新潟県立長岡高等学校(にいがたけんりつ ながおかこうとうがっこう)は、新潟県長岡市にある高等学校である。略称は長高(ちょうこう)。
長岡地区の高等学校で唯一スーパーサイエンスハイスクール(SSH)に指定されている。校舎の正門は国の登録有形文化財(建造物)に登録されている。
1948年に学制改革により旧制中学校(男子高)から新制高等学校となり、1950年に男女共学となった。現在では理数科の生徒は男子が女子より多いものの、普通科の女子生徒が男子生徒数を上回るため、全体では女子生徒数が男子生徒数より多くなっている(2024年度)。
概要
1872年創立の長岡洋學校を起源とする。越後長岡藩は慶應義塾の三藩として支援していた経過があり、三島億二郎の尽力により、かつてより親交があった福沢諭吉より藤野善蔵(後に慶應義塾塾長)を招聘して開学した。長岡洋学校は城泉太郎(徳島慶應義塾校長[1])、三島徳蔵を校長に迎えるなど、慶應義塾との繋がりが深く淵源としている[2]。そのため長岡藩校を起源とはしていない(参考「慶應義塾史辞典」「福沢諭吉辞典」。校歌も「洋学校の開始より」との歌詞がある)。
明治初期に全国各地に慶應義塾塾生が分校、姉妹校、関係校を作ったが、現存する数少ない学校である(他に現存する学校として「三田予備校・三田洋学校」を源流とする錦城学園高等学校がある)。
その後、私立学校、古志郡立学校、古志郡町村立学校など運営者の変遷、幾多の改称を経て、1948年に現在の名称となった。なお県立となるまで、校長は慶應義塾から招聘されることが多かった。
上級学校への進学に対応した授業カリキュラムが編成されており、1時間あたりの授業時間は55分、月曜日と木曜日に至っては7時間授業の実施となっている[3]。(※木曜日は理数科のみ実施)
中越地域のターミナル駅である長岡駅から程近く、学区制が撤廃された現在は中越地方全域から公共交通機関を利用して通学する生徒が多い。
元々は制服のある学校であったが、1972年の制服撤廃宣言を経て私服校となった[4]。
文武両道を志しており、4年制大学への進学率は国公立大学を中心に通年で高い。
1990年代に理数科が設置されてからしばらくの間は最も学校規模の大きかった時期で、1学年普通科10学級と理数科1学級の計11学級を擁しており、教室の不足を補うために生徒玄関近くにプレハブ2階建ての教室が設置されていた。(2006年撤去)
校歌
- 『新潟県立長岡高等学校第一校歌』(旧制長岡中学時代に制定) - 作詞:本富安四郎・作曲:植村クニ
- 『新潟県立長岡高等学校第二校歌』(創立70周年を記念し、戦前の1941年に制定。終戦後の1951年に作詞者に依頼し歌詞の一部を改訂) - 作詞:堀口大學・作曲:深井史郎
1876年12月1日の長岡学校の開校式に臨んだ新潟県令・永山盛輝による和歌「『長岡中学校の開校を祝て』長岡の文の林に生立る わか木は国のはしらとぞなれ」が、第二校歌の歌詞となっている[5]。
この校歌は起源が同じ長岡市立阪之上小学校の校歌「文の林に生い立てる 若木は国のはしらぞと」と類似している[6]。
応援歌
応援歌は多数あるが、特に「出塞賦(しゅっさいふ)」を唄うことが多い。
その歌詞には「蒼竜」という河井継之助の雅号、「龍啼(りゅうてい)」という河井継之助の愛馬の名前、「柴廟(蒼柴神社のこと)」「兜城下(かぶとじょうか)」などの歌詞から、戊辰戦争の際に、長岡城から出陣する河井継之助と長岡藩士の様子を連想させるものとなっている。
制服
上述のとおり制服は廃止されている。学帽用の帽章、学生服用のボタン(校章入)は販売されている。入学式に校章入りボタンの学生服を着用する生徒は多い。概ね4月中には私服となるため、ほとんどの生徒は入学記念の購入である。一部の体育会系の部活動の生徒では学生服を着用する生徒がいるが、制服が存在しないため学生服であってもあくまでも「私服」であり、学生服を着ていると理由を尋ねられることがある。卒業式は多くの生徒がスーツなどを着用する。かつての女子生徒用の制服は記念資料室に展示されている。
特色
2007年度にコース制導入に伴い理数科を2学級設置とし、2011年度より普通科は6学級設置となった。普通科は2年次より文系・理系に分かれる。
新潟県内の医師不足を懸念する県教育委員会の方針[7][8] により、理数科では2年次から「メディカルコース」と呼ばれる国公立・私立大学の医薬系を目指す専攻コースが設置されている。(同様の動きは県立新潟高校・高田高校・三条高校でもみられる[7][8][9])
理数科のメディカルコースでは長岡市医師会の全面的協力のもと、1年次に5回・2年次に3回、医師と看護師による「医療講演会」を実施しており、1年次の6月 - 8月には病院見学会も実施している[7]。
同科のサイエンスコースでは長岡市内に本部を置く国立長岡技術科学大学と技能連携をし、発展した授業が展開されている[3]。
校則
制服廃止校(自由化ではない)で大学生同様の服装で登校できる、自由な校風であり、原動機付自転車や自動車運転免許も取得可能であり、長期休暇中のアルバイトも可能である(ただし届出制)。しかしA4用紙で2枚程度の「生徒心得」があり、以下のような行為は禁止されている[10]。
- 自動二輪免許の取得
- 原動機付自転車、自動車で通学のための校内への乗入れ、駐車
- 雪の日の自転車での登校
そのほか、スキー授業で使用するスキーを、宅急便などで学校へ送りつけることは出来ない(過去にそのような事例があったため)。
校内での集会開催は許可制であるが、これは他の県施設の庁舎管理規制と同様であり、学校という性質上、他県施設より内容が緩和されている。
同窓会組織
旧制中学卒業生と新制高校卒業生と一緒に開催し、長岡総会、東京同窓会、新潟和同会、関西支部総会など各地、各職域で活発に行われている。東京同窓会では同校卒業生の元日本テレビアナウンサーの松永二三男、櫻井よしこが司会を行っていたこともある。長岡まつり花火大会においては卒業年次の有志で花火を打ち上げるなどの活動を行っている。
設置課程
- 全日制課程
- 全日制課程
- 理数科(設置:1995年度・2学級設置)
- メディカルコース(医歯学系・設置:2007年度)
- サイエンスコース(技術系・設置:2007年度)
廃止された課程
学校行事
- 4月 - 入学式・始業式・新入生オリエンテーション(1年)・遠足
- 5月 - 中間考査
- 6月 - 体育祭・陸上部会(クラス対抗)
- 7月 - 期末考査・第一部会(クラス対抗のスポーツ大会)
- 8月 - 和同祭(文化祭)・理数科研修旅行(2年)
- 10月 - 中間考査、普通科キャリアデザインツアー
- 12月 - 期末考査・第二部会(クラス対抗のスポーツ大会・3年除く)
- 2月 - 学校スキー(3年除く)
- 3月 - 1・2年学年末考査・卒業証書授与式・終業式
※修学旅行は1977年度以降実施されていない(理由は不明)。
生徒会活動
生徒会は「和同会」(わどうかい)と称し、校訓の『和而不同』(わしてどうぜず)を旨としている[3]。本来の論語の意味に加えて「フラタニティ (Fraternity) 」の意味でも説明されている。和同会は井上円了により寄宿生の会として発足している。慶應義塾の影響を受け三田演説会に倣っていた。城泉太郎が教員に赴任した頃、自由民権運動が盛んな時代には、同じく教員だった橋本圭三郎とともに演説会を主催するなどの活動を行っていた。そのため自由民権運動団体の一つと扱われる。卒業生が各地域での同窓会も○○和同会と称しているため、和同会イコール生徒会ではないことに注意を要する。
- 総務(生徒会執行部)
- 会計局
- 書記局
- 新聞編集委員会
- 放送委員会
- 体育祭実行委員会
- 体育行事実行委員会
- 和同祭実行委員会
- 応援団
ギャラリー
沿革
- 1869年5月 - 1871年8月 - 小林虎三郎と三島億二郎等によって国漢学校(現:阪之上小学校の起源)が開設される。国漢学校は洋語・医学・兵などの五つの学校群に分かれ、この洋語の流れを汲むのが長岡洋学校である。国漢学校は廃藩置県によって柏崎学校の分校となり廃止。[11]
- 1872年12月23日(明治5年11月23日) - 三島億二郎等の尽力により、藤野善蔵(後の慶應義塾塾長)を迎えて長岡洋学校として開校する。
- 1873年11月 - 新潟学校第一分校となる。
- 1876年7月14日 - 私立長岡仮学校となる。
- 1876年10月20日 - 生徒・井上円了等、和同会を創設。寄宿寮舎生の演説会から、後に生徒会へと発展。
- 1876年11月 - 町村組合長岡学校となる。
- 1886年5月1日 - 私立長岡学校となる。明治19年6月の文部省令で学校は廃止となるが、明治19年10月に田中春回らが学校私議草案を県に提出し、存続。
- 1892年10月1日 - 古志郡町村立長岡尋常中学校となる。
- 1893年8月26日 - 古志郡立長岡尋常中学校となる。
- 1899年4月1日 - 新潟県古志郡立長岡中学校となる。
- 1900年4月1日 - 新潟県立長岡中学校となる。
- 1948年4月1日 - 学制改革により新潟県立長岡高等学校となる。
- 1948年6月1日 - 定時制開設。中心校・関原分校・来迎寺分校を設置。
- 1950年4月1日 - 男女共学開始、女子生徒7名入学。
- 1955年5月1日 - 三島郡越路町新設により、来迎寺分校を越路分校と改称。
- 1966年 - 本年度高校入試より学区拡張、三島学区と同学区となる。入試教科も9教科→5教科へ変更。
- 1970年3月31日 - 定時制・中心校閉校。
- 1972年3月 - 現在の校舎(普通教室棟・特別教室棟・管理室棟)が竣工する。
- 1972年9月27日 - 和同会総会において生徒会執行部より「制服制度廃止宣言文」が発表され、同日採択される。これに伴い制服が廃止される。[4]
- 1977年度 - 長岡高等学校で年間行事として実施されていた修学旅行がこの年の実施をもって中止になる。
- 1984年3月31日 - 定時制・越路分校閉校。
- 1986年3月31日 - 定時制・関原分校閉校。
- 1995年4月1日 - 理数科を設置。
- 2002年4月1日 -
- 文部科学省より、「スーパーサイエンスハイスクール」(SSH)に指定される。(1期終了 - 2004年度)
- 完全週休2日制導入による授業数削減に対応するため、授業時間が1コマ65分から55分に短縮された。
- 2007年度 - 理数科の学科改変とコース制導入に伴い、2学級設置となる。
- 2011年度 - 普通科を6学級設置とする。
- 2011年10月28日 - 長岡高校正門が国の登録有形文化財(建造物)に登録される。
- 2013年4月1日 - 文部科学省より「スーパーサイエンスハイスクール」に再指定される。(2期終了 - 2017年度)
- 2018年4月1日 - 文部科学省より「スーパーサイエンスハイスクール」に再指定される。(3期)
部活動
著名な出身者
旧制中学校時代の卒業生も含む。
政界・官界・財界
旧軍人・軍関係者
陸軍
海軍
文化・芸術
学術・技術
芸能
マスコミ
スポーツ
その他
教職員
舞台になった作品
- 宙舞(そらん) 小学館・ビッグコミックス
- 本校OBの小林信也が原作、秋重学がイラストを担当している漫画。1巻には、長岡高校の名物である『渡河レース』をモチーフとした徒競走が描かれている。
アクセス
脚注
関連項目
外部リンク
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