伊号第二十潜水艦 (いごうだいにじゅうせんすいかん、旧字体 :伊號第二十潜水艦 )は、大日本帝国海軍 の伊十六型潜水艦 の三番艦。
艦歴
計画-竣工
1937年 (昭和 12年)の第三次海軍補充計画(③計画) で建造が計画され、1937年11月16日に三菱重工業神戸造船所 で起工。1938年 (昭和13年)9月20日、艦艇類別等級表 に登録[ 2] 。1939年 (昭和14年)1月25日進水 し、1940年 (昭和15年)9月26日に竣工 した。同日、横須賀鎮守府 籍となり、横須賀鎮守府部隊 所属となる。
1941年 (昭和16年)1月31日、伊18 と共に第六艦隊 第一潜水戦隊第二潜水隊を編成。
真珠湾攻撃
太平洋戦争 開戦 時には第六艦隊 第一潜水戦隊第二潜水隊に所属。1941年 (昭和16年)11月18日、伊20は呉 を出港し、倉橋島亀ヶ首 に移動。同地で特殊潜航艇 甲標的 を搭載した後、真珠湾攻撃 に参加するため19日2時15分に出港。12月7日2時57分、真珠湾 口151゚、5,3浬地点付近で広尾彰 少尉、片山義雄 二等兵曹 を乗せた甲標的 を発進させる。搭載艇はワード号事件 により撃沈 された[ 注釈 1] 。9日早朝、ラナイ島 南方沖の会合点を離れ、20日にクェゼリン に到着した。
1942年 (昭和17年)1月4日、伊20はクェゼリン を出港し、サモア 、フィジー諸島 方面に進出。11日、パゴパゴ を砲撃。16日、スバ 付近でニュージーランド 揚陸艦 「モノワイ (HMNZS Monowai )」を発見し、魚雷 2本を発射するも、魚雷は全て早爆した。伊20は砲撃 のため浮上して接近するも、「モノワイ」から砲撃を受ける。伊20も反撃して船橋 に1発を命中させたと判断したが、実際は命中弾はなかった。その後伊20は潜航し、「モノワイ」は警報を発信しながら高速で去っていった。24日、クェゼリン に寄港し、2月1日に横須賀 に到着。同日、第一潜水隊の伊15 、伊17 と入れ替わる形で、伊18 と共に第一潜水隊に編入。
インド洋での作戦
3月10日、第一潜水隊は第八潜水戦隊に編入。
16日、伊20は横須賀 を出港し、呉 に移動。4月16日、第一潜水隊の僚艦、伊10 、伊30 と共に甲先遣隊を編成し、呉 を出港。18日、ドーリットル空襲 を受け、小笠原諸島 北方沖にいる米機動部隊 の迎撃のために北東へ向かったが、空振りに終わった。27日、ペナン に到着し、水上機母艦 日進 により運ばれてきた甲標的 を搭載。30日、伊30を除いた部隊は特設巡洋艦 報国丸 (大阪商船 、10,438トン)、愛国丸 (大阪商船、10,437トン)と共にペナン を出港。5月5日、10日、15日に報国丸 、愛国丸 から給油を受けた後、2隻と別れた。17日、波浪により機関室に浸水。排水作業を行った後、再度機関 室に浸水するも、任務 を続行した。20日、伊10 の搭載機がダーバン を飛行偵察。30日、伊10 の搭載機がマダガスカル島 ディエゴ・スアレス を飛行偵察し、戦艦1他多数の艦船の在泊を報告してきた。31日17時40分、ディエゴ・スアレス港の攻撃 を行うべく、ディエゴ・スアレス沖10浬の地点で秋枝三郎 大尉、乗組員竹本正巳 一等兵曹を乗せた甲標的を発進させる。搭載艇は20時25分に英戦艦ラミリーズ へ向け魚雷 1本を発射。魚雷 はラミリーズの左舷A砲塔前部に被雷し、前部15インチ砲の弾薬庫などが浸水した。21時20分、英コルベットジェニスタ(en:HMS Genista )、タイム(en:HMS Thyme (K210) )が爆雷 攻撃を行う中、英タンカー ブリティッシュ・ロイヤルティ (British Loyalty、6,993トン)に向け、残る魚雷1本を発射。魚雷は命中し、ブリティッシュ・ロイヤルティは沈没した[ 注釈 2] 。その後艇がノシ・アレス島 に座礁したため搭乗員は艇を放棄してマダガスカル島 アンタラブイ近くに上陸し、6月2日に会合地点付近のアンドラナボンドラニナという小集落でイギリス軍部隊との銃撃戦により戦死 した。6月3日、伊20は浮上して搭載艇と接触をとろうとしたが、失敗に終わった。5日、南緯13度12分 東経42度06分 / 南緯13.200度 東経42.100度 / -13.200; 42.100 の地点でパナマ 貨物船ジョンズタウン (Johnstown、5,086トン)を発見し、雷撃により撃沈。8日、南緯05度05分 東経40度53分 / 南緯5.083度 東経40.883度 / -5.083; 40.883 の地点でギリシャ 貨物船 フリストス・マルケトス (Christos Marketos、5,209トン)を発見し、雷撃により撃沈。11日、南緯14度37分 東経40度58分 / 南緯14.617度 東経40.967度 / -14.617; 40.967 の地点で、英貨物船マーロンダ (Mahronda、7,926トン)を発見し、雷撃により撃沈。12日、南緯14度40分 東経40度53分 / 南緯14.667度 東経40.883度 / -14.667; 40.883 の地点で、パナマ貨物船ヘレニック・トレーダー (Hellenic Trader、2,052トン)を発見し、砲撃により撃沈 。同日、南緯16度25分 東経40度10分 / 南緯16.417度 東経40.167度 / -16.417; 40.167 の地点で、英貨物船クリフトン・ホール (Clifton Hall、5,063トン)を発見し、雷撃により撃沈。17日、報国丸 、愛国丸 との会合点に到着し、燃料と食糧の補給を受けた。29日、南緯13度25分 東経41度53分 / 南緯13.417度 東経41.883度 / -13.417; 41.883 の地点で、アデン からロレンソ・マルケス へ向かっていたノルウェー 貨物船ゴヴィケン (Goviken、5,063トン)を発見し、雷撃。魚雷が命中した同船は20分で沈没した。30日、南緯09度00分 東経42度00分 / 南緯9.000度 東経42.000度 / -9.000; 42.000 の地点で、英タンカーステアウア・ロマナ (Steaua Romana、5,311トン)を発見し、主砲弾15発を発射して1発を命中させた。そのうち、ステアウア・ロマナが反撃してきたため、潜航して九五式酸素魚雷 を発射するも、魚雷は早爆した。ステアウア・ロマナは煙幕を張りながら逃げようとするも、伊20はそれをものともせず魚雷を発射。魚雷は命中し、ステアウア・ロマナは沈没した。その後、伊20は連合軍 の無線通信 を傍受してステアウア・ロマナの船名を確認した。7月5日、魚雷の早爆の原因を探るため、九五式酸素魚雷 1本を分解して調査した。21日、アデン湾 に進出して哨戒 を行い、同日中に哨戒区域を離れた。8月5日、ペナン に到着。その後、ペナン を出港する。23日、横須賀に到着し、整備を受ける。
ソロモン諸島方面へ
10月24日、伊20は横須賀 を出港し、ショートランド に移動。11月5日、水上機母艦 千代田 により輸送されてきた甲標的 を搭載し、同日夜に出港。7日5時20分、ガダルカナル島 エスペランス岬 沖4浬地点付近で、國弘信治中尉、井上五郎一等兵曹が乗った甲標的を発進させる。搭載艇はマハバ (英語版 ) (USS Majaba, AG-43 )、その近くに停泊していた米駆逐艦ランズダウン (英語版 ) (USS Lansdowne, DD-486 )を発見し、それぞれに魚雷1本ずつを発射。魚雷は1本がランズダウンの艦底下を通過して陸岸に命中したが、爆発しなかった。もう1本はマハバの右舷機関室に命中し、これを撃破した。マハバは沈没を防ぐため擱座された[ 注釈 3] 。艇はランズダウンと米駆逐艦ラードナー (英語版 ) (USS Lardner, DD-487 )の爆雷攻撃を受けるも被害はなかった。その後艇は自沈 処理がされ、搭乗員はガダルカナル島に上陸した。伊20はトラック に向かった。
13日、伊20はトラック で甲標的を搭載して出港。18日、発進地点に到着し、19日3時0分にエスペランス岬沖6浬地点付近で、三好芳明中尉、梅田喜芳一等兵曹を乗せた甲標的を発進させる。搭載艇は2分後に操舵装置 からのオイル漏れが発生するも任務を続行。しかし、目標を見つけることはなく、9時55分にエスペランス岬 付近で自沈 処理がされ、搭乗員はガダルカナル 島に上陸した。伊20はトラック に戻った。
26日、伊20はトラック で甲標的を搭載して出港。12月2日、発進地点に到着し、19日3時0分にサボ島 沖19浬地点付近で、田中千秋 少尉 、三谷護二等兵曹を乗せた甲標的を発進させる。3日、搭載艇は駆逐艦 、輸送船を含む複数の目標を発見し、しばらく観察した後輸送船へ向け魚雷2本を発射。1回の爆発音を聴取する。その後艇は米駆逐艦 の追跡を受けるも損害を受けなかった。その後、エスペランス岬 付近で浮上後艇が浸水したため、艇は自沈処理がされた。搭乗員はガダルカナル 島に上陸した。伊20はトラック に戻った。
その後、伊20はゴム袋入りの輸送物資25トン を積んでトラック を出港し、31日にエスペランス岬 沖に到着。輸送物資をおろした後出港し、トラックに戻った。1943年 (昭和18年)1月2日、トラックを出港してショートランド に移動。ゴム袋入りの輸送物資18トンを積んだ後出港し、7日にエスペランス岬 沖に到着。輸送物資を降ろした後出港し、ショートランドに戻った。20日、輸送物資18トンを乗せた特型運貨筒 を曳航して出港[ 注釈 4] 。22日にエスペランス岬に到着して特型運貨筒 を切り離した後出港し、トラックに戻った。
3月18日、伊20は食糧と弾薬、計30トンを乗せてトラック を出港し、21日にラエ に到着して輸送物資を降ろした後出港し、トラックに戻った。その後食糧と弾薬を乗せてトラックを出港し、27日にラエに到着して輸送物資を降ろした後出港し、トラックに戻った。その後、輸送物資37トンを積んでトラックを出港する。4月2日、ニューブリテン島 南方沖で潜航中、同じく潜航していた伊16 と接触事故を起こすが、幸い被害はなかった。3日、ラエに到着して輸送物資を降ろした後、第18軍 司令の安達二十三 中将 以下、第18軍首脳部を含む陸軍兵士39名を乗せて出港し、トラックに戻り便乗者を降ろした。その後、輸送物資30トンを積んでトラックを出港する。9日、ラエに到着して輸送物資を降ろした後、陸軍兵士42名を乗せて出港し、トラックに戻り便乗者を降ろした。その後、輸送物資37トンを積んでトラックを出港する。15日未明、ラエ付近で米哨戒機 に発見され、照明弾 を投下されて照らされたため潜航退避。その後ラエに到着して輸送物資を降ろした後、陸軍兵士40名を乗せて出港し、トラックに戻り便乗者を降ろした。その後食糧と弾薬を乗せてトラックを出港し、20日にコロンバンガラ島 に到着して輸送物資を降ろした後出港し、トラックに戻った。その後、輸送物資39トンを積んでトラックを出港する。5月2日、ラエに到着して輸送物資を降ろした後、陸軍兵士31名を乗せて出港し、トラックに戻り便乗者を降ろした。その後、輸送物資39トンを積んでトラックを出港する。8日、ラエ に到着して輸送物資を降ろした後出港し、20日に横須賀に到着して整備を受ける。
沈没
8月4日、伊20は横須賀 を出港し、10日にトラック に到着。航海中の9日、第一潜水隊は第一潜水戦隊に編入。
19日、伊20はトラックを出港し、ニューヘブリディーズ諸島 周辺海域に進出。30日、エスピリトゥサント島 付近で空母1、戦艦2からなる米機動部隊 を発見。31日、南緯15度51分 東経167度02分 / 南緯15.850度 東経167.033度 / -15.850; 167.033 のブーゲンビル海峡北方10浬地点付近で米タンカーW・S・リーム(W. S. Rheem、10,872トン)を雷撃し、撃破したという報告を最後に消息不明。
アメリカ側記録によると、9月3日19時35分、W・S・リームが被雷したことで哨戒中の米駆逐艦エレット (英語版 ) (USS Ellet, DD-398 )のレーダーが12km先に光点を示したため、4600mの距離まで接近し、相手の潜水艦に対しモールス信号 で応答を求めたが、応答はなかった。そのため照明弾を打ち上げたところ、3100mの距離で急速潜航していった。まもなく、270mの距離で潜航中の潜水艦 をソナー探知し、20時12分に爆雷攻撃を開始。攻撃は20時38分まで続けられ、20時59分に潜水艦を見失った。翌日4日夜明けごろ、エレットは潜水艦のものと思われる破片と、大きな重油の帯が海上を漂うのを発見した。これが伊20の最期の瞬間であり、艦長の大塚范少佐以下乗員101名全員戦死。沈没地点はエスピリトゥサント島 近海、南緯13度10分 東経165度28分 / 南緯13.167度 東経165.467度 / -13.167; 165.467 。
また、付近を行動中の伊182 も、1日にW・S・リームが被雷したことで哨戒中の米駆逐艦ワズワース (USS Wadsworth, DD-516 )の攻撃を受けて撃沈された。
25日、第一潜水隊の解隊に伴い、既に戦没していた伊20は書類上第二潜水隊に編入。
11月18日、エスピリトゥサント島方面で亡失と認定され、12月1日に除籍された。
撃沈総数は8隻であり、撃沈トン数は42,703トンである。撃沈隻数では帝国海軍 潜水艦の中では伊165 と並んで第5位を誇る(撃沈トン数の5位は47,942トンを撃沈した伊37 )。撃破総数は3隻であり、撃破トン数は41,099トンである。
歴代艦長
艤装員長
艦長
脚注
注釈
^ 搭載艇は戦後の2002年 (平成 14年)8月28日、真珠湾の沖4.8km、水深400mの海底に沈んでいるのが発見された。
^ その後ブリティッシュ・ロイヤルティは浮揚修理され、アッドゥ環礁 に移動。同地でUボート U-183の雷撃を受けて大破。応急修理後燃料油貯蔵船となり、戦後の1946年 (昭和21年)1月5日に浸水により沈没した。
^ その後浮揚されたマハバは機関部の損傷が著しいため、航行不能のままハルク として使用された。戦後の1946年(昭和21年)7月14日に海没処分となっている。
^ この任務が特型運貨筒を使用した初めての輸送任務となる。
出典
参考文献