海上保安庁の歴史においては、海上保安庁の活動の歴史と組織の沿革を記す。
大日本帝国時代、日本周辺海域における法秩序の維持については、水上警察、税関、水産局、海運局、検疫所などの諸機関がそれぞれの主管に属する法令の励行にあたってきたが、いずれも実力強制の力が弱かったため、最後の実力行使の面は旧海軍に依存してきた[1]。しかし1945年(昭和20年)の降伏に伴って日本は非軍事化され、海軍も掃海部隊を除いて解体された[1]。
この結果、洋上法執行能力は著しく弱体化し、密貿易や不法入国が横行したほか、船内賭博のような刑法犯も盛んに行われ、海賊すら出現する状況に至っていた[1]。瀬戸内海において、九州から鉄や石炭、木材などを積んで関西方面に向かう船がよく襲われたといわれる[2]。また戦禍によって航路標識は壊滅し、船舶の構造および設備も劣悪化し、優秀船員も失われるなど、航海の安全を保つために必要な基礎は全て失われた[1]。更には、日米両軍が敷設した機雷が日本近海の水路や主要港湾を覆い、多数の沈船や密航者が放棄した船舶とともに、船舶の航行を脅かしていた[1]。海上保安庁の『十年史』で「暗黒の海」と表現される状況であった[1]。
これに対し、政府は日本側の手による洋上法執行機関の創設を模索しており、運輸省に水上監察隊を設置する構想、農林省に海上監視隊を設置する案、大蔵省の税関を強化する案、旧内務省の警察組織を強化する案などが検討されていたものの[注 1]、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)としては、当初は日本の海運・造船・水産活動を厳しく制限する占領政策を採っており、日本海軍の復活への警戒感が根強かったこともあり、いずれも進展しなかった[1]。
しかし1946年(昭和21年)初夏ごろより、朝鮮半島からの輸入感染症としてコレラが九州に上陸し、猛威をふるいはじめた[4]。その流入ルートとして、不法入国や密貿易等が疑われたことから、同年6月12日、GHQは日本政府に対し不法入国取り締まりの権限を付与する旨の覚書[5]を通達した[4]。これを受け、7月1日、運輸省海運総局に不法入国船舶監視本部、その実働機関として九州海運局に不法入国船舶監視部が設置された[4]。
不法入国船舶監視本部の発足の時点で、保有船舶はタグボート3隻と港務艇13隻のみ、武装は一切有していなかった[4]。要員には取締業務の経験者は一人もおらず[4]、また身分としては運輸省の技官であり、司法警察権が附与されていなかったため、出動時には武装警察官の同乗を依頼している状況であった[6]。大久保武雄監視本部長は、第二復員局の船舶および通信施設の移管を申請したが、なかなか許可が出なかった[4]。また同本部は不法入国船の監視を目的とするものであって、その他の海上保安業務は、従来どおり、警察、税関、検疫所、海運局、燈台局、水路部、第二復員局などの各機関がそれぞれ独立しておこなっていたために、極めて不経済かつ不合理であった[7]。
GHQ/SCAP側も日本の沿岸・港湾警備に課題があることを認識し、1946年2月、アメリカ沿岸警備隊よりフランク・M・ミールス大佐を招聘して、課題の洗い出しと対策の策定を求めていた[7][8][注 2]。ミールス大佐は、自らが所属するアメリカ沿岸警備隊をモデルとした水上保安組織の設置を構想しており、マクドーナー中尉を帯同して日本各地の主要港湾などを丹念に視察したのち、運輸省海運総局がその設置母体として適当であると結論し、GHQ/SCAPにレポートを提出するとともに日本側にも助言を行った[8]。この時期、日本側からGHQ/SCAP内部の事情を窺い知ることは困難だったため、この助言は非常に貴重なものであった[8]。特に、コートニー・ホイットニー准将以下の民政局(GS)が日本の軍備再建を非常に警戒していることをほのめかし、これを刺激しないように勧告したことは重要であった[8]。
ミールス大佐の意向を反映して、1946年5月16日、海運総局では「水上保安制度確立に関する件(案)」を作成した[10]。しかしこの案は、水上警察や水上消防、漁業監督など広範囲に渡る業務を一手に取り仕切ろうとしたものであり、大蔵省、農林省、内務省など関係省庁の抵抗が強く、調整には時間を要した[10]。特に大蔵省は、戦時中の業務統合の際に税関を海運総局の下に入れられたことを根に持って、政治家を動かして、この機会に運輸省自体の解体をも計画しているとも言われた[10]。運輸省側はこれらの政治家を根気強く訪ね歩いて説得し、理解を得ていった[10]。
これらの調整を経て、1947年5月22日の次官会議において、運輸省に海上保安機関を設置する案が正式に採択された[7]。政府は閣議の了解を経て、直ちにGHQ/SCAPに対して実施を許可するよう申請した[7]。
GHQ/SCAPにおいて、海上保安業務を直接に管轄するチャールズ・ウィロビー少将指揮下の参謀第2部(G2)は日本側の提案を速やかに承認したものの、ミールス大佐が示唆したとおり、GSの反対を受けた[10][11]。GSは、特に「組織的で、よく訓練を受けた制服着用の軍隊が、規模の制限もなく設置されること」「速力や武装の制限もない上に、排水量1,500トンもの船艇を使って領海外の公海上で活動させること」を問題視していた[10][11]。9月23日には海上保安機関の設置を許可する連合国最高司令官指令が発出されたものの、その設置の方法についてはなお討議が続いた[7]。同年末にはG2とGSとの間で討論が行われ、またミールス大佐は、日本政府に対して「アメリカ、イギリス、フランスおよびソ連、特にソ連は海上部隊についての詳細な期待条項の含まれていない海上部隊設置法案は、どんなものでも、盲目的に承認しようとしていない」と伝えた[12]。これらのことを考慮して、日本政府は、下記の6項目の制限を受け入れた[13]。
また草案の時点では「7.6センチ砲の搭載」が盛り込まれており、G2の内諾も受けていたが、これを含む草案全文が一部の新聞に掲載されて問題になった結果[注 3]、巡視船に武装を行うことを断念するとともに、海保の軍隊的性格を明文で否定する条項(後の海上保安庁法第二十五条)が盛り込まれることになった[10][14]。これは、下記の通り他国から海保創設への反対論が生じ始めていたことから、これに対する予防線としての効果を期待したものであった[14]。
1948年2月12日、日本政府代表者(終戦連絡中央事務局次長)がGHQ/SCAPに呼ばれ、海上保安庁法案を提示されてその実施を要求された[7]。内閣審議室および終連は直ちに関係省との調整に入り、3月18日には次官会議において具体的に関係省庁間の協力要領を決定、同月25日には、海上保安庁を急速に設置する必要性に鑑みて、内閣総理大臣の監督のもとに海上保安庁設置準備委員会を置くことを決定した[7]。海上保安庁設立の最終案は芦田内閣によって承認され、4月15日、国会を通過した[13]。
一方、上記のスクープ以降、極東委員会や対日理事会において、ソビエト連邦をはじめとする各国代表の態度がにわかに硬化しはじめた[10]。1948年4月22日にワシントンD.C.で開催された極東委員会において、ニュージーランド代表は、海上保安庁関連法案が極東委員会の対日非武装政策に違背していると批判し、オーストラリアもこれに同調した[15]。ニュージーランド代表は、極東委員会が海上保安庁法案を廃案できる権限を持つべきという草案を提出し、これに対して反対したのはアメリカのみで、ニュージーランドのほかオーストラリア、中華民国、フランス、フィリピンが賛成、イギリス、カナダ、インド、オランダ、そしてソ連が棄権した[15]。イギリス、特に海軍本部はもともと日本に沿岸警備程度の能力を認める方針でいたため、イギリス連邦内の連帯性の欠如に衝撃を受け、オーストラリア・ニュージーランド両政府に対し、海上保安庁に厳しい制限を課することを説明するとともに、イギリスがアメリカと協調する意思を伝えた[15]。
その後、同月28日に東京で開催された対日理事会でも、オーストラリアは海上保安庁法案を問題にすることを要望していたが、同理事会ではイギリス連邦としての代表(パトリック・ショー(英語版))が1名のみ出席する形であったため、イギリス外務省からの命令により、反対のトーンはかなり弱くなった[15]。中国代表(商震上将)は「日本海軍部隊の再興」を防ぐべきと要請した[15]。ソ連代表(アレクセイ・パヴロヴィチ・キスレンコ(ロシア語版)少将)は、極東委員会が承認するまで海上保安庁関連法の実施を差し止めることを求めたが、同委員会では海保について何らの政策決定も下していなかったことから、ダグラス・マッカーサー元帥の判断によって無視された[12]。また上記の海上保安庁法第二十五条の存在によって、キスレンコ少将は海保が軍事組織ではなく警察組織であることを認めざるを得なくなり、アメリカ側を満足させた[16]。
このように、直前に至るまで国際的な論議の的となっていたものの[13]、4月27日には海上保安庁法が公布され、5月1日には海上保安庁が正式に発足した[7]。これに伴い、不法入国船舶監視本部は発展的解消を遂げた[7]。また第二復員局から掃海業務を引き継いでいた海運総局の掃海管船部掃海課(田村久三課長)も、保安局掃海課として海上保安庁に移管された[17]。
1950年6月に朝鮮戦争が勃発すると日本国内の治安の確保が重要になり、7月8日に「警察力増強に関するマッカーサー書簡」が発せられたが、これには警察予備隊の創設とともに海上保安庁の増強も盛り込まれていた[18]。従来の海上保安庁法には、上記の制限に従って職員総数と船舶隻数、その全トン数の制限規定が盛り込まれていたが、10月23日、マッカーサー書簡に基づいて「海上保安庁法等の一部を改正する政令」(政令318)が制定されて、職員総数は18,000名、船舶の隻数は200隻、また合計トン数は8万排水トンへと緩和された[17]。また強化策の一環として、海上保安大学校、海上保安学校および海上保安訓練所が設置された[17]。
また1950年10月には、極東海軍司令部参謀副長(DCSTFE)アーレイ・バーク少将より、ソ連海軍から返却されたあと横須賀港に係留されているタコマ級フリゲート(PF)を海上保安庁に提供してもよいとの申し出があった[19]。ただしトルーマン大統領は、これを用いて海上保安庁にアメリカ沿岸警備隊と同様の軍事的性格を付与することを構想していたのに対して、アメリカ極東海軍はこれを海軍そのものを再建するための礎と捉えており、野村吉三郎元海軍大将など海軍再建を志向する旧海軍軍人とともに、その方向で動き出していた[20]。
平和条約の発効直前の1952年4月26日、これらの軍艦を運用するため、海上保安庁の附属機関として海上警備隊が設置された[18]。これは海上保安庁の在来の勢力とは異なり、平時においてはひたすら訓練を重ね、海上における人命もしくは財産の保護または治安の維持のため緊急の必要がある場合に満を持して出動するための部隊であり、機動的予備隊のような性格をもつものと位置付けられた[18]。またこの際の海上保安庁法の一部改正により海上保安庁の規模についての制限が撤廃されるとともに、航空機の保有についても規定が置かれた[18]。
平和条約が発効すると、警察予備隊と海上警備隊およびこれと密接な関係のある海上の警備救難業務を統合して一体的運営を図るため、保安庁を設置することが検討されるようになった[21]。当初の計画では、保安庁の設置にあわせて海上保安庁は解体され、海上における警備救難業務は保安庁に新設する海上公安局に移すほか(保安庁法及び海上公安局法)、海事検査部の所掌事務および海上交通の保安に関する事務は運輸省の各局に分属させ、水路部、燈台部、海上保安審議会および水先審議会は、それぞれ運輸省の附属機関とすることになっていた[21]。
しかし第13回国会で海上公安局法案を審議する過程で、「防衛的性格を有する部隊を中心とする機関と、行政事務を所掌する機関とを同一の組織のもとにおくことは行政組織の常識に反する」「海上保安庁の船舶は純然たる非軍事的公船であるのに、保安庁のもとに入ることで軍艦に準ずるものであるとの印象を与え、李承晩ライン等において外国官憲と摩擦を生ずるおそれがある」「警備救難業務と燈台・水路業務とを切り離すため、海上保安行政の統一が保たれなくなる」など、多くの疑問点が指摘された[21]。この結果、海上公安局法案は同国会を通過し、1952年7月31日に公布されたものの、その施行は別に法律で定める日まで延期されることになった[21]。従って、保安庁の発足に伴って海上保安庁において行われた組織改正は、海上警備隊および航路啓開所の業務を保安庁に移すとともに海事検査部の業務を運輸省に引き継ぎ、水先審議会および海難審判理事所をそれぞれ運輸省および海難審判庁の附属機関として移管したのみで、海上保安庁は従来どおり海上保安行政を統一的に行う機関として存続することになった[21]。
その後、1953年にも、行政改革の一環として海上保安庁を保安庁の外局とすることが検討されたが、この際には、受け入れ側である保安庁が「保安庁法の改正によって、警察組織というより防衛組織へと移行している現状で、いわば海上警察である海上保安庁を組み入れることは、異質のものを持つことになるため、好ましくない」と反対の態度を表明した[21]。また運輸省・海上保安庁も従来と同様の理由によって反対したほか、水産業界も、保安庁に移管されると軍事が優先されて海上保安業務が二義的業務とされることが予測されるとの理由で反対した[21]。このように各方面の反対が強かったため、結局、海上保安庁の保安庁への統合案は取りやめとなり、1954年7月1日、保安庁が防衛庁(現在の防衛省)に改組され、防衛庁設置法が施行されるのに伴い、海上公安局法は、施行されないままに廃止となった(防衛庁設置法附則第2項)[21]。
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