谷垣 専一(谷垣 專一、たにがき せんいち、1912年(明治45年)1月18日[1] - 1983年(昭和58年)6月27日)は、日本の政治家。従三位勲一等。文部大臣。妻は陸軍中将影佐禎昭の長女安紀。第24代自由民主党総裁の谷垣禎一は長男。
来歴・人物
京都府福知山市の造り酒屋・谷垣松次郎の五男として生まれた。旧制京都府立福知山中学校、旧制第三高等学校文科甲類を経て[2]、東京帝国大学法学部法律学科を卒業後、1936年、農林省入省(農務局嘱託[3])。要員局運用課長、開拓局管理課長、長野県農地部長、総務局物資調整課長、農地局総務課長、農地局管理部長、農林経済局農業協同組合部長などを経て[4]、1955年10月に大臣官房長、1956年6月に畜産局長となる[5]。
退官後、農林中央金庫監事を務めたが[1]、1960年に芦田均の地盤を引き継いで自由民主党公認で京都2区から第29回衆議院議員総選挙に出馬し当選、吉田茂の流れを汲む宏池会に所属した(当選同期に宇野宗佑・海部俊樹・仮谷忠男・細田吉蔵・小沢辰男・佐々木義武・田沢吉郎・伊藤宗一郎・久保田円次・田川誠一・渋谷直蔵・藤井勝志など)。その後、衆院選には8回の当選を重ねた。この間、建設政務次官、厚生政務次官、自由民主党副幹事長を歴任。1976年の衆院選で落選するも、1979年1月の衆院補選(1978年3月の山田芳治の京都府知事選挙立候補による自動失職と、同年11月の玉置一徳死去に伴う)で復帰。その後文部大臣(第2次大平内閣)となった。
宏池会では宮澤喜一を支える七奉行の一人であった。1983年5月引退を表明し、療養していたが[1]、1983年6月27日、71歳で死去。死没日付をもって従三位に叙され勲一等瑞宝章を追贈された。追悼演説は同年9月20日の衆議院本会議で、永末英一により行われた[6]。
谷垣専一の死去により欠員が2名[注釈 1]となった事から、同年8月7日に京都2区の補欠選挙が実施されることになり、息子である禎一が地盤を継承し自由民主党公認で立候補、当選した[注釈 2]。
家族・親族
- 父・松次郎
- 妻・安紀(1923年2月11日[7] - 1965年、影佐禎昭長女)
- 長男・禎一(1945年 - 、衆議院議員、自由民主党総裁)
- 次男・信行(1950年 - )
選挙歴
脚注
注釈
- ^ 1981年7月に同区選出議員の前尾繁三郎が死去しており、既に欠員が1名生じていた。
- ^ もう一人の当選者は京都府副知事から転出した野中広務で、自由民主党は補選で2議席を独占している。
出典
- ^ a b c 明治~昭和, 新訂 政治家人名事典. “谷垣 専一(タニガキ センイチ)とは”. コトバンク. 2020年2月16日閲覧。
- ^ 「旧制高等学校物語 第3」財界評論社 1965年
- ^ 『日本官僚制総合事典』東京大学出版会、2001年11月発行、317頁
- ^ 『日本の官庁』国土政策研究会、1977年、38頁
- ^ 『議会制度百年史:衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年、349頁
- ^ 第100回 衆議院 本会議 第6号 昭和58年9月20日 - 国会会議録検索システム
- ^ 「人事興信録 第22版 下」
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再編前 |
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再編後 | |
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省庁再編により、文部大臣と科学技術庁長官は文部科学大臣に統合された。テンプレート中の科学技術庁長官は国務大臣としてのもの。
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衆議院地方行政委員長 (1972年) |
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定数5 |
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↓:途中辞職、失職など、↑:補欠選挙で当選。 |