大野 市郎(おおの いちろう、1910年(明治43年)11月25日[1] - 1988年(昭和63年)2月9日[1][2])は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(7期)。
経歴
新潟県長岡市で大野屋旅館主・大野甚松の孫として生まれた[3]。新潟県立長岡中学校[要出典]を経て1932年(昭和7年)兵庫県立神戸高等商業学校卒業[2]。箱根富士屋ホテルに勤めた[3]。
1936年(昭和11年)静岡県熱海市でホテル大野屋を開業した[1]。1940年(昭和15年)父から大野屋本店社長を継承した[2][3]。熱海市会議員を務め[2]、1950年(昭和25)熱海商工会議所会頭に就任した[3]。日本温泉協会会長などの役職も務めた[要出典]。
佐藤栄作の秘書を経て[1]1952年(昭和27年)自由党から第25回衆議院議員総選挙に旧新潟3区から出馬して初当選[4]。以降、何度かの落選を経験しながらも通算当選7回[1][2][3]。この間、第2次岸内閣農林政務次官、衆議院運輸委員長、同地方行政委員長、自民党政調会農林部副部長、同産業組織局中小企業部長、同宣伝局報道部長、同産業局次長、同広報委員会副委員長兼出版局長、同長岡支部長、同新潟県支部連合会会長、同総務、同住宅対策特別委員長、同日中国交正常化協議会副会長などを務めた[1][2][3]。
佐藤派に所属したが[要出典]、田中角栄とは同じ派閥・選挙区だったため、当落を繰り返すなど選挙では毎回苦戦し、入閣も果たせなかった。地元選挙民からの陳情対応でも、獲得票の少なかった市町村出身者を冷たくあしらうなどしたため、田中に票が流れる悪循環を招いた[要出典]。
1972年(昭和47年)に保利茂らと福田派に参じるが[要出典]、1976年(昭和51年)の第34回総選挙で落選し[5]、政界を引退した。1981年(昭和56年)春の叙勲で勲二等旭日重光章受章[6][7]。
1988年(昭和63年)2月9日死去、77歳。死没日をもって正四位に叙される[8]。
親族
- 長男は大野屋社長の大野英市[6]。国際観光旅館連盟副会長、日本温泉協会常務副会長、熱海商工会議所会頭を歴任[9]。2007年11月19日、心臓発作のため死去、67歳[9]。
- 次男は作曲家でミュージシャンの大野雄二。
国政選挙歴
脚注
参考文献
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
- 『長岡歴史事典』長岡市、2004年。
関連項目
議会
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先代 菅太郎
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衆議院地方行政委員長 1974年 - 1972年
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次代 谷垣専一
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先代 内藤隆
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衆議院運輸委員長 1968年
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次代 砂原格
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衆議院地方行政委員長 (1971年-1972年) |
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衆議院運輸委員長 (1968年) |
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