CIA の発表したクルド人居住地域の地図
クルディスタン (クルド語 كوردستان / Kurdistan )は、中東 北部の一地域。トルコ 東部、イラク 北部、イラン 西部、シリア 北部とアルメニア の一部分にまたがり、ザグロス山脈 とタウルス山脈 の東部延長部分を包含する、伝統的に主としてクルド人 が居住する地理的領域のこと[ 1] 。チグリス ・ユーフラテス川 の中上流域を中心に広がる山岳地帯である。面積は約392,000km2 。
「クルド人の地/国」を意味する。ペルシア語 ではコルデスターンといい、イランには同名の州コルデスターン州 が存在する。イラクでは自治区のクルディスタン地域 、シリアでは自治区のロジャヴァ を構成する。
クルディスタンという名称は、12世紀にセルジューク朝 のアフマド・サンジャル がエルデランに相当する地域(今日のイランのコルデスタン州とほぼ一致)に設置した州の名前として、初めて使われた[ 2] 。
特定のクルド人の都市では、都市集落は先史時代にさかのぼることができる。特に、ピランシャールには約8,000年前の都市集落があり、エルビルには約6,000年前の都市集落がある[ 3] [ 4] 。
歴史
古代
カルドゥチ (英語版 ) 、紀元前60年 頃
紀元前3000年 頃、シュメール の楔形文字 の粘土板 に"Kar-da"ないしは"Qar-da"と呼ばれる土地の名前が現れる。ゴッドフリー・ロールズ・ドライヴァー (英語版 ) はこれを「クルド」の最も初期の形であると示唆しており、その説に倣うならば、これが最も早いクルドに関する記録となる[ 6] 。
今日、クルディスタンとして知られている地域はペルシア (イラン)とメソポタミア の間、ヴァン湖 の南と南東の高山地域のことである。ここは、クセノポン の時代以前よりクルド人が支配しており、カルドゥチ (英語版 ) (英 : Carduchi, Cardyene, Cordyene, 希 : Καρδούχοι )の名で知られる国が存在した[ 7] 。
古代ローマ はその絶頂時に、クルド人が住んでいる広大な地域、特に中東の西と北のクルド人地域を支配した。カルドゥチ (英語版 ) のようなクルド人王国は、ローマ帝国の封建州となっていた。紀元前189年 から384年 、古代カルドゥチは北メソポタミアを支配した。この王国はティグラノセルタ (Tigranocerta) の東に存在した。トルコの南東にある今日のディヤルバクル の東側および南側に相当する。カルドゥチは、紀元前66年 にローマ共和国 の封建 州となり、384年 までローマと同盟状態にあった。
「クルドの地」の語が初期の記録に現れた一例として、シリア語 でのキリスト教 の文章がある。この文章は中東での聖アブディショ (英語版 ) の様なキリスト教の聖者 を記述している。サーサーン朝 のマルズバンがアブディショに出身の地を聞いた際に、彼は両親がアッシリア の村ハザ (Hazza) の出身であると答えた。しかし、両親は異教徒によりハザから追い出され、タマノン (Tamanon) に定住した。そこは、アブディショによると「クルドの地」であった。この村は、現在のイラクとトルコの国境の北、現在のアルビール の南西12kmに存在する。同じ文章の他の部分ではハブール川 地域が「クルドの地」と記載されている[ 8] 。
中世
マフムード・カーシュガリーによる地図(1074年)。アルズ・アッシャーム(シリア)とアルズ・アル=イラーキイン(両イラク:イラーキ・アラブとイラーキ・アジャムすなわちイラン)の間にアルズ・アル=アクラード(クルドの地)がある。
10世紀 後半、地域には5つの地方王朝が成立した。北側をシャッダード朝 (951年 - 1174年 :アルメニア とアッラーン の一部)と、ラワード朝 (英語版 ) (955年 - 1221年 :タブリーズ とマラーゲ 付近)に、東側をハサナワイフ朝 (英語版 ) (959年 - 1015年)とアナーズ朝 (英語版 ) (990年 - 1116年:ハルワーン 、ケルマーンシャー 、ハーナキーン )、西側にマルワーン朝 (英語版 ) (990年 - 1096年:ディヤルバクル )が支配した。
中世 のクルディスタンは「イマーラト」すなわちアミール 領と呼ばれる半独立、一部独立の国家集合体であった。通常、これらはカリフ やシャー の間接的な政治的、宗教的影響下にあった。これらのクルディスターンの諸勢力と近隣国との複雑な関係は、1597年 にシェレフハーン・ベドリースィー (英語版 ) (クルド語 : Şerefxan Bedlîsî)による鑑文学「シャラフナーメ (英語版 ) 」に記載されている[ 9] [ 10] [ 11] 。よく知られているクルド系アミール領は、今日のイラクのババン 、ソラン (英語版 ) 、ベフディナン (英語版 ) 、ゲルミヤン (英語版 ) 、トルコのバクラン [要出典 ] 、ボフタン (英語版 ) 、ベドリース (英語版 ) 、イランのムクリヤン (英語版 ) 、エルデラン (英語版 ) に相当する。
近代
アブデュルハミド二世の時代にアラビア語で印刷されたオスマン帝国の地図にあるクルディスターン地方
クルディスタンの旗 。現在はイラク領クルディスタン地域 の旗。
16世紀 に、クルド人居住区は、長い戦いの後サファヴィー朝 とオスマン帝国 に分割された。クルディスタンに対する最初の重要な分割は1514年 のチャルディラーンの戦い の後に行われ、1639年 のズハーブ条約 (英語版 ) により公式のものとなった[ 12] 。第一次世界大戦 前には、ほとんどのクルド人はオスマン帝国内のクルド州 に住んでいた。[要出典 ] オスマン帝国の解体後、連合国 は旧オスマン領のこの地域を分割し複数の国を作る合意と計画を行っていた。批准されなかったセーヴル条約 に基づいた、アルメニア 沿いにあるクルディスタンもその一つであった。しかし、ケマル・アタテュルク によるアナトリア東部の再占領や他の差し迫った問題が、連合国にトルコとの再交渉を認めさせた。結果、ローザンヌ条約 により、現在のトルコ共和国 の国境の大部分が確定された。これによりクルディスタンの独立の機会は失われた。クルディスタンの他の領域は、両条約において、イギリス とフランス による委任統治 領(イラク とシリア )の内部に併合された。
第二次世界大戦 後をにらんだ1945年 のサンフランシスコ会議 において、クルド人の代表団は、クルド人が主張するクルディスタンの地理的な範囲を示した。この提案では、地域はアダナ 近くの地中海 の海岸から、ブーシェフル 近くのペルシア湾 の海岸まで広がっている。これには、ザグロス山脈 の南の居住区であるルア も含まれている[ 13] [ 14] 。
第一次世界大戦後はサイクス・ピコ協定 を基本とした国際協定によりクルディスタンはいくつかの国に分割され、それぞれの国においてクルド人は少数派 である[ 13] [ 15] 。クルド人同士は国境 を越えた往来がある。それは密貿易 [ 16] や、それぞれの国において自治権拡大や独立を求めての政治活動・軍事行動も含む。トルコは国外に拠点を置くクルド人勢力への越境攻撃も行っている。
1946年1月、イラン西部のクルド人はソビエト連邦の支援を得てマハーバード共和国 を樹立。したが同年中に独立を認めないイラン政府の猛攻により瓦解した。これによりイラン国内のクルド人が弾圧されるようになったが、1978年までにイラン革命 の機運が高まるとこれに乗じ、イラン・クルディスタン民主党を中心に自治権 の獲得を目指した。
しかし革命後のホメイニ政権はイラン・クルディスタン民主党を非合法化して弾圧、イラン・クルディスタン民主党はケルマーンシャー州 の都市[ 17] や西アーザルバーイジャーン州 のマハーバードを占拠して対抗したが、イラン政府軍と革命防衛隊 の猛攻により1979年9月3日までに制圧された[ 18] 。
1991年 の湾岸戦争 の終結時、連合国は北イラクに安全地域を創設した。イラク軍が北部の3つの県から撤収した際に、イラクのクルディスタンはイラク内部の自治勢力として浮上し、1992年 には地方政府と議会が作られた。
シリア内戦 (2011年~)において、クルド人民防衛隊 を主体とするシリア民主軍 がシリアの一部を支配している。
主要都市
クルド人自治区
主な政党
脚注・出典・参考文献
^ "Kurdistan ", Encyclopædia Britannica , 2008, Encyclopædia Britannica Online.
^ Kerim Yıldız, Irak Kürtleri, Belge Yayınları, İstanbul, Haziran 2005, ISBN 975-344-329-3 , s. 21-22.
^ https://newspakistan.tv/8000-years-old-artifacts-unearthed-in-iran/
^ https://www.nytimes.com/2017/10/10/world/middleeast/iraq-erbil-citadel.html
^ Martin J. Dent, Identity Politics: Filling the Gap Between Federalism and Independence page: 99, Published 2004 Ashgate Publishing, Ltd., 232 pages, ISBN 0754637727
^ http://www.gutenberg.org/files/16167/16167-h/raw7a.htm
^ J. T. Walker, The Legend of Mar Qardagh: Narrative and Christian Heroism in Late Antique Iraq (368 pages) , University of California Press, ISBN 0520245784 , 2006, pp. 26, 52.
^ http://www.mazdapublishers.com/Sharafnama.htm
^ For a list of these entities see Kurdistan and its native Provincial subdivisions
^ 日本語ではシャラフッディーンについて永田雄三 ・羽田正 『成熟のイスラーム社会』中央公論社 , 1998, pp.329-344.に「二つの大国のはざまで—あるクルド人リーダーの苦悩」としてその生涯が語られている。
^ C. Dahlman, The Political Geography of Kurdistan , Eurasian Geography and Economics, Vol.43, No.4, pp.271–299, 2002.
^ a b C. Dahlman, The Political Geography of Kurdistan , Eurasian Geography and Economics, Vol.43, No.4, p. 274.
^ aka KURDISTAN | MAP OF THE KURDISH REGION
^ The map presented by the Kurdish League Delegation, March 1945
^ 【世界発2019】生活支えるクルド人密輸/イラン・イラク国境の山岳地帯 『朝日新聞 』朝刊2019年1月15日(国際面)2019年1月15日閲覧。
^ クルド族反乱で緊迫 全軍に出動命令 占拠のパペ市『朝日新聞』1979年(昭和54年)9月19日朝刊 13版 7面
^ イラン政府軍 ハマバドを制圧 クルド族 徹底抗戦崩さず『朝日新聞』1979年(昭和54年)9月4日朝刊 13版 7面
Ozoglu, Hakan (2012), Kurdish Notables and the Ottoman State: Evolving Identities, Competing Loyalties, and Shifting Boundaries , SUNY Press, ISBN 9780791485569
クルド人#参考文献 も参照
関連文献
山口昭彦 編『クルド人を知るための55章』明石書店〈エリア・スタディーズ〉、2019年。
関連項目
外部リンク
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