ガーター勲章(ガーターくんしょう、英: Order of the Garter)は、1348年にエドワード3世によって創始された、イングランドの最高勲章。正式なタイトルは“Most Noble Order of the Garter”(最も高貴なガーター勲章)。グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)の栄典においても騎士団勲章(order)の最高位であるが、全ての勲章・記章の中ではヴィクトリア十字章とジョージ・クロスが上位に位置付けられている。
騎士団勲章は本来、その騎士団の一員になるという意味を持っており、一般に勲章と呼ばれる記章はその団員章である。ガーター騎士団員の称号は男性が“Knight of the Garter”、女性が“Lady of the Garter”で、騎士のポスト・ノミナル・レターズはそれぞれ“KG”および“LG”と表記される。
モットーは“Honi soit qui mal y pense”(悪意を抱く者に災いあれ)で、勲章にもその文字が刻印されている。勲章の大綬の色がブルーであるため、「ブルーリボン」とも呼ばれている。
一般にガーター勲章と呼ばれるものは、以下の物で構成されている[1]。
また特別な物として、歴代の国王や王妃が晩餐会等で佩用する大綬章の正章としてカメオにダイヤモンドを散りばめた物や、チャールズ3世やロイヤルファミリーが同じく晩餐会等で佩用するルビー星章も存在する。ガーターにはブルーの生地に金の刺繍が施され、その中央部にエドワード3世が述べたとされる“Honi soit qui mal y pense”(悪意を抱く者に災いあれ、中世フランス語)の文字が記されている[2]。着用する場合は男性の団員は左ひざに、女性の団員は左腕につける[3]。
黄金の頸飾にはランカスター家の赤バラとヨーク家の白バラを合わせたテューダー・ローズがテューダー朝成立後から使用されている[1]。また、頸飾の先端の記章は白馬に乗って竜を退治する聖ジョージの姿がかたどられている[1]。
正章でアレッサー・ジョージは左肩から右の腰に斜めがけする大綬の結び目の下につり下げられ、ガーターを模した楕円の記章の中に、頸飾の記章と同じく聖ジョージの姿が透かし彫りされている[1]。大綬章が17世紀に制定されたことでガーター勲章は現在の形態を確立した[1]。
また正装用にビロードのマント(ガーター・ローブ)と羽飾り帽子、真紅のフードがあり、これらを着用したうえでガーター、頸飾、星章を佩用するのが騎士団の正装である。大綬章は正装時には付けないのが慣習である[3]。正装はガーター・セレモニーや戴冠式など限られた場面でのみ用いられている[4]。燕尾服のような通常の正装時は、大綬章と星章とガーターを付けるのが一般的だが、状況や個人によって異なる[4]。
星章は他の勲章と同様に左肋に付けるが、大綬章は一般の勲章が右肩から左腰に掛けるのに対し、ガーター勲章は左肩から右腰に掛ける。チャールズ2世が大綬章を制定した直後にはガーター勲章も右肩から左腰に掛けていたが、当時9歳だったチャールズ2世の庶子、初代リッチモンド公チャールズ・レノックスが誤って左肩から右腰に掛けて公式の場に現われたのをきっかけに、チャールズ2世がこれを正式な佩用方法に定めたという[5]。その後、この習慣は他国にも広がり、スコットランドの最高勲章であるシッスル勲章やプロイセンの黒鷲勲章、日本の功一級金鵄勲章等その国の特別な勲章が他の勲章との差別化のために左肩から右腰に掛けられるようになった。
勲章一式は受章者が死亡すると王室へ返還するしきたりであるが、王室の許可を得れば星章や大綬章などは複製を自費で作成して所有することができ、遺族がそれを相続することも出来る[4]。従って、ガーター勲章の実物が市場に出回ることは有り得ない筈であるが、外国の君主等に対して授与された勲章の中には、革命やクーデターのような政変による混乱により流出し、回収できなかったものが存在するとも言われている[6]。1976年(昭和51年)、その真正品とされるものが日本の百貨店によって売り出されて問題になった[7]。英国王室からの抗議で販売は中止され、当該勲章の真贋を含め、そのような事態になった経緯について調査が行なわれた[8]。
1948年以来、6月にウィンザー城で行われる例会は、ガーターセレモニー(Garter Ceremony)、またガーター・サーヴィス(Garter Service)と呼ばれている。その年に新たに叙任される勲爵士があれば、ウィンザー城の「玉座の間」において叙任式が開かれる[9][10]。儀式には紋章院総裁たるノーフォーク公以下の紋章官たちも出席し、ガーター主席紋章官(Garter Principal King of Arms)が中心となって行事は行われる[11]。
新たに勲爵士となる者は、既に勲爵士となっている2名から紹介を受けるのが慣例となっている。例えば、1954年にアンソニー・イーデン外相(当時。翌年に首相)が叙された際にはウィンストン・チャーチル首相(当時。1953年叙勲)と初代モントゴメリー子爵バーナード・モントゴメリー(1946年叙勲)が、1992年に元首相のエドワード・ヒースが叙された際には第6代キャリントン男爵ピーター・キャリントン(1985年叙勲。元外相)とキャラハン男爵ジェームズ・キャラハン(1987年叙勲。元首相)がそれぞれ紹介役をつとめた[12]。
叙任式ではまず、ガーター主席紋章官とアッシャーが騎士団員を連れて「玉座の間」に入る[10]。続いて、新勲爵士が2名の騎士に伴われて「玉座の間」に入室する[10]。新勲爵士は君主の前に歩み出て、君主から小姓に渡されたガーターを小姓が勲爵士の左膝(女性の場合は左腕)に着け、次いで君主自ら大綬章を掛け、星章を左胸に着ける。そして紹介者がガーターローブをかぶせ、最後に頸飾を掛け君主と握手をして正式にガーター勲爵士となる[12]。
叙任式が終わると、正装姿の騎士団員たちが、新しく叙された者を先頭にセント・ジョージ・チャペルまで行進する。隊列は、ウィンザー城代(英語版)を先頭に、「ウィンザー城代、ミリタリー・ナイト・オブ・ウィンザー(英語版)、紋章官、騎士団員、王族、騎士団員役職者、国王とその配偶者、ヨーマン・オブ・ザ・ガード」の順で並ぶ[13]。この行進は公開であり、観光客も見物することができる[14]。
城内の聖ジョージ礼拝堂にはガーター勲爵士のバナーが掲げられ、騎士の世界を象徴するように剣とクレスト(羽根飾り)[注釈 1]を着けたヘルメット、プレートと呼ばれる勲爵士の紋章と名前が刻まれたものが飾られている[16][16]。これらは勲爵士が死去すると翌年の聖ジョージの日(4月23日)に追悼式が行われてプレート以外は取り外される[17]。
死亡以外でも反逆した臣下や敵国となった国の君主は勲爵士の地位を剥奪され、バナーが撤去される。反逆した臣下の剥奪例は古くから存在し、エリザベス朝期には第8代ノーサンバーランド伯爵ヘンリー・パーシー(英語版)や第4代ノーフォーク公爵トマス・ハワードなどの騎士団員がその座を剥奪されている[18]。
20世紀に入り、敵国君主のバナー撤去が行われるようになった(後述)。
ガーター勲章の母体であるガーター騎士団の設立時期については1344年1月にエドワード3世がウィンザーで円卓を使用した饗宴を催した際に「アーサー王と円卓の騎士」の故事に基づいてフランスとの百年戦争への団結を深めたという出来事を発端とする1344年説と、1348年8月にエドワード3世が、自身と長男のエドワード黒太子および24名の騎士によって騎士団を編成し、ウインザー城に召集した出来事を設立と見なす1348年説があるが、近年では1348年説が歴史学者の間で有力視されているという[19][20]。(24名の創立メンバーの騎士はen:Order_of_the_Garter#List_of_Founder_Knights参照)
この騎士団設立の経緯については次の逸話が知られている。エドワード3世が舞踏会でソールズベリー伯爵夫人ジョアン(後のエドワード黒太子妃)とダンスを踊っていたとき、伯爵夫人の靴下止め(ガーター)が外れて落ちたが、これは当時恥ずかしい不作法とされていたので、周囲から嘲笑された。しかしエドワード3世はそれを拾い上げ「悪意を抱く者に災いあれ(Honi soit qui mal y pense)」と言って自分の左足に付けたというものである[21][22][19]。
しかしこの逸話は伝説に過ぎないともいわれ、エドワード3世がフランス王を名乗ることを「悪」と主張する者に対してエドワード3世が「災いあれ」といったのが始まりとする逸話もある[23]。また、聖ジョージ(聖ゲオルギウス)が竜から姫を助けたという伝説にちなみ、リチャード獅子心王が十字軍の時に戦場でガーターを付け、部下にもつけさせた故事からきたとする説もある。エドワード3世は聖ジョージを好み、イングランドの守護聖人とした人物なので、これらからガーター勲章を考案したとも考えられている。
金羊毛騎士団の創設は1429年であり、ガーター騎士団の創設はそれに81年先立っている。ヨーロッパの現存騎士団の中で最古の歴史を誇っている[24]。
創立時よりガーター騎士は王と皇太子を含めて26名であり、最初のメンバーは国王エドワード3世以下の13名とエドワード黒太子以下の13名の2組に分けられていた[25]。その後、16世紀前期にヘンリー8世によってガーター騎士団の儀礼の定式化が進められ、騎士団員は国王と皇太子と24名の勲爵士に限定された。当初国王と皇太子以外の王族は24名の勲爵士と別枠ではなかったが、18世紀後半、ジョージ3世に王子がたくさんあったことから臣民への授与の圧迫を避けるために別枠となった。後述する外国君主への授与も別枠である[26]。
敵国君主の剥奪は第一次世界大戦からはじまった慣習である。大戦で敵方となったドイツ皇帝ヴィルヘルム2世以下ドイツ諸侯やオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世について、戦争の長期化に伴う世論の反発を受けて、1915年5月、ジョージ5世の命によりバナーが撤去された[27][注釈 2]。しかし、将来的な和解への期待から[28]、「プレートは歴史の記録である」と述べて、プレートの撤去は行われなかった[14]。同様に、第二次世界大戦でも敵国となった日本の昭和天皇とイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世のバナーが撤去され、プレートのみが残された。
これらのうち、ドイツ諸侯、オーストリア、イタリアの各国は、戦後、君主制が廃止されたため、二度と復帰することは無かったが、日本においては皇室が存続した状態で英国との国交が復活したため、昭和天皇の騎士団員としての資格が問題になった。昭和天皇がガーター勲章を佩用したのは1929年(昭和4年)に授与された時のみで、戦後しばらくは具体的な問題は発生していなかった。初めて問題となったのは1961年(昭和36年)11月、アレクサンドラ王女訪日の時だった。この時の会談に際して昭和天皇が剥奪されているガーター勲章を佩用できるのかが問題となった。イギリス王室に直接問い合わせたところ、ガーター勲章を佩用することに了解があったので昭和天皇はガーター勲章を佩用してアレクサンドラ王女と会談した。昭和天皇はガーター勲章を剥奪されたのに佩用できるという特殊な状態になり、これはガーター騎士団の長い歴史においても前例がないことだった。これが昭和天皇のガーター勲爵士の地位を復活させる議論が起きるきっかけとなった。その後も1962年(昭和37年)の秩父宮妃訪英、1969年(昭和44年)のマーガレット王女訪日などで日本皇室と英国王室の友好が深まる中、ついに昭和天皇の訪英に先立つ1971年(昭和46年)4月7日に至ってイギリス王室は「剥奪された天皇の名誉を全て回復させる」という宣言を発した[29][30]。これにより昭和天皇は正式にガーター騎士団員の地位を取り戻し、1971年5月22日からセント・ジョージ・チャペルに再び菊花紋章のバナーが掲揚されることになった[31]。一度剥奪されて名誉回復を果たした外国君主は騎士団600年余の歴史の中でも昭和天皇のみである[32]。
当初、女性も女性団員(Lady Companion)として勲爵士になることができたが、ヘンリー8世による定式化により女性君主以外の女性にはガーター勲章は与えられないこととなった。再び君主以外の女性にガーター勲章が授与されるようになるのは20世紀初頭のエドワード7世の時代になってのことである[33]。ただし、女性団員は24名の勲爵士とは別枠で、バナーは掲げられるが、ヘルメットと剣の代わりに王冠が飾られる[34]。また、プレートも飾られない[35]。
第二次世界大戦中の1944年9月、ジョージ6世は英国亡命から帰国するオランダ女王ウィルヘルミナを正式なガーター騎士団員に叙し、史上初めて外国人女性君主にガーター勲章が授与された[36]。この際、女性団員の例にならい、バナーと王冠のみが飾られることとなった。以後、近代以降の女性君主も同様になっている[35]。
ガーター騎士団には5つの役職ポストがある。プレラッテ(Prelate)、チャンセラー(英語版)(Chancellor)、レジスター(Register)、ガーター主席紋章官(英語版)、アッシャー(Usher)の5つである[37]。
現在の役職者
2024年6月現在の外国人保持者は、デンマークのマルグレーテ2世前女王、スウェーデンのカール16世グスタフ国王、スペインのフアン・カルロス1世前国王、オランダのベアトリクス前女王、日本の明仁上皇、ノルウェーのハーラル5世国王、スペインのフェリペ6世国王、オランダのウィレム=アレクサンダー国王、日本の今上天皇の9名であり、明仁上皇、今上天皇以外はヨーロッパのキリスト教徒の君主である[注釈 3]。
ガーター勲章の外国人への叙勲は、原則としてキリスト教徒であるヨーロッパの君主制国家の君主に限られており、ヨーロッパ以外の国の君主や非キリスト教徒の君主に対しては、その国やその君主がイギリスや英国王室と深い友好関係にある場合に限り例外的に贈られている。また、共和制国家の元首に対して贈られた例はない。
かつては国王や女王と血縁関係にある外国貴族、或は皇太子、摂政などにも授与されていたが、1952年にエリザベス2世が女王に即位して以降は君主という条件に関して例外はなく、ヨーロッパの君主制国家の君主でも在位期間が短いと授与されない。そして、これら資格を満たさないとされる外国君主および重要な共和制国家の元首にはロイヤル・ヴィクトリア頸飾が贈られ[42]、外国皇太子にはロイヤル・ヴィクトリア勲章のナイト・グランド・クロス又はデーム・グランド・クロスが贈られる[43]。更に、ロイヤル・ヴィクトリア頸飾の外国君主より格下とされる国の君主や共和制国家の元首には、バス勲章や聖マイケル・聖ジョージ勲章のナイト・グランドクロスがその格に応じて贈られる[44][注釈 4]。
非キリスト教徒への叙勲は1856年に訪英したオスマン帝国皇帝アブデュルメジト1世が最初であり[注釈 5]、アジアでは1873年に訪英したペルシャ皇帝ナーセロッディーン・シャーが最初である[注釈 6]。
日本に対しては、日英同盟の関係から1906年(明治39年)に明治天皇が東アジアの国の元首として初めて贈られた。明治天皇にガーター勲章が贈られたのは外相第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスの推挙による。日露戦争が日本優位に進む中の1905年(明治38年)に日英同盟の更新を決意したランズダウン侯がバルフォア首相の許可も得て、日本との関係を強化する一環として天皇へのガーター勲章授与を国王エドワード7世に上奏した結果、実現した[49]。保守党政権は直後に失脚し、自由党政権に代わったが、1906年の日本への初めてのガーター勲章使節団の7名には、コノート公アーサー・アルバートのほか、アルジャーノン・ミットフォードもマイルズ・ランプソンも含まれていた[50]。
明治天皇以後の歴代天皇も授与されている[51]。大正天皇は1912年(大正元年)、昭和天皇が1929年(昭和4年)にそれぞれ叙勲されたが、第二次世界大戦中は敵国となったため昭和天皇の名前が騎士団の名簿から抹消され、バナーも撤去された。しかし、先述の通り1971年(昭和46年)10月の訪英時に復帰した。明仁上皇も天皇在位中の1998年(平成10年)、イギリス訪問時に叙勲された[52]。今上天皇も2024年(令和6年)6月、国賓として英国を訪問した際に叙勲された[53]。なお、歴代天皇もエドワード7世以降の歴代イギリス君主に対して、日本の最高勲章である大勲位菊花章頸飾を贈与している[54]。
1974年8月27日にキリスト教徒のエチオピア前皇帝ハイレ・セラシエ1世(同年3月に廃位されて幽閉中だった)が崩御した後には、欧州外の外国君主でガーター騎士団に叙されているのは日本の天皇のみである[55]。
臣民の勲爵士は24人までに限定されている。王族や外国君主への授与はこれとは別枠になっている[22][56]。
政治家による乱用防止のため[注釈 7]、1946年以降ガーター勲章とシッスル勲章は、君主自らによって授与されるのが慣例となっている[22]。
枢密院議長(2007年-2008年)
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