共和国 の首都であるイストチノ・サラエヴォ (東サラエヴォ)がある。現在のイストチノ・サラエヴォの市域には、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 前のサラエヴォの市域の一部が含まれている。
この地域に人が居住を始めたのは先史時代 にまでさかのぼるものの、現代のサラエヴォにつながる町ができたのは15世紀 のオスマン帝国 の統治下でのことであった[ 10] 。オーストリア=ハンガリー帝国 に併合されたのちもボスニア の州都と位置付けられたサラエヴォは、近代以降の何度かにわたって国際的な注目を受けることになった。1914年 にはこの地はオーストリア帝位継承者の暗殺事件 の現場となり、この事件によって第一次世界大戦 が引き起こされた。1984年 にはサラエヴォで1984年冬季オリンピック が開催され、さらに後のユーゴスラビア崩壊 のときには、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 において数年間にわたるセルビア人勢力による包囲 を受けた。現在のサラエヴォは紛争後の復興開発が進み、21世紀初頭において紛争前の水準を回復しつつある。サラエヴォは、ボスニア・ヘルツェゴビナの経済・文化活動の拠点となっている[ 11] 。サラエヴォはヨーロッパ で初めて、そして全世界で2番目に早く終日(朝から夜まで)運行の路面電車 が運行された町である[ * 1] 。
呼称と表記
町はボスニア・ヘルツェゴビナの3つの公用語・ボスニア語、セルビア語、クロアチア語でサラエヴォ (Sarajevo / Сарајево ) と呼ばれる。また、トルコ語ではサライボスナ (Saraybosna ) と呼ばれている。サラエヴォの呼称は、トルコ語で「宮殿」を意味する「サライ 」(Saray ) を語源としており[ 12] 、この街がオスマン帝国 支配下にあったころから重要な都市であることを示唆している。日本語においては、「サラエヴォ 」という表記 の他にも、「サラェヴォ 」、「サライェヴォ 」(原音ベース)、「サライエヴォ 」、「サラエボ 」(簡略化)、「サラェボ 」、「サライェボ 」、「サライエボ 」[ 13] といった表記も見られる。
地理
サラエヴォの衛星写真
サラエヴォの地形
サラエヴォは、三角形をしたボスニア・ヘルツェゴビナの幾何学的中心に近く、北緯43度52分0秒 東経18度25分0秒 / 北緯43.86667度 東経18.41667度 / 43.86667; 18.41667 に位置している。サラエヴォはサラエヴォ渓谷の中にあり、ディナール山脈 に取り囲まれている。渓谷は大規模に緑に覆われていたものの、第二次世界大戦 後の開発と都市拡大の中で失われていった。サラエヴォの町は濃厚な森林に覆われた丘陵地と5つの山に囲まれている。周囲を囲んでいる山々の頂上はそれぞれ、トレスカヴィツァ山 の標高2088メートル、ビェラシュニツァ山 の標高2067メートル、ヤホリナ山 の標高1913メートル、トレベヴィチ山 の標高1627メートル、最も低いイグマン山 で標高1502メートルとなっている。これらの山々のうち、トレスカヴィツァを除く4つは1984年冬季オリンピック の会場となった。サラエヴォの平均標高は500メートル程度である。町は丘陵地帯の中にあり、勾配の急な斜面の通りや、高い丘に立ち並ぶ住宅などにその特徴を見ることができる。
ミリャツカ川 は町の重要な地理的特徴となっている。川は町の東から流れ込み、町の中央を通って西へと抜け、ボスナ川 へと合流している。ミリャツカ川は「サラエヴォの川」であり、その源流はサラエヴォの東数キロメートル先にあるパレ にある。ボスナ川の源泉、ヴレロ・ボスネ はサラエヴォ西部のイリジャ の近くにあり、こちらもサラエヴォの重要な地理的特徴となっている。ヴレロ・ボスネは、サラエヴォやその他の地域からの観光客の訪問先ともなっている。その他にも複数の小さな川が町やその郊外を流れている。
町のつくり
ボスニア・ヘルツェゴビナは南東ヨーロッパに位置しており、その首都であるサラエヴォはボスニア・ヘルツェゴビナ の三角形の国土の幾何学的中心に近い。サラエヴォは、サラエヴォ県 に属する4つの基礎自治体(オプシュティナ )、ツェンタル 、ノヴィ・グラード 、ノヴォ・サラエヴォ 、スタリ・グラード からなる。サラエヴォ都市圏にはこのほかにイリジャ 、ヴォゴシュチャ なども含まれる。都市圏面積は141.5平方キロメートルに上る。
また、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争前はサラエヴォの一部をなしていた地域の一部は、紛争後にスルプスカ共和国 に編入され、イストチノ・サラエヴォ の一部となっている。
気候
ケッペンの気候区分 によると、サラエヴォの気候 は西岸海洋性気候 (Cfb)に属する。
北緯43度 の山岳地帯に位置するにもかかわらず、北大西洋海流 の影響により、冬季の気温が高い。低緯度である北緯35度 から北緯40度 に位置する飛騨地方 や長野県 、東北地方 内陸部よりも冬季の平均最低気温が高く、降雪 量も少ない。
大気汚染 が深刻化しており、世界で最も汚染された都市にもランクインしている[ 14] 。
サラエヴォの気候
月
1月
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
年
平均最高気温 °C (°F )
2.7 (36.9)
5.9 (42.6)
10.4 (50.7)
15.1 (59.2)
20.3 (68.5)
23.1 (73.6)
25.5 (77.9)
25.7 (78.3)
22.0 (71.6)
16.5 (61.7)
9.7 (49.5)
3.5 (38.3)
15.03 (59.07)
日平均気温 °C (°F )
−0.9 (30.4)
1.5 (34.7)
5.1 (41.2)
9.4 (48.9)
14.1 (57.4)
17.0 (62.6)
18.9 (66)
18.5 (65.3)
15.1 (59.2)
10.4 (50.7)
5.3 (41.5)
0.3 (32.5)
9.56 (49.2)
平均最低気温 °C (°F )
−4.4 (24.1)
−2.3 (27.9)
0.7 (33.3)
4.4 (39.9)
8.5 (47.3)
11.4 (52.5)
12.8 (55)
12.6 (54.7)
9.7 (49.5)
5.7 (42.3)
1.6 (34.9)
−2.8 (27)
4.83 (40.7)
降水量 mm (inch)
71.4 (2.811)
67.0 (2.638)
70.3 (2.768)
73.6 (2.898)
81.7 (3.217)
91.0 (3.583)
80.2 (3.157)
70.7 (2.783)
70.3 (2.768)
77.3 (3.043)
94.2 (3.709)
84.7 (3.335)
932.4 (36.71)
平均降水日数 (≥1.0 mm)
10
9
10
11
11
11
9
8
8
8
10
11
116
平均月間日照時間
55.8
84.8
127.1
153.0
192.2
207.0
257.3
238.7
186.0
148.8
81.0
40.3
1,772
出典:HKO[ 15]
歴史
サラエヴォ事件 を記念するプレート
古代・中世
サラエヴォ渓谷には、ブトミル文化 が栄えた先史時代にさかのぼる長く豊かな歴史がある。ローマ帝国 に征服される前は、複数のイリュリア人 の集落がこの地域にあった[ 16] 。
ローマ帝国統治時代、町の名前はアクアエ・スルプラエ (Aquae Sulphurae、硫黄温泉)と呼ばれ、現代のサラエヴォの郊外の町イリジャ にあった[ 17] 。ローマ帝国に次いで、7世紀にはゴート族 、次いでスラヴ人 が進入した[ 18] 。町はヴルフ=ボスナ (Vrh-Bosna)と呼ばれ、スラヴ人の城塞 として1263年 から、町がオスマン帝国 に征服される1429年 まで存続した[ 19] 。
近世
1461年 、オスマン帝国のルメリア州 (英語版 ) (1365–1867)のヴルフ=ボスナ(Vrhbosna)に、sr:Скопско крајиште 知事(パシャルク)のイーサ=ベグ・イサコヴィッチ (英語版 ) (Isa-Beg Isaković )は、町を建設してボスニア・サンジャク (セルビア語版 、英語版 ) (1463–1878)を置いた。彼の統治下で、町は大きく発展した。1461年以降、イーサ=ベグ・イサコヴィッチは町の旧市街 の建設を監督し、水の供給システムやモスク 、屋根つきのバザール 、公衆浴場 、知事宮殿なども作られた。町はボスナ・サライ (Bosna-Saraj)と名づけられ、大都市へと成長した。この地方は、トルコ語 で「宮殿のある平地」を意味するサライ・オヴァス(saray ovası )と呼ばれた[ 12] 。
ガジ・フスレヴ=ベグ (Gazi Husrev-beg )は1521年、ボスニア州の2代目の知事に就任し、町で最初の図書館、マドラサ 、スーフィズム の学校、サハト・クラ時計塔(Sahat Kula)などを建設した。1580年 、ボスニア州 (英語版 ) (1580–1867)となる。
1697年 、大トルコ戦争 の間、ハプスブルク君主国 のプリンツ・オイゲン による襲撃によってサラエヴォは制圧され、町には疫病がもたらされるとともに焼き払われた。町は後に再建に向かったものの、完全に復旧されることはなかった。オスマン帝国は1850年 、サラエヴォを重要な行政の拠点としたものの、オーストリア=ハンガリー帝国 に征服され、1878年 にベルリン条約 によって共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ (Condominium of Bosnia and Herzegovina 、1878年 - 1918年 )の統治権はオーストリア=ハンガリー帝国へと移された。ボスニア・ヘルツェゴビナは1908年 にオーストリア=ハンガリー帝国に併合された。町は、路面電車 などの新しい開発をウィーン に導入する前の試験導入に使用された[ 18] [ 20] 。
近代
第一次世界大戦 のきっかけとなったフランツ・フェルディナント大公 とその妻ゾフィー・ホテク に対する暗殺事件 は1914年 6月28日 に、ボスニア 出身のボスニア系セルビア人 (ボスニア語版 ) の民族主義者ガヴリロ・プリンツィプ によって、サラエヴォにて引き起こされた。戦争に突入すると、バルカン半島での攻勢の多くはベオグラード 周辺で起き、サラエヴォは戦時中、大規模な破壊を免れた。第一次世界大戦が終わると、バルカン半島西部はユーゴスラビア王国 のもとに統合され、サラエヴォはドリナ州 (英語版 ) (1929–1941)の州都となった。
1939年 にユーゴスラビア王国 はクロアチア自治州 (セルビア・クロアチア語版 、英語版 ) を作っていたが、1941年4月1日のウスタシャ によるザグレブの蜂起でクロアチア独立国 (1941–1945)建国宣言が発され、サラエヴォを含むボスニア・ヘルツェゴビナの領土は、クロアチア独立国の領土に編入された。1941年 4月8日 、ナチス・ドイツ はユーゴスラビアに侵攻 し、サラエヴォを爆撃した。この時、およそ10,500人のユダヤ人、ならびにロマ 、正教徒のセルビア人 が居住していた。
ヨシップ・ブロズ・チトー に率いられたパルチザン による抵抗によって、1945年 4月6日 にサラエヴォはナチスによる占領から解放された。その後、サラエヴォは急速に発展し、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国 における地域の産業の拠点となった。1945年 の都市一般開発計画の一部として、サラエヴォ西部にて現代へと続く町の区画が策定され、サラエヴォの都市域が拡大された。サラエヴォの成長がピークを迎えたのは1980年代 の初期の、サラエヴォで冬季オリンピック が開催されたときであった[ 21] 。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 におけるサラエヴォ包囲 は、現代の戦争の中で最も長期にわたる都市包囲であった。包囲していたのはセルビア人勢力(スルプスカ共和国 )のスルプスカ共和国軍 (VRS) と、ユーゴスラビア人民軍 (JNA) であり、1992年4月5日から1996年2月29日まで続いた。
サラエヴォ包囲は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 の間に発生した都市包囲であり、ユーゴスラビアからの独立を宣言し、新しく組織されたばかりのボスニア・ヘルツェゴビナ 政府の軍(ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍 ; ARBiH)に対して、ボスニアのセルビア人 の武装勢力(スルプスカ共和国軍)は丘の上に陣取ってサラエヴォを包囲した。セルビア人勢力は、新たに独立したばかりのボスニア・ヘルツェゴビナへの参加を拒否し、セルビア人による国家・スルプスカ共和国 の樹立を目指していた[ 22] 。
その結果として、大規模な破壊と人的な被害を生み出した。包囲戦の過程で、12,000人以上が殺害され、50,000人以上が負傷したものと推測されている。死傷者の85%は軍人ではない市民であった。多くの市民が殺害されたり、移住を余儀なくされたことにより、1995年 の時点での人口は紛争前の64%に相当する334,663人にまで減っていた[ 23] 。多くの市民が包囲された町から地下トンネル等を使って脱出した。また、サラエヴォのセルビア人市民の中には、セルビア人勢力支配地域へ逃げ込む者もいた[ 22] 。他方で、セルビア人勢力の占領下となった地域では、ボシュニャク人 (ムスリム人 )を主体とする非セルビア人の市民が殺害されたり、強制的に追放されるといった民族浄化 が行われた[ 22] 。
2003年 1月、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷 の法廷では、スルプスカ共和国軍のサラエヴォ=ロマニヤ軍団の第一司令官であったスタニスラヴ・ガリッチ(Stanislav Galić )は、サラエヴォに対する包囲と恐怖狙撃によって、人道に対する罪 の罪を認定され、終身刑を言い渡された[ 24] 。罪状の中には、第1次マルカレ虐殺 での罪も含まれていた[ 25] 。2007年 、ガリッチに代わってサラエヴォ=ロマニヤ軍団の指揮官となったセルビア人の将軍、ドラゴミル・ミロシェヴィッチ (Dragomir Milošević )は、第2次マルカレ虐殺 を含む、サラエヴォの包囲と市民への恐怖狙撃によって有罪を認定され、懲役33年を言い渡された。法廷では、マルカレ市場は1995年 8月28日 に、サラエヴォ=ロマニヤ軍団の地点から120mm迫撃砲弾で砲撃されたものと認定された[ 26] 。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争終結後
サラエヴォの復興開発はデイトン合意 が結ばれた1995年 11月以降に始まった。
2003年 の時点で、町のほとんどの部分は再興されるか再開発され、紛争による目に見える破壊された建物の痕跡は町の中心ではわずかとなった。第二次世界大戦 時に使用された砲弾筒が発掘され、サラエヴォにて洗浄・装飾され、工芸品として売られている。現代的なオフィス・ビルディングや高層建築物が各地で建設されている[ 27] 。
政治
サラエヴォを構成するサラエヴォ県内のツェンタル、ノヴィ・グラード、ノヴォ・サラエヴォ、スタリ・グラードの4つの自治体
サラエヴォはボスニア・ヘルツェゴビナ の首都である。また、ボスニア・ヘルツェゴビナを構成する2つの構成体(エンティティ)のうちの1つであるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦 の首都でもあり、またサラエヴォ県 の県都でもある(イストチノ・サラエヴォ )。また、ボスニア・ヘルツェゴビナのもう1つの構成体であるスルプスカ共和国 の法律上の首都でもある(スルプスカ共和国の事実上の首都はバニャ・ルカ である)。国家、構成体、県はそれぞれ独自の議会と裁判所をサラエヴォの町の中に持っている。これに加えて、多くの外国の在外公館 がサラエヴォに置かれている。
サラエヴォは4つの基礎自治体(オプシュティナ )からなっており、それぞれの自治体は独自の自治体政府を持っている。4つの自治体はまた、合同で独自の憲法を持ったサラエヴォ市政府を構成している。サラエヴォの行政府 (Gradska Uprava ) は1人の市長と2人の副市長、そして内閣によって構成されている。立法府は市議会 (Gradsko Vijeće ) である。市議会には28人のメンバーがいて、うち1人の議長、2人の副議長、1人の書記官を含む。議員はそれぞれの自治体から、概ね人口比率に従って選出される。市政府にはまた司法府もあり、ボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表 の「上級司法検察委員会」で定められた紛争後の法体系に基づいている[ 28] 。
サラエヴォを構成する基礎自治体は、更に地域共同体 (Mjesne zajednice ) に分かれている。地域共同体はサラエヴォの行政のごく一部を担っており、一般市民が市の行政に参加する機会を持たせることをその主目的としている。地域共同体は街の街区を基盤としている。
ボスニア・ヘルツェゴビナ の議会はサラエヴォにおかれており、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 において大きな損害を受けている。その損害の影響で、業務を遂行するために、人員や文書は付近にある地上階のオフィスに移動された。議会の復興は2006年末に始められ、2007年に完了した。復興費用の80%はギリシャ・バルカン復興プログラム(ESOAV)を通してギリシャ政府から拠出され、20%はボスニア・ヘルツェゴビナ政府が負担した。
経済
ガジ・フスレヴ=ベグ(Gazi Husrev-beg )の墓。
サラエヴォ・ビール醸造所(Sarajevska Pivara)
紛争後の年月がたつと、サラエヴォの経済は復興・回復プログラムの対象となった[ 29] 。サラエヴォの経済拠点のうち、ボスニア・ヘルツェゴビナ中央銀行 は1997年にサラエヴォで開業し、サラエヴォ証券取引所 は2002年に取引を開始した。サラエヴォの重要な生産、行政、観光産業は、巨大な地下経済 に結びついている[ 30] 。サラエヴォはボスニア・ヘルツェゴビナで最大の経済活動の拠点となっている。
共産主義時代、サラエヴォは重要な産業の中心地であった。紛争後のサラエヴォの生産業には、タバコ、家具、衣類、自動車、通信機器などがある[ 18] 。サラエヴォに本社を置く会社には、B&H航空 、BHテレコム(BH Telecom )、ボスマル(Bosmal City Center )、ボスナリイェク(Bosnalijek )、エネルゴペトロル(Energopetrol )、サラエヴォ・タバコ製造(Sarajevo Tobacco Factory )、サラエヴォ・ビール醸造所(Sarajevska Pivara )などがある。これらはいずれも、ボスニア・ヘルツェゴビナで業界最大手の企業である。ユーゴスラビア時代の1981年当時、サラエヴォのGDPはユーゴスラビア平均の133%であった。[ 31] 2011年現在、サラエヴォのGDPはボスニア・ヘルツェゴビナ中央銀行によるとおよそ167億6000万ドルのボスニア・ヘルツェゴビナのGDP の37%を占めている。[ 32]
また、観光もサラエヴォの経済において重要な産業となっている。サラエヴォの観光客数は2011年には256,628人を記録し、2010年との比較では10.8%伸びており延べ宿泊日数は504,929日でこちらは2010年との比較では12.9%の伸びであった。ボスニア・ヘルツェゴビナ国内からの観光客が20.3%を占め、国外からの観光客が79.7%を占めている。国外からの観光客のうち、一番大きな割合を占めるのはクロアチアからの観光客で17.9%を占め、次いでトルコが12.3%、スロベニアが7.4%、セルビアが5.5%、ドイツが4.4%であった。アメリカやイギリスからの観光客数も大きく伸びている。[ 33] [ 34]
観光
サラエヴォは前述の通り観光産業が盛んである。2006年のロンリープラネット の「世界の都市」ランキングでは、43位にランクインしている[ 35] 。
スポーツ関連の観光産業では、かつての1984年サラエボオリンピック の設備、特に、付近のビイェラシュニツァ山 、イグマン山 、ヤホリナ山 、トレベヴィチ山 、トレスカヴィツァ山 のスキー施設を用いている。
サラエヴォの歴史や文化は、東西それぞれの帝国の影響を強く受けており、サラエヴォ観光の魅力となっている。サラエヴォは数世紀にわたって旅行者を受け入れ続けている。これは、サラエヴォがオスマン帝国 とオーストリア=ハンガリー帝国 の交易の拠点であったことによる。
サラエヴォの観光のみどころの一例を挙げれば、ボスナ川の源泉があるヴレロ・ボスネ 公園、カトリック教会のイエスの聖心大聖堂 、ガジ・フスレヴ=ベグ・モスク (Gazi Husrev-beg's Mosque )などがある。サラエヴォの観光産業は主に歴史的、宗教的、そして文化的な要素に基づくものである。
ガジ・フスレヴ=ベグ・バザール
屋根のついたバザール
ガジ・フスレヴ=ベグ・バザール(Gazi Husrev-begov bezistan )は、1542年 から1543年 にかけてガジ・フスレヴ=ベグによって建設された、屋根で覆われた市場である[ 36] 。設計に携わったのはラグーサ の職人たちである。長さ109メートルにわたって、50を超える店舗が立ち並んでいる。
ガジ・フスレヴ=ベグ・モスク
ガジ・フスレヴ=ベグ・モスクは、ガジ・フスレヴ=ベグ (Gazi Husrev-beg )によって1531年 に建てられたモスクであり、美しいオスマン建築 の建築物である
[ 36] 。モスクを設計したのはミマール・スィナン であり、スィナンはヴィシェグラード のソコルル・メフメト・パシャ橋 や、イスタンブール のスレイマニエ・モスク を設計した人物である。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のとき、モスクはボシュニャク人の象徴として攻撃対象とされ、サラエヴォ包囲 ではガジ・フスレヴ=ベグ・モスクも大きく損傷を受けた。紛争終結後の1996年 から修復が始まった。しかしながら、このときの修復資金にはサウジアラビア からのものが多く、修復に際してはワッハーブ派 の影響を受けた。修復後のモスクからは色彩や装飾的な要素は取り払われ、白を基調とした質素なつくりとなった[ 37] 。2000年 から、モスクを紛争前の姿に戻すための、完全な修復の作業が始まった。単に「ベグのモスク」(Begova džamija)とも通称される。
バシュチャルシヤ
バシュチャルシヤの様子。左に写っているのはセビリ
バシュチャルシヤの町並み。中央はブルサ・バザール
バシュチャルシヤにあるレストラン
サラエヴォの名物料理の一つであるチェヴァプチチ
バシュチャルシヤ は、サラエヴォの旧市街 のメイン・ストリートで、16世紀 にアラブ のスークをモデルに建造された商業地区であった[ 36] 。バシュチャルシヤでは金属細工や陶磁器、宝石などが売買されていた。バシュチャルシヤには、1551年 にルステン・パシャ(Rustem pasha)によって建てられたドーム状の屋根がついたブルサ・バザール (Brusa bezistan )もある。ここでは、トルコのブルサ から持ち込まれた絹製品が売られていた[ 36] 。また、1891年 に建てられ、サラエヴォの代表的なシンボルとなっているセビリ (Sebilj )は独特の形状をした水汲み場で、バシュチャルシヤの中央に位置している。その名前は、アラビア語で「道」を意味する「Sebil」に由来している[ 36] 。
ラテン橋
ラテン橋。サラエヴォ暗殺事件 の現場。
ラテン橋 は、オーストリア=ハンガリー帝国の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公 夫妻が、ガヴリロ・プリンツィプ に殺害された(そのため一時プリンツィプ橋と呼ばれた)、サラエヴォ事件 の現場となった橋である。かつて木造だった橋は水害によって破壊され、1798年 に再建された[ 36] 。1914年 、この橋の北で、大公夫妻が暗殺され、第一次世界大戦 のきっかけとなった。橋はユーゴスラビアの愛国主義を記念し、プリンツィプ橋と改称されたが、ユーゴスラビア崩壊後にその呼称はかつてのラテン橋に戻された。
セルビア正教会の大聖堂
セルビア正教会 の生神女誕生大聖堂
サラエヴォのセルビア正教会 の大聖堂 は、正式名称を「生神女誕生大聖堂 」と言い、生神女 (聖母マリア )の誕生を記念する大聖堂である。サラエヴォの正教徒 のために1863年 から1868年 にかけて建造された[ 36] 。聖堂は3つのバシリカ と、十字架 を備えた5つのドーム を有している。
カトリック教会の大聖堂
サラエヴォのカトリック教会 の大聖堂は、正式名称を「イエスの聖心大聖堂 」といい、ボスニア・ヘルツェゴビナで最大のカトリックの大聖堂であり、イエス・キリスト の聖心 を記念するものである。1884年 から1889年 にかけて建造された、ゴシック風 の建築である。その入り口の上の窓のデザインは、サラエヴォ県 の県旗や県象に描かれ、またロマネスク 風の2本の塔はサラエヴォの市旗や市章に描かれている。
イナト・クチャ
オーストリア=ハンガリー帝国 がサラエヴォを含むボスニア・ヘルツェゴビナ を支配していた時代の1914年 、帝国はサラエヴォの旧市街に市役所と図書館のための土地を求めた[ 38] 。その予定地には2つのハマム とともに1つの家があり、その所有者に売却を求めたものの、所有者はそれを拒み続けた[ 36] [ 38] 。帝国当局が所有者を脅迫するに至り、ようやくその所有者はその土地を立ち退き、当局への遺恨の意思を示すため、家を解体して一片一片移動させ、ミリャツカ川 の対岸に家を再建した[ 38] 。この家は、「遺恨の家」を意味する「イナト・クチャ 」(Inat kuća )の名でレストランとして営業されている[ 38] 。
アリ=パシャ・モスク
アリ=パシャ・モスク は、ハディム・アリ=パシャ(Hadim Ali-pasha)の遺言に基づき、アリの遺産によって1560年 から1561年 にかけて建造されたモスクである[ 36] 。アリは自らの遺産を使って、自分の墓の隣にモスクを建てることを望んでいた。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では大きく損害を受けたものの、終戦後は段階的に修復作業が進められている。
人口動態
著名な個人については「サラエヴォ出身の人物 」節を参照のこと。
ボスニア の民族衣装 を身に着けた、19世紀末のサラエヴォの若い女性/袋のように膨らんだズボン "dimije " を穿いている。1890年 頃と1900年 頃の間にスタジオ撮影された観光カタログ用写真。モノクロ写真のネガフィルム から版を起こして多色刷で彩色したフォトクローム (英語版 ) の印刷物。
ボスニア・ヘルツェゴビナにおける公式な国勢調査 は1991年 以降、2008年にいたるまで行われていない。1991年の国勢調査では、サラエヴォ周辺の10の自治体の人口は527,049人を数えた。サラエヴォの都市圏の人口は416,497人であった[ 39] 。サラエヴォを含むボスニア・ヘルツェゴビナでは、戦争によって大規模に人口が流動し、その多くが2008年の時点でいまだに帰還できていない。
その後2008年にいたるまで、サラエヴォの人口は正確には把握されておらず、国際連合統計局(United Nations Statistics Division )や、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦・連邦統計局、そして非営利団体 による推計があるのみである。
2011年の時点で、サラエヴォの4自治体の人口は合計で311,161人と推計され、この4自治体を含むサラエヴォ県 の人口は438,757人と推計されている[ 1] 1,276.9平方キロメートルの面積を持つ、サラエヴォの人口密度は2,202.9人/平方キロメートルであるとみられる。サラエヴォの4自治体のなかで最も人口密度が高いのはノヴォ・サラエヴォ であり、その人口密度は7524人/平方キロメートルである。一方、サラエヴォの4自治体のなかで最も人口密度が低いのはスタリ・グラード であり、2742人/平方キロメートルである[ 40]
紛争によって大規模に街の民族的・宗教的な特徴は塗り替えられた。サラエヴォは何世紀にもわたって多文化都市であり[ 41] 、「ヨーロッパのエルサレム 」と呼ばれることもあった[ 42] 。紛争直前の1991年 の時点で、ボシュニャク人 はサラエヴォの人口の49%を占め、次いで、主に正教会 に属するセルビア人 が34 %、主にカトリック教会 に属するクロアチア人 が7%であった。
通信とメディア
ボスニア・ヘルツェゴビナ の首都として、サラエヴォはボスニア・ヘルツェゴビナの多くのニュース・メディアが拠点としている。通信と放送の設備のほとんどは紛争によって破壊されたものの、終戦後にボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表局による支援のもとで復興された[ 43] 。たとえば、サラエヴォでは、インターネットは1995年に初めて使用可能となった[ 44] 。
オスロボジェニェ(Oslobođenje 、「解放」)は1943年 に創設され、紛争後のサラエヴォで運営期間が最も長く、紛争を生き延びることのできた唯一の新聞であった。しかし、発行部数では1995年 創刊のドネヴニ・アヴァズ(Dnevni Avaz 、日刊「声」)や、ユタルニェ・ノヴィネ(Jutarnje Novine、「朝のニュース」)に追い越された[ 45] 。その他に地元で定期的に発行される新聞としては、クロアチア語の新聞フルヴァツカ・リイェチ(Hrvatska riječ )や、ボスニア語のスタルト(Start )、週刊誌のスロボダナ・ボスナ(Slobodna Bosna、「ボスニア解放」)、BHダニ(BH Dani「BHの日々」)などがある。ノヴィ・プラメン(Novi Plamen )は月刊誌であり、左翼思想を代表している。
ボスニア・ヘルツェゴビナ公共放送サービスは、サラエヴォの公共放送局であり、ボスニア・ヘルツェゴビナの3つある公共放送のうちのひとつである。その他にサラエヴォに本拠地を置く放送局は、NRTV “Studio 99”、NTV Hayat 、Open Broadcast Network、TV Kantona Sarajevo、Televizija Alfaがある。このほかに多くの小規模な独立ラジオ局があり、Radio M、Radio Stari Grad、Studentski eFM Radio[ 46] 、Radio 202、RSGなどがある。Radio Free Europe や、その他の欧米各国の放送も展開されている。
交通輸送
サラエヴォはヨーロッパ で初の終日(朝から夜まで)運行している路面電車 が導入された街である。路面電車はそのあとも時代に合わせて改良が進められている。
サラエヴォは山に囲まれた渓谷に位置しており、街は小さくまとまっている。狭い路地と駐車場の不足によって、街への自動車の進入は制限され、歩行者や自転車にとっては恵まれた環境になっている。街の2つの主要な通りはヨシップ・ブロズ・チトー の名を冠するティトー通りと、東西を結ぶズマイ・オド・ボスネ(ボスニアのドラゴン、Husein Gradaščević )・ハイウェーがある。欧州高速道路のCorridor 5Cは、サラエヴォの街を北はブダペスト 、南はプロチェ (Ploče )へと結んでいる[ 47] 。
路面電車 は1885年 から運行しており、サラエヴォで最古の公共交通機関 である[ 48] 。サラエヴォには7本の路面電車の路線と、5本のトロリーバス の路線があり、また多くのバス路線がある。サラエヴォで主要な鉄道の駅は、街の中北部に位置している。この鉄道駅からは、西にむけて多くの場所に路線が枝分かれしており、街の工業地帯などとも結ばれている。サラエヴォは21世紀にはいり、産業の刷新が進んでおり、多くの高速道路や通りの改修、路面電車の現代化、新しい橋や道路の建設が進められている。
サラエヴォ国際空港 、あるいはブトミル空港(Butmir)はサラエヴォの街から南西に数キロメートルのところに位置している。紛争中、空港は国際連合 と人道的支援のために使用された。1996年 にデイトン合意 が結ばれてからは、空港は民間による使用を受け入れている。2006年 、534,000人の旅客がサラエヴォ空港を利用した。その10年前の1996年、旅客の利用はわずかに25,000人であった[ 49] 。
文化
ボスニア・ヘルツェゴビナ国立博物館
サラエヴォは多くの異なる宗教が共存してきており、街の文化を多様なものとしている。ボスニアのムスリム 、正教徒、カトリック教徒、ユダヤ人は互いに同じ街に住みながら、それぞれ独自のアイデンティティを維持し続けてきた。しかし、紛争後はムスリムの人口比率が高まった。紛争後の年月が経過するにつれ、すこしずつ街を去った人々の帰還も進んでいる。また、東アジア からの移民も増加している。
サラエヴォには多くの博物館がある。その中には、サラエヴォ博物館、アルス・アエヴィ現代美術館(Ars Aevi )、ボスニア・ヘルツェゴビナ博物館 (en 、1988年に開設され、サラエヴォ・ハッガーダー (Sarajevo Haggadah )を所有)、ボスニア・ヘルツェゴビナ歴史博物館、ボスニア・ヘルツェゴビナ文学・芸術博物館などがある。
サラエヴォには、1919年に設立されたボスニア・ヘルツェゴビナ国立劇場もある。また、サラエヴォ青年劇場もある。その他の文化的施設としては、サラエヴォ文化センター、サラエヴォ市図書館、ボスニア・ヘルツェゴビナ・アート・ギャラリーなどがある。ボシュニャク協会(Bosniak Institute )は、ボシュニャク人の歴史に焦点をあてた私有の図書館と美術コレクションである。
紛争に関連する破壊によって[ 50] 、そして復興開発のなかで、複数の施設や文化的・宗教的象徴が失われた。その中には、ガジ・フスレヴ=ベグ図書館や、国立図書館、サラエヴォ・オリエンタル協会、1984年サラエボオリンピック に関する博物館などがあった。その後、各層の政府によって文化財保護の法律と機関が設けられた。サラエヴォで文化的遺産の保護を受け持つ機関となっているのは、ボスニア・ヘルツェゴビナ文化的・歴史的・自然遺産保護協会、およびボスニア・ヘルツェゴビナ国立記念物保存委員会である。
歴史的に、サラエヴォはオスマン帝国 時代、複数のボスニアの詩人や思想家の故地となった。ノーベル賞 受賞者のウラジミール・プレローグ はこの街の出身である。また、アカデミー賞受賞のダニス・タノヴィッチ もサラエヴォ出身である。ノーベル賞受賞のイヴォ・アンドリッチ はその人生の多くをサラエヴォで過ごした。
サラエヴォ映画祭 は1995年に始まり、バルカンで随一の映画祭となった[ 51] [ 52] 。有名なサラエヴォ・ジャズ・フェスティバル(Sarajevo Jazz Festival )や、何週間にもわたって続く地元の文化・音楽・舞踊のショーケース「バシュャルシヤの夜」(Baščaršija Nights )もある[ 51] [ 53] 。
ポップ・ロック・サラエヴォ派 (Sarajevska škola pop-roka、en )は1961年 から1991年 まで発展を続けた音楽である。この種類の音楽は、インデクシ (Indexi )、ビイェロ・ドゥグメ (Bijelo dugme )などのバンドや、シンガー・ソングライターのケマル・モンテノ (Kemal Monteno )らによって始められたものである。この音楽は誕生後1980年代 も続き、プラヴィ・オルケスタル (Plavi orkestar )、ザブラニェノ・プシェニェ (Zabranjeno pušenje )、ツルヴェナ・ヤブカ (Crvena jabuka )などが活躍したものの、1992年の紛争勃発によって潰えた。紛争が終わって初めてサラエヴォでライブをしたバンドは、アイルランド のU2 であった。
催事
サラエヴォで行われる主な催し物としては、サラエヴォ映画祭 とサラエヴォ・ジャズ・フェスティバル (Sarajevo Jazz Festival )が挙げられる。
サラエヴォ映画祭はサラエヴォ中心部の国立劇場で開かれ、世界的に有名な俳優や映画監督、音楽家などがホストを務める[ 51] 。このホストをした人物には、スティーヴ・ブシェミ 、ボノ 、クーリオ 、ジョン・マルコヴィッチ 、ニック・ノルティ 、ダニエル・クレイグ 、ウィレム・デフォー 、アンソニー・ミンゲラ 、カトリン・カートリッジ 、アレクサンダー・ペイン 、ソフィー・オコネドー 、スティーヴン・フリアーズ などが挙げられる。1995年にサラエヴォ映画祭が始まって以来、フェスティバルは多くの人々や有名人らをひきつけ、フェスティバルは国際的な水準へと昇華していった。サラエヴォ映画祭の第1回は紛争の続くサラエヴォで1995年に開かれた。サラエヴォ映画祭では2000年代に入り、バルカン半島 で最大で最も著名な映画祭となった[ 54] 。第13回サラエヴォ映画祭では、ジュリエット・ビノシュ 、ジェレミー・アイアンズ 、スティーヴ・ブシェミ 、マイケル・ムーア が審査員を務めた。
サラエヴォ・ジャズ・フェスティバルは、ホストとしてリチャード・ボナ 、ジョン・バトラー・トリオ 、クリスティーナ・ブランコ (Cristina Branco )、Dhafer Youssef らが参加している。フェスティバルはボスニア文化センター(「主ステージ」)、サラエヴォ青年舞台劇場(「奇妙な果実ステージ」)、ヴォイスカ・フェデラツィイェ会館(Dom Vojske Federacije、「ソロ・ステージ」)、CDS(「グルーヴ・ステージ」)にて開かれている。
スポーツ
アシム・フェルハトヴィッチ・ハセ競技場
サラエヴォは1984年冬季オリンピック の会場となった。ユーゴスラビアはこの時1つのメダルを獲得した。このメダルは銀メダルであり、男子大回転 でユレ・フランコ (Jure Franko )に対して与えられたものであった[ 55] 。多くのオリンピック設備は紛争を耐え抜き、あるいは再建された。それらの中にはゼトラ・オリンピック・ホール (Olympic Hall Zetra )やアシム・フェルハトヴィッチ・ハセ競技場 (Asim Ferhatović Hase Stadium )も含まれる。後にサラエヴォでは南東ヨーロッパ友好大会を共催し、また2009年 のスペシャルオリンピックス 冬季大会会場に選ばれたものの[ 56] 、この計画は中止となった[ 57] [ 58] 。
サッカー はサラエヴォで盛んに行われている。サラエヴォにあるサッカークラブ、「FKサラエヴォ 」と「FKジェリズニチャル・サラエヴォ 」は、共に欧州や世界規模の大会に参加しているクラブである。この他に、「FKオリンピク・サラエヴォ 」、「NK SAŠKナプレダク 」(NK SAŠK Napredak )もある。サッカー以外ではバスケットボールも盛んであり、「KKボスナ 」(KK Bosna Sarajevo )は1979年 のユーロリーグ で優勝を果たした。チェス・クラブ「ボスナ・サラエヴォ」は1980年代からチャンピオン入りするチームとなっている。サラエヴォでは、テニス やキックボクシング などの各種の国際的なスポーツの大会や催し物が開かれてきた。ロック・クライミング も盛んであり、都心部から遠くないところにロック・クライミング用の岩壁があり、ダリヴァ・サラエヴォ国際スピードウェイ(Dariva Sarajevo International Speedway)がある。
教育
ミリャツカ川の岸にあるサラエヴォ芸術アカデミー
サラエヴォでは高等教育は長い歴史を持っている。知られている最初の高等教育は、1531年 にガジ・フスレヴ=ベグ によって設立されたスーフィズム 哲学の学校である。その後数多くの宗教的な学校が設立されてきた。1887年 、オーストリア=ハンガリー帝国の統治下において、シャーリア 法学校は5年間の教育プログラムとなった[ 59] 。1940年代 、サラエヴォ大学 は町で最初の本格的な高等教育の機関として設立された。1950年代 にはいると、学士課程以上の教育も受けられるようになった[ 60] 。紛争によって大きく傷を受けたものの、サラエヴォ大学はその後復興され、40以上の大学と提携を結んでいる。
2005年 の時点で、サラエヴォには46の初等学校(1年-9年)、33の高等学校(10年-13年)があり、これらのうち3つは特別支援学校 である[ 61] 。また、ドルガ・ギムナジヤ(Druga Gimnazija )は国際バカロレア資格 課程の学校である。
サラエヴォにはまた、複数の国際学校もあり、外国系の住民のために供されている。QSIサラエヴォ国際学校や、サラエヴォ・フランス語国際学校などがある。
サラエヴォが登場する作品
ジェラルディン・ブルックス の小説「古書の来歴」もサラエヴォが舞台の一部となっている。
国際関係
姉妹都市
サラエヴォは以下の各都市と姉妹都市提携を結んでいる。[ 62]
友好都市
サラエヴォの友好都市には以下の都市も含まれる。[ 65]
サラエヴォ出身の人物
脚注
Official results from the book: Ethnic composition of Bosnia-Herzegovina population, by municipalities and settlements, 1991. census, Zavod za statistiku Bosne i Hercegovine - Bilten no.234, Sarajevo 1991.
注釈
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関連項目
外部リンク