師岡 正雄(もろおか まさお、1960年2月15日[2] - )は、 フリーアナウンサー、元九州朝日放送、ニッポン放送のアナウンサー。
東京都世田谷区出身[1]。明治学院大学付属高校卒業[1]、高校時代はサッカー部に所属していた。明治学院大学進学以後も、特段運動系サークルに所属していたが、大学3年迄アナウンサーになることを考えていなかった[3]。
大学3年次のアルバイトで文化放送で働いていた際、泊まり番の師岡より2、3年上の男性アナウンサーからキャラクターのノリの良さと発声を褒められ、アナウンサーを勧められたことで、アナウンサーの仕事を志すことを決め、就職活動を開始[3]。
しかし、就職活動開始が遅れたことで、大学4年次からアナウンススクールを通い始めたため、キー局の就職試験を受ける事が出来ず、バイト先の文化放送も1983年度採用活動ではアナウンサーの求人を出して居なかったので、最後に採用試験に受験出来た九州朝日放送を受験し、1983年3月、同大卒業後の4月に入社[4]。
アナウンス部に配属され、2か月の研修の後、同年6月にラジオの天気予報で初鳴きし、その後は定時ニュースの読み上げ、テレビのキー局であるテレビ朝日への原稿送りを担当[5]。その後、平和台球場でのプロ野球地方開催試合の実況や若年層向けのラジオ番組のパーソナリティを担当[5]。 1988年の南海電鉄のホークス身売り、福岡への本拠地移転に伴い、同社組織変更で誕生したスポーツ部への異動を申し出たが叶わず[6]、以後業務をこなして来たが、高校時代の親友の突然の逝去で遠方の葬式に参列出来なかったことで、社会人から居住していた福岡県に居住することに心が折れ、地元である東京へ戻ることを決意し[7]、当時、スポーツ雑誌に掲載されていた、ニッポン放送の中途募集広告を目にし、中途募集受験。採用結果が出る前に、1993年1月に九州朝日放送を退職。
中途募集試験に合格し、同年3月1日付でニッポン放送に移籍[8]。入社1ヶ月後の同年4月、当時のスポーツ部長に呼び出され、同年5月15日に開幕する当時、ラジオ独占中継権を獲得したJリーグの中継の実況の担当に指名される[9]。以後、『ニッポン放送ショウアップナイター』と並行して『Jリーグ RADIO』の実況を担当。同年5月15日にJリーグ開幕戦である、ヴェルディ川崎×横浜マリノスのラジオ実況中継を担当した[9]。
また、サッカー日本代表の試合の実況中継も担当。1993年に開催された、FIFAワールドカップ アメリカ大会のアメリカ ワールドカップ アジア予選で一次、最終予選のラジオ実況中継を主に担当[9]。同年10月28日の日本対イラク戦の「ドーハの悲劇」の瞬間[2]、1997年に開催されたFIFAワールドカップ フランス大会のワールドカップ フランス大会 アジア予選の最終予選全試合の実況を担当し、「ジョホールバルの歓喜」といわれるアジア第3代表決定戦である、日本対イラン戦のラジオ中継を担当した[9]。
フランスワールドカップ終了を機に、『サッカー代表戦」及び『Jリーグ RADIO』のメイン実況から、『ショウアップナイター』メインの仕事にシフト。また、同局がラジオ独占中継権を手にして開始した、MLB中継で、1996年は当時:ロサンゼルス・ドジャースに移籍しMLBデビューした、野茂英雄、2003年、ニューヨーク・ヤンキースに移籍した松井秀喜のメジャーパーソナリティとして長期取材するため、アメリカ合衆国に長期滞在した。
その後、同局スポーツ部副部長まで昇進したが、57歳の時点で早期退職優遇制度を利用し、2018年1月31日付でニッポン放送を退職[10]。フリーアナウンサーとして、同局と契約アナウンサーとして継続して番組出演を続けている[11]。また、同じ早期退職制度を利用して退職した、松本秀夫が立ち上げた劇団チェンジアップ主催のコント芝居にも出演している[12][13]。
Category:ニッポン放送のアナウンサー
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