国王(こくおう、英語: king, フランス語: roi, ドイツ語: König, ノルド語: kong, ラテン語: rex)は、国の君主(王)を指し、その称号(君主号)でもある。特に男性である場合(男王)を指す。
元来、漢字の「王」は、殷・周王朝の君主の称号として使われた。周王は天下(世界)を治め、諸侯は周の封建制の下で国(領地)を治め「公」を称した。春秋時代に周が衰微し、有力諸侯の群雄割拠の時代になっても周王のみが王を名乗った[注 1]。
戦国時代になると、各国の君主が「王」を名乗った。以降は、「王」はもはや天下ではなく、領地(国)を治める領主と認識されるようになった。そのため、中華世界を統一した秦王の政は「王」号を廃し「皇帝」号を作り自ら称することになった(始皇帝)。それに続く漢も「皇帝」を君主号として使用した。三国時代や東晋十六国時代、五代十国時代など皇帝が乱立する時代はあったものの、最後の王朝清まで、中国では「皇帝」が至上の君主号であった。
日本では、古来から君主をさすものとして「キミ」が用いられ、ヤマト王権の君主にはオオキミの称号が用いられており、これは「大王」と漢字が当てられている。また対外的には漢委奴国王や倭国王として封じられた倭の五王のように、中華政権から国王として冊封されたものもいる。天武天皇期より君主には天皇の称号を「皇帝」に相当する称号として使用してきた。また「王」の称号は、皇族が称する称号として残った。一方で、中華政権から冊封を受け、南朝の懐良親王や征夷大将軍の足利義満が「日本国王」を称した事例があるが、これは外交上の称号に過ぎず、国内で公式に用いられることはなかった。江戸時代においては中華政権との正式な国交はなく、江戸幕府将軍は朝鮮との外交上では「日本国大君」の称号を用いた。ただし正徳期に新井白石の提案で一時的に「日本国王」の号を用いている。
君主が国内向けには「国王」と自称していない場合も、中国の皇帝との関係上、対外的に称する外交称号として用いられた事例がある(日本の征夷大将軍、ベトナムの太上皇など)。琉球以外の日本では制度上国王という位が設けられたことはないが、天皇を指して国王、王と呼ぶ例は軍記物語などの文献に広く見られる。これは、「国王」ないし「王」が、元来は一般に君主を意味することによるものである。
前漢以降の中国では、「王」は皇帝に服する称号で、爵位の一つ(諸侯王)となった。爵位としての「王」は皇帝に次ぐものとされ、皇帝の一族や功臣が各郡などに封じられるときに与えられた。また、皇帝の支配の及ばない外国の君主にも「王」を与えることで、「世界を支配している」という事実を作ろうとした(冊封体制)。そのため、中華文化圏では「王」は中国皇帝から賜る称号の一つであり、中国皇帝に臣従した証しとなった。隋代には「国王」「郡王」の爵位が用いられ、「国王」は「郡王」などより格上の爵位ではあったが、国家の君主である国王の意味は持たなかった。そのため実際には国王であっても、あまり重要視しない国王の場合は、「郡王」などの格下の称号が与えられる場合があった。「王」の字を用いた爵位としては他に「親王」「嗣王」「藩王」が知られる。
ヨーロッパには元々は各地域ごとに君主の名称があった。初期の神聖ローマ帝国においては、君主には国王、皇帝、大公/公(プリンス)の3つの概念があり、国王のうち教皇から皇帝として承認を受けた者のみが皇帝であり、国王とするほどではない小君主が総称的にプリンスと呼ばれた。
ヨーロッパの多くの皇帝がローマ帝国を起源としているのに対し、英語の king のようなゲルマン系の王の名称は血統を意味する kin から派生しているため、より血統が重視された。皇帝は実力のある者が推戴されることが建前であり、このためローマ帝国、東ローマ帝国ではしばしば実力者が武力闘争やクーデターによって皇帝となり、神聖ローマ帝国では選挙制が維持された。コルシカ島生まれの軍人に過ぎないナポレオン・ボナパルトが皇帝に即位したのは、王に即位すれば反革命とみなされかねないという事情もあるが、皇帝が国民から推戴される存在という意識があったことも背景にある。
ゲルマン系の王は元々は戦争時に臨時に選ばれるもので、これがゲルマン、スラヴ系の選挙王制につながり、前述の神聖ローマ帝国の帝位の選挙制もこれに由来するという事情もあるが、この場合でも王位については、その血統を引くことが選出の条件となった。またケルト系のタニストリー制でも王の血統を持つ者から選ばれる。近代に入って新たに独立した国々が王制を採用した場合、多くの国では最初から王が存在しないか、既に王家の血統が絶えていることが多かったが、その場合でも自国の貴族から選ぶより、他国から君主の一族を招いて王とすることがしばしばあったのも、王となるのは王の血統を引いた者といった概念があったからである。また、ゲルマン諸族において別の部族の有力者を王に推戴した前例があったことから、血統を最優先し他国の者であっても王として迎え入れることを厭わない傾向に拍車をかけることとなった。ヨーロッパではほとんどの場合、王朝交代があっても傍系か女系の血統を引いている。
他国から王を迎え入れる場合、ドイツ系が非常に多かったが、これは神聖ローマ帝国が統一されず、国内に王号やそれに準ずる爵位を保持する領邦君主が多数存在し、ひいては王位を継ぐにふさわしい家系が多数存在したからである。なおかつ神聖ローマ帝国内の小国であるので、そこから王を迎え入れても自国への干渉や支配を排除できたからである。皇帝が実力制・選挙制であるため、過去に神聖ローマ皇帝を輩出した家系が多数存在し、逆説的にそういった家系が王家にふさわしい血統と認識されたという事情もある。
王位継承法により女性の王位継承を認める場合とそうでない場合がある。フランスやドイツなどサリカ法を採る地域では女性の王位継承を認めない例が多い。近代では女性の王位を認める国が増えている。女性の場合女王という。
近代では立憲君主制を採用する国が多く、そのような国では国王の役割は儀礼的なものとなってきているが、外交や公式・非公式な場での発言などによる政治的な影響力は大きい。
この一覧は、国際連合加盟国の国王または各国それぞれの称号を持つ君主の一覧であり、イスラム諸国におけるマリク、スルターンなどを含む。君主であってもエンペラーと訳される天皇や、首長と訳されるアミール、また大公や公は記載せず、イギリスの君主が兼ねる、イギリス連邦諸国に関しては、イギリスをのぞいて記載しない。また、国家内の自治領・州等に存在する国王は含めない。順序は地域別の在位年数による。
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