チャルディラーンの戦い (チャルディラーンのたたかい、Battle of Chaldiran 、Chaldoran あるいはÇaldıran とも)とは、1514年 8月23日 に、アナトリア 高原東部のチャルディラーン (Chaldiran ) で行われたオスマン帝国 と新興のサファヴィー朝 ペルシア との戦い。
鉄砲と大砲が騎馬 軍団を撃破した軍事史 上大きな意義を持つ戦いである。騎馬隊 と鉄砲隊の戦いということから、後の日本の長篠の戦い にたとえられる[ 7] [ 8] 。
ただ、後述に記す通り兵力差が物をいった戦いとも思われる。
サファヴィー朝軍4万に対して、オスマン帝国軍は6万から20万の大軍を擁し、軍の質も高かった。戦いはオスマン帝国軍の勝利で終わり、大将のイスマーイール1世 自身も捕らえられる寸前で退却した。彼の妻たちもセリム1世に捕獲され[ 9] 、そのうちの一人がセリムの側近と婚約させられると[ 10] 、イスマーイールは政治への興味をなくし、帝国の統治に関与しなくなった[ 11] 。
この戦いは、サファヴィー朝軍のクズルバシュ の最強神話を打ち崩した[ 12] だけでなく、両帝国間の勢力範囲を画定させ、クルド人 の帰属をサファヴィー朝からオスマン帝国へと切り替えた点[ 13] でも、歴史的な重要性をもつ。
一方でこの戦いは、1638年 にゾハブ条約 (Treaty of Zohab )が締結されるまでの124年間に及ぶ両帝国間の抗争の始まりに過ぎなかった。
地名Chaldiranに関して、日本語の文献では「チャルドラン の戦い」という表記する場合もある[ 14] 。
背景
セリム1世 はその即位の過程で兄弟達と争ったが、その際にセリムとの抗争で不利な立場にたったアフメド王子はサファヴィーのイスマーイール1世 に助けを求め、その息子のムラトもクズルバシュ としてイスマーイールの配下に入った。彼らや、それを後押しするサファヴィー朝軍がオスマン領アナトリア へ侵攻したことから、セリムにはアナトリアからこれらの勢力を一掃する必要があった[ 15] 。
セリムはまず、ハンガリーなどと和平を結んで背後の危険を取り除き、さらにアナトリア各地で調査を行ってイスマーイールの同調者を投獄・処刑した。一説によれば、このとき4万人もの人々が殺されたという[ 16] 。さらに、法学者たちから「イスマーイールとクズルバシュは異端 であり、彼らを討つことは聖戦 である」という法解釈を引き出し、戦いの正当性を示した[ 17] 。
セリムが出陣すると、イスマーイールは焦土作戦 でこれに対抗した。東アナトリアやコーカサス の地形は荒く、イスマーイールのとった焦土作戦のせいもあり補給は困難だった。オスマン帝国軍の士気は上がらず、イェニチェリ はその不満を示すためにセリムのテントに発砲することすらあった。しかしセリムは、サファヴィー朝軍がチャルディランに集結中であることを知ると、すぐその地へと軍を向けた[ 18] 。
戦いの経過
戦闘
オスマン帝国軍は6万とも20万とも言われ、対するサファヴィー朝軍は、1万2千とも4万ともいわれる西アジア最強で鳴らしたトルコ系騎馬軍団クズルバシュ であった。
戦いの前日にサファヴィー朝軍は布陣を終えたが、左翼を受け持った将軍ムハンマド・ハーン・ウスタージャルーと右翼を受け持った将軍のドルミーシュ・ハーン・シャームルーとの間で、夜襲を行うか否かで意見が対立したために、結局イスマーイール1世が正面攻撃を行うことを決意することになった。
夜が明けると、サファヴィー朝軍の騎馬軍団クズルバシュが怒濤のような猛攻を行い、オスマン帝国軍の右翼を守るアナトリア騎兵軍を突き崩すほどであった。しかし、戦局は鉄砲 を装備したイェニチェリ と鎖でつないだ大砲 を軍勢の中央に配置したオスマン帝国軍が騎兵をことごとくうち倒す形になり[ 19] 、右翼の傷も救援に回ったイェニチェリ鉄砲隊によって形勢が逆転し、サファヴィー朝軍は善戦する左翼ムハンマド・ハーン・ウスタージャルーを失って総崩れとなった。結果、イスマーイール1世はかろうじて戦場から逃れるほどの惨敗となった。
オスマン帝国軍の追撃
オスマン帝国軍は、9月にはタブリーズ を占領する戦果を上げた。本来セリムはさらにイスマーイールを追走し、サファヴィーの息の根を止めるつもりであったとみられる[ 20] 。しかし、補給の困難と遠征による疲れや軍勢内部に徐々に広がった厭戦気分から深追いをさけて退却せざるを得なかった。
影響
イズニク陶器
敗戦と2人の妻を捕らえられたことで、イスマーイール1世の不敗神話には大きな傷がついた。以後彼は国政への興味を失い[ 21] 、酒に溺れる日々を過ごすようになる[ 22] 。イスマーイールは1524年 に37歳で没するが、その後を継いだタフマースブ1世 は次の戦いに向けて大砲を配備を進めるなど、徹底した国内改革に着手した。
戦いの結果、オスマン帝国が東アナトリア ・ 北イラク での支配権を得た。サファヴィー朝はアゼルバイジャン ・ロレスターン ・ケルマーンシャー などの地域を失い、後にこれらを回復した一方で、イラク・クルディスタン ・アルメニア などは永久に失われることになった。イラク におけるシーア派 宗教施設の喪失はペルシア・あるいは今日のイランにとっては精神的に大きな痛手であり、これらを回復しようとするイランのイラク側への干渉は、この戦いに端を発している。
この戦いは周辺地域に多くの影響を及ぼしたが、その最も大きなものは両帝国の勢力範囲が画定されたことであると言えるかもしれない。このときの国境線は、今日のトルコ=イラン国境にも通じている。また、これによりサファヴィー朝の首都タブリーズが国境に面する対オスマン最前線の都市となり、常にその脅威にさらされることとなった。サファヴィー朝が16世紀 中ごろにカズヴィーン 、1598年 にイスファハーン へと遷都するのは、これが主な要因であったと推測される。
タブリーズ包囲の際、オスマン帝国軍は多くの商人や陶磁職人を自国へと連行した[ 23] 。イズニク陶器(w:Iznik pottery )の発達には、このことが大きく寄与していると言われている[ 24] 。
戦場跡
戦場跡につくられたモニュメント
2003年 、Jala Ashaqi村近くの戦場跡に煉瓦でできたドーム状のモニュメントが建造された。また、サファヴィー朝の武将であるSeyid Sadraddinの銅像も建っている[ 25] 。
脚注
^ a b 林佳世子『興亡の世界史10 オスマン帝国500年の平和』講談社、2008年、p.110頁。ISBN 978-4062807104 。
^ Keegan & Wheatcroft, Who's Who in Military History , Routledge, 1996. p. 268 「1515年、セリム1世は6万の軍を率いて東へ向かった。その部隊はアジア最強のイェニチェリ 、スィパーヒー 、騎兵隊等で構成され、どの兵科もよく訓練されていた。(中略)イースマイール1世率いる兵は主に徴兵されたトルクメン人 によって構成されていた。彼らは勇敢だったが、訓練の質と兵力の点でオスマン帝国軍に劣っていた(…)」とある
^ a b Ghulam Sarwar, "History of Shah Isma'il Safawi", AMS, New York, 1975, p. 79
^ a b Roger M. Savory, Iran under the Safavids, Cambridge, 1980, p. 41
^ 前掲、林『オスマン帝国500年の平和』p.110 には、「両軍とも約10万の軍勢だった」ともある。
^ Serefname II s. 158
^ 羽田正 著「第2章 サファヴィー朝の時代」、永田雄三・羽田正編 編『世界の歴史15 成熟のイスラーム社会』中公文庫、2008年、pp.277-285頁。ISBN 978-4-12-205030-3 。
^ 羽田正 著「第2章 東方イスラーム世界の成立」、鈴木董・編 編『新書イスラームの世界史(2)パクス・イスラミカの世紀』講談社現代新書 、1993年、pp.82頁。ISBN 4-06-149166-0 。
^ The Cambridge history of Iran, By William Bayne Fisher, Peter Jackson, Laurence Lockhart, pg.224
^ The imperial harem: women and sovereignty in the Ottoman Empire, By Leslie P. Peirce, pg. 37
^ An Introduction to Shiʻi Islam: The History and Doctrines of Twelver Shi ism, By Moojan Momen, pg. 107
^ The Cambridge history of Iran, By William Bayne Fisher, Peter Jackson, Laurence Lockhart, pg. 359
^ The Islamic world in ascendancy: from the Arab conquests to the siege of Vienna, By Martin Sicker, pg. 197
^ 山川出版社 『詳説 世界史研究』(1995年初版本)p.307 など。また、ラテン文字転写も「Calduran」としている。
^ 林(2008)p.108
^ 林(2008) p.109
^ Finkel, C: "Osman's Dream", page 104. Basic Books, 2006.
^ Id. at 106,
^ A military history of modern Egypt: from the Ottoman Conquest to the Ramadan War, By Andrew James McGregor, pg. 17
^ 林(2008)p.111
^ The history of Iran, By Elton L. Daniel, pg. 86
^ The Cambridge history of Islam, Part 1, By Peter Malcolm Holt, Ann K. S. Lambton, Bernard Lewis, pg. 401
^ 新井政美 『オスマンvs.ヨーロッパ <トルコの脅威>とは何だったのか』講談社選書メチエ、2002年 p.119
^ Cities of the Middle East and North Africa: a historical encyclopedia by Michael Dumper, Bruce E. Stanley p.196
^ Lonely Planet Iran, 4th edition, p125
参考文献