親潮(おやしお/おやしほ)は、日本海軍の駆逐艦[1]。
陽炎型駆逐艦4番艦である[2]。艦名は海上自衛隊の潜水艦「おやしお(初代)」、おやしお型「おやしお」に継承された。
艦歴
太平洋戦争前
「親潮」は舞鶴海軍工廠で1938年(昭和13年)3月29日に起工[3]。
1938年(昭和13年)9月20日、日本海軍(米内光政海軍大臣)は舞鶴海軍工廠で建造の本艦を『親潮』、藤永田造船所の陽炎型6番艦を『夏潮』、川崎造船所の陽炎型7番艦を『初風』と命名した[1][4]。
同日附で、各艦(親潮、夏潮、初風、伊号第十八潜水艦、伊号第二十潜水艦、伊号第二十二潜水艦、第十一号掃海艇、第十二号掃海艇)は、それぞれ艦艇類別等級表に登録[5]。
同年11月29日、舞鶴海軍工廠で本艦は進水[3][6]。同日の舞鶴港には、高雄型重巡洋艦2隻(高雄、愛宕)、潜水母艦「長鯨」、駆逐艦「敷波」等が整備・修理中、朝潮型駆逐艦10番艦「霰」と陽炎型駆逐艦1番艦「陽炎」等を建造中だった[7]。
1939年(昭和14年)12月1日、吹雪型駆逐艦6番艦「東雲」艦長金岡国三中佐は親潮艤装員長に任命される(後任の東雲艦長は、叢雲艦長古閑孫太郎少佐)[8]。
12月7日、舞鶴海軍工廠に親潮艤装員事務所を設置、事務を開始する[9]。
1940年(昭和15年)1月27日、藤永田造船所で陽炎型3番艦「黒潮」が竣工[10]、先に完成していた陽炎型8番艦「雪風」(1月20日竣工)と第16駆逐隊を編制する[11][12]。
5月1日、金国親潮艤装員長は、制式に親潮駆逐艦長(初代)に任命された[13]。
5月10日、親潮艤装員事務所を撤去[14]。8月20日に竣工[3]。呉鎮守府所属。
8月31日、姉妹艦2隻(早潮、夏潮)が同時に竣工する[15][16]。
同日附で日本海軍は、陽炎型3隻(親潮、早潮、夏潮)で第15駆逐隊を編制[17]。第15駆逐隊司令には、初春型駆逐艦2番艦子日初代艦長や同型吹雪艦長[18]、特務艦野島特務艦長[19][20]等を歴任した植田弘之介大佐が任命された[21]。
11月15日、第15駆逐隊は第二艦隊・第二水雷戦隊(司令官五藤存知少将)に編入[17]。同時に、陽炎型9番艦「天津風」と10番艦「時津風」の竣工にともない、第16駆逐隊に所属していた姉妹艦「黒潮」が第15駆逐隊に編入される[17][12]。これをもって第15駆逐隊は(親潮、黒潮、早潮、夏潮)の陽炎型4隻編制となる[17]。
1941年(昭和16年)6月18日、第15駆逐隊司令は植田大佐から佐藤寅治郎大佐(前職、第4駆逐隊《嵐、野分、萩風、舞風》司令)[22][23]に交代した(植田は9月20日より日本丸監督官)[24]。
9月10日、金岡(親潮艦長)は第30掃海隊司令へ転任(翌年3月、秋月型駆逐艦1番艦秋月艤装員長。第22駆逐隊司令、軽巡北上艦長《終戦時》、空母鳳翔艦長《復員船時代》等を歴任)[25][26]。後任の親潮駆逐艦長は、吹雪型「綾波」艦長有馬時吉中佐[25]。
9月15日、第二水雷戦隊司令官五藤存知少将は第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)司令官へ転任(翌年10月、サボ島沖海戦で青葉大破時に戦死)、後任の二水戦司令官は第六潜水戦隊司令官田中頼三少将となった[27]。
太平洋戦争緒戦
1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦時、第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将:旗艦神通)所属。二水戦には、「親潮」と同じ陽炎型編制の第16駆逐隊(初風、天津風、時津風、雪風)、第18駆逐隊(陽炎、不知火、霞、霰)が所属していたが、第18駆逐隊は第一水雷戦隊(司令官大森仙太郎少将:旗艦阿武隈)の指揮下にあって南雲機動部隊警戒隊として真珠湾攻撃に参加しており、別行動であった。12月、ダバオ、ホロ攻略作戦に参加した[17]。
1942年(昭和17年)1月上旬、メナド攻略作戦に参加した[17]。以降、ケンダリー攻略作戦、アンボン攻略作戦、マカッサル攻略作戦、クーパン攻略作戦、ジャワ南方機動作戦に参加した。一連の任務従事中の2月8日、輸送船団護衛中に15駆僚艦「夏潮」が米潜水艦「S-37」に雷撃され航行不能となる[28]。「親潮」が護衛する中で「黒潮」による曳航が実施されたが、「夏潮」は2月9日に沈没[29][30]。陽炎型はじめての喪失艦となる。第15駆逐隊は司令艦を「親潮」に変更し[31][32]、当分3隻編制で行動を続けた[33]。
3月15日、スラウェシ島のスターリング湾を出港し、呉まで空母「加賀」を護衛した[17]。
4月18日のドーリットル空襲に対処したあと[34]、第15駆逐隊はフィリピン、カガヤン攻略作戦に参加[35]。5月10日、第15駆逐隊(親潮、黒潮、早潮)はマニラを出港し、内地帰投中の翔鶴型航空母艦1番艦「翔鶴」(同艦は5月8日の珊瑚海海戦で大破、損傷中)[36]及び同行駆逐艦2隻(夕暮、漣)と合流、5月17日呉軍港に到着した[37]。6月上旬のミッドウェー海戦における第二水雷戦隊は輸送船団(ミッドウェー島占領部隊)の護衛を担当。第15駆逐隊は第十一航空戦隊(水上機母艦「千歳」)の護衛任務に就いた[38]。
7月にはペナン沖で対潜警戒活動を実施。7月5日、アリューシャン方面作戦に従事中の二水戦・第18駆逐隊3隻(不知火、霞、霰)は、米潜水艦「グロウラー」に雷撃され、大損害を蒙った(霰沈没、不知火と霞大破航行不能)[39][40]。第18駆逐隊司令宮坂義登大佐は更迭される[41](後日、予備役に編入)[42]。そこで「不知火」達とは別行動で無事だった陽炎型1番艦「陽炎」(第18駆逐隊)を3隻編制になっていた15駆に編入する事になり、7月20日附で第15駆逐隊は陽炎型4隻編制(親潮、黒潮、早潮、陽炎)となった[43]。第18駆逐隊は8月15日附で解隊された[44]。
ガダルカナル島の戦い
8月7日以降、第15駆逐隊はガダルカナル島の戦いに投入された。駆逐艦によるガダルカナル島への輸送作戦『鼠輸送』に従事する。
10月13日、第三戦隊司令官栗田健男中将指揮下の挺身攻撃隊(第三戦隊《金剛、榛名》、第二水雷戦隊《旗艦〔五十鈴〕、第15駆逐隊〔親潮、黒潮、早潮〕、第24駆逐隊〔海風、江風、涼風〕、第31駆逐隊〔高波、巻波、長波〕》)はガ島ヘンダーソン飛行場基地に対する艦砲射撃を実施、成功した(ヘンダーソン基地艦砲射撃)[45]。
10月下旬、前進部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)に所属して南太平洋海戦に参加。
11月12-15日の第三次ソロモン海戦における第二水雷戦隊(早潮《二水戦旗艦》、親潮、陽炎、海風、江風、涼風、高波、長波、巻波、天霧、望月)は輸送船団11隻を護衛して作戦に参加[46]。米軍機の空襲により輸送船10隻喪失(沈没6隻、4隻擱座)、輸送船1隻大破という大損害を受けた[47][48]。
11月24日、ニューギニア島のラエ輸送作戦に従事していた15駆僚艦「早潮」がB-17型爆撃機の空襲を受けて沈没[49]、15駆は3隻編制(親潮、黒潮、陽炎)になった[50]。11月30日、二水戦司令官田中頼三少将(駆逐艦「長波」座乗)が指揮する第二水雷戦隊(第31駆逐隊《高波、長波、巻波》、第15駆逐隊《親潮、黒潮、陽炎》、第24駆逐隊《江風、涼風》)はルンガ沖夜戦で勝利を収めるが[51][52]、夕雲型6番艦「高波」(第31駆逐隊)を喪失した[53]。15駆2隻(親潮《残魚雷0本》、黒潮《残魚雷2本》)は田中司令官(長波)より航行不能となった「高波」救援命令を受けたが[54]、救助活動開始寸前で米艦が接近してきたため、「高波」を残して避退した[55]。
11月28日附で東日出夫少佐(吹雪型5番艦叢雲沈没時の艦長)[56]が親潮駆逐艦長に補職[57]。前親潮艦長有馬時吉中佐は夕雲型駆逐艦8番艦「清波」艤装員長[58]および初代艦長[59]に補職され、同艦沈没時に戦死した(1943年7月20日)[60][61]。
12月3日、田中少将の指揮下、駆逐艦10隻(31駆《長波、巻波》、15駆《親潮、黒潮、陽炎》、24駆《江風、涼風》、4駆《嵐、野分》、27駆《夕暮》)でガ島へのドラム缶輸送を実施、「巻波」が中破する[62][63]。
12月7日、佐藤大佐(第15駆逐隊司令)の指揮下[64]、駆逐艦9隻(親潮、黒潮、陽炎、江風、涼風、嵐、野分、有明)でガ島輸送を実施するが、空襲で「野分」が損傷、米軍魚雷艇の迎撃により輸送作戦も失敗した[65]。
12月11日、二水戦司令官田中頼三少将の指揮下、駆逐艦部隊(秋月型2番艦照月《二水戦旗艦》、第4駆逐隊《嵐》、第31駆逐隊《長波》、第24駆逐隊《江風、涼風》、第15駆逐隊《親潮、黒潮、陽炎》、第17駆逐隊《谷風、浦風》、第27駆逐隊《初春》)と共にガダルカナル島へ輸送作戦中、「照月」が魚雷艇に撃沈される[66]。その後、ムンダ輸送作戦に従事した。
12月26日、第15駆逐隊司令は佐藤寅治郎大佐から牟田口格郎大佐に交代(佐藤大佐は、翌年2月より二水戦旗艦神通艦長)[67][68][61]。12月29日附で第二水雷戦隊司令官も田中頼三少将から小柳冨次少将(前職、金剛型戦艦1番艦「金剛」艦長)に交代[67][69]。この後、田中少将は陸上部隊勤務となり、二度と海上で指揮を執ることはなかった[70][71]。
1943年(昭和18年)1月2日-3日、二水戦司令官小柳冨次少将の指揮下、駆逐艦10隻(長波、江風、涼風、巻波、親潮、黒潮、陽炎、荒潮、磯波、電)はガ島ドラム缶輸送を実施する[72]。この作戦中に「涼風」が損傷[73]。続いて「親潮」も異常振動に見舞われ、以降の作戦に参加できなくなる[61]。
第15駆逐隊(親潮、陽炎)は「黒潮」を外南洋部隊(第八艦隊)に残して前進部隊(第二艦隊)に復帰[74]。1月9日、15駆(親潮、陽炎)は特設水上機母艦「山陽丸」を曳航する給油艦「鶴見」を護衛してショートランド泊地を出発[75]、17日トラック泊地到着[76][77]。
1月17日からトラックで応急修理を受ける[74]。1月23日、小柳冨次少将は第二水雷戦隊司令官から第十戦隊司令官へ転任、後任の二水戦司令官は伊崎俊二少将となる
[78]。また二水戦から長良型軽巡洋艦2番艦「五十鈴」(第三次ソロモン海戦で損傷)が外れ、二水戦旗艦は同隊に復帰した「神通」に変更された[77]。
2月1日、本艦は「箱崎丸」を護衛してトラック泊地を出発[79][80]、2月9日に呉到着[81][82]。
2月21日、空母「隼鷹」を護衛していた15駆2隻(陽炎、黒潮)も呉に戻る[81][80]。さらに呉工廠において3月22日まで修理を実施した。3月31日、2隻(親潮、黒潮)は内海西部を出発[83]、4月2日到着[84]。
4月4日、駆逐艦4隻(漣、響、黒潮、親潮)は大型艦3隻(空母《大鷹、冲鷹》、重巡《鳥海》)を護衛して横須賀を出発[85][86]、4月8日夜、アメリカの潜水艦タニー(USS Tunny, SS/SSG/APSS/LPSS-282) が日本艦隊を発見、襲撃するが被害はなかった[85]。10日、トラック泊地に到着して任務を終える[87][88]。トラック泊地周辺の対潜掃蕩を実施したのち、4月24日附で二水戦4隻(親潮、黒潮、陽炎、海風)は南東方面艦隊(外南洋部隊)に編入される[89][90]。26日、第15駆逐隊はラバウルに進出した[88][91]。
沈没
1943年(昭和18年)4月、ムンダやコロンバンガラ島の部隊が栄養不良などにより戦力が低下していたため部隊の補充交代が実施されることになり、4月29日から5月8日にかけて駆逐艦による6回のコロンバンガラ輸送が行われることになった[92]。「親潮」(第15駆逐隊司令駆逐艦)は4月29日の第一回、5月3日の第三回と参加したが[93]、毎回同じ航路を取ったため5月6日にアメリカの機雷敷設艦3隻(ブリーズ、プレーブル、ギャンブル)がブラケット水道に機雷を敷設した[94]。
5月7日17時、第15駆逐隊3隻(親潮、黒潮、陽炎)はブインから第五回の輸送に出発した[93]。3隻は前回同様ファーガスン水道、ブラケット水道を通って5月8日午前1時ごろにコロンバンガラ島ビラ沖に入泊し、搭載人員、物資を下ろして帰還者を乗せると3時10分ごろに出港した[95]。3時49分、「親潮」はアウェイ島北西約0.6海里で触雷、航行不能になった[96]。それを潜水艦の雷撃と考えた2隻(黒潮、陽炎)は爆雷を投射したが、4時11分ごろに今度は「陽炎」が触雷し、5時6分に「黒潮」も触雷して瞬時に沈没した[96]。コースト・ウォッチャーズ(沿岸監視員)から日本駆逐艦が航行不能となって漂流中との報告を受けたマーク・ミッチャー少将は19機のSBD、3機のTBF、32機のF4Uおよび8機のP-40を攻撃に向かわせた[97]。F4UとTBFは荒天のため引き返したが残りは攻撃を行い、「親潮」の三番砲塔付近に爆弾1発が命中した[98]。「親潮」は南方に漂流し、同日17時5分にアンウィン諸島西端付近で沈没した[99]。「親潮」では91名の戦死者が出た(黒潮戦死者83名、陽炎戦死者18名)[96][100]。艦齢は約2年8ヶ月だった[101]。
第15駆逐隊司令牟田口大佐や東(親潮駆逐艦長)以下生存者は近くの島へ移動[102]。引き揚げ船でショートランド泊地に戻った[103]。
救助に向かっていた駆逐艦2隻(萩風、海風)は速報を受けて遭難現場に到着したが、生存者より3隻沈没の報告を受けて引き返した[104]。
同年6月1日、東日出夫中佐は親潮駆逐艦長の職務を解かれる[105]。東中佐は三重海軍航空隊教官を経て[106][107]、1944年(昭和19年)12月1日より秋月型駆逐艦13番艦「花月」艤装員長[107]、初代艦長[108]を歴任。終戦後、駆逐艦「雪風」艦長等を兼務して復員業務に従事した[109][110]。
6月20日、陽炎型3隻(黒潮、親潮、陽炎)は同時に除籍[111]。また同日附をもって第15駆逐隊も解隊[112]。陽炎型駆逐艦の名称も『不知火型駆逐艦』に変更された[113]。
第15駆逐隊司令牟田口格郎大佐は横須賀鎮守府附となり[114]、8月18日より軽巡洋艦「大淀」艦長に補職された[115]。後日、伊勢型戦艦1番艦「伊勢」艦長へ転任し[116]、呉軍港空襲にける同艦大破時に戦死した[117]。
歴代艦長
- 艤装員長
- 金岡國三 中佐:1939年12月1日[8] - 1940年5月1日[13]
- 駆逐艦長
- 金岡國三 中佐:1940年5月1日[13] - 1941年9月12日[25]
- 有馬時吉 中佐:1941年9月12日[25] - 1942年11月28日[57]
- 東日出夫 少佐/中佐:1942年11月28日[57] - 1943年6月1日[105]
参考文献
- 生出寿『戦艦「大和」最後の艦長 海上修羅の指揮官』光人社、1996年12月。ISBN 4-7698-2143-3。
- 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年。
- 木俣滋郎、『日本水雷戦史』、図書出版社、1986年
- 重本俊一(海軍兵学校70期)『回天発進 わが出発は遂に訪れず』光人社、1989年4月。ISBN 4-7698-0436-9。
- 重本俊一『落日の日本艦隊 体験的連合艦隊始末記』光人社NF文庫、2014年7月。ISBN 978-4-7698-2841-9。
- 重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦 水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦』潮書房光人社、2014年10月。ISBN 978-4-7698-1577-8。
- 当時「親潮」航海士・海軍少尉重本俊一『わが「親潮」ルンガ沖に突入せよ 米艦隊の真っ只中に殴り込んだ親潮、黒潮、陽炎のルンガ沖夜戦』
- 当時「親潮」航海士・海軍少尉重本俊一『熱き海ソロモンに響く"三つの弔鐘"悲し 昭和十八年五月八日、クラ湾で触雷沈没した親潮、黒潮、陽炎の最期』
- 当時 四駆逐隊付・海軍少尉候補生戸田専一『乗艦「舞風」「萩風」ネズミ輸送の悲惨を語れ 駆逐艦の損傷相次ぎ風雲急を告げるソロモン戦線五ヶ月の体験』
- 戦史研究家落合康夫『駆逐隊別「陽炎型駆逐艦」全作戦行動ダイアリィ 第四、第十五、第十六、第十七、第十八駆逐隊 太平洋奮迅録』
- 戦史研究家伊達久『日本海軍駆逐艦戦歴一覧 太平洋戦争時、全一七八隻の航跡と最後』
- 高松宮宣仁親王、嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第四巻 昭和十七年一月一日~昭和十七年九月三十日』中央公論社、1996年7月。ISBN 4-12-403394-X。
- 高松宮宣仁親王、嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第五巻 昭和十七年十月一日~昭和十八年二月十一日』中央公論社、1996年11月。ISBN 4-12-403395-8。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年 ISBN 4-7698-1246-9
- 寺内正道ほか『海軍駆逐隊 駆逐艦群の戦闘部隊編成と戦場の実相』潮書房光人社、2015年9月。ISBN 978-47698-1601-0。
- 当時「黒潮」三代目艦長・海軍中佐宇垣環『第十五駆逐隊「黒潮」艦長の奮戦苦闘記 緒戦期からガ島血戦まで。夏潮の最後と黒潮、親潮、早潮=十五駆の航跡』
- 当時「陽炎」信号員・海軍一等兵曹谷義保『十五駆逐隊「陽炎」ソロモン輸送航海記 黒潮、親潮、早潮の十五駆へ編入。最多ともいえる二十数回の決死行』
- 半藤一利『航空戦史シリーズ41 ルンガ沖夜戦』朝日ソノラマ、1984年5月。ISBN 4-257-17041-7。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年5月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室、『戦史叢書 南東方面海軍作戦3 ガ島撤収後』、朝雲新聞社、1976年
- 雑誌『丸』編集部『写真 日本の軍艦 第11巻 駆逐艦II』光人社、1990年 ISBN 4-7698-0461-X
- 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集17 駆逐艦 初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年。
- 吉田俊雄「第1部 第二水雷戦隊」『航空戦史シリーズ 波濤を越えて』朝日ソノラマ、1985年6月。ISBN 4-257-17057-3。
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿2.3』。Ref.C13072003500。
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脚注
関連項目