中学校に進学した岡村は友人とともに3人でフォークギターを持ち、文化祭にてオリジナル曲による初のライブ演奏を行った[5]。その後新潟県立新潟東高等学校に進学した岡村は1年生の時にバンドを結成、ベースとボーカルの担当となり自作曲でコンテストに出場するなど音楽活動を本格的に開始することとなった[5]。やがてナイトクラブでアルバイトを始めた岡村は生活が昼夜逆転するようになり高校を中退、時間が出来た岡村は周囲の人間が大学を卒業する22歳までに進路を決めるため、最も可能性の低い就業先として音楽家になるという道を選択[5]。岡村は当時大澤誉志幸の担当ディレクターであったEPIC・ソニー所属の小林和之を指名した上でデモテープを持ち込み、それを聴いた小林は第二期のジェフ・ベック・グループに近いと感じ好印象を受けたもののメロディーの幅がないことを理由にギターではなくピアノで作曲するように打診、それを受けた岡村はDX7を購入し再度デモテープを持ち込んだ[6]。その後小林が渡辺美里の担当ディレクターであった小坂洋二にデモテープを聴かせたところ、渡辺の楽曲の制作依頼が岡村に出されることとなり、2枚目のシングル「GROWIN' UP」(1985年)を担当することとなった[7]。岡村は渡辺以外にも楽曲制作を行うようになり、吉川晃司の7枚目のシングル「キャンドルの瞳」(1986年)のカップリング曲である「奪われたWink」や、鈴木雅之のソロデビュー・アルバム『mother of pearl』(1986年)収録曲である「別の夜へ 〜Let's Go〜」などを手掛けている[7]。作曲家として活動開始した岡村であったが、渡辺のレコーディングを見学するために訪れていた際に、マイケル・ジャクソンの楽曲に合わせて踊っていた岡村を小坂が目撃し、独創的なダンスに魅了された小坂の提案により岡村自身がミュージシャンとしてデビューすることが決定された[8]。同年9月19日に音楽誌『PATi PATi』による取材が行われ、これが岡村として初めての取材となった[4]。当時のEPIC・ソニーは毎年新人をデビューさせており、1986年には松岡英明および安藤秀樹と並んで岡村を強く推し出していく形となった[9]。10月9日からは東海ラジオ放送深夜番組『SF Rock Station』(1986年 - 1993年)の木曜パーソナリティーとして番組出演が開始[4]。12月1日にシングル「Out of Blue」でデビューを果たした岡村は同年12月21日に渡辺および白井貴子、TM NETWORKとのジョイント・イベントにてデビューライブ公演を行うこととなった[8]。同公演は日本武道館で開催されたが、岡村にとってこれが人生初のライブ出演となった[10]。12月24日には名古屋市民会館にて開催された『SF Rock Station』主催のイベントライブに参加、12月27日には青山ホンダ・ショールームにて開催された文化放送公開生ライブを実施した[4]。
岡村はデビューするに当たり、松田聖子およびビートルズ、プリンスの3者を三角形に見立て、その中央に位置するのが自身であるとの考えを主張した[11]。岡村によれば松田はセンチメンタリズム、ビートルズはポピュラリティ、プリンスはオリジナリティを表しているという[11]。岡村は特にプリンスから多大な影響を受けており、プリンスの4枚目のアルバム『戦慄の貴公子(英語版)』(1981年)収録曲でのちにリカットされた「セクシュアリティ」のミュージック・ビデオをテレビ番組で視聴したことからプリンスを知ることとなった[11]。プリンスのアルバムに「Producted, Arranged, Composed and Performed by Prince」とクレジットが記載されているのを見た岡村は、自身の作品においてもすべての作業を自ら手掛けることを目標にしていたが、本作では西平彰との共同作業が多いため、芸術総合誌『ユリイカ7月臨時増刊号 総特集=岡村靖幸』においてばるぼらは「プロとして一人前にやっていくための実践を通した練習期間だったと思われる」と述べている[11]。1980年代当時はファンクとロックとシンセポップが融合したミネアポリス・サウンドのような黒人音楽は希少であり、山下達郎や大澤誉志幸、米米CLUB、久保田利伸などの極僅かなミュージシャンが導入していたのみで、本作のようなブラック・コンテンポラリーを導入した作品は一般的ではなかった[12]。岡村自身はプリンス以外の知識に乏しいことから自身の音楽はブラックミュージックではないと述べているが、プリンスの影響による音楽性を大衆化させる試みは当時まだ珍しかったとばるぼらは述べている[12]。当時EPIC・ソニーに所属していたプロモーターの西岡明芳は、当時の岡村はまだファンク一色ではなく楽曲もダンスのために制作されておらずメロディーがしっかりしていたと述べている[13]。
本作の歌詞は本来は岡村が作詞する予定ではなかったが、結果としてほぼすべての作詞を手掛けることとなった[12]。西岡によれば岡村は当初シンガーソングライターという位置付けではなかったが、EPIC・ソニー内にアーティストに対するマニュアルやノウハウが無かったことも影響し、周囲の人間が岡村の言動を見て自由奔放に作詞も含めて表現することを提言したのではないかと推測している[13]。また、当時同じようなジャンルの音楽を制作していたアーティストの中にダンスを得意とした者はおらず、岡村がダンスを得意としていた影響によりEPIC・ソニーはダンスイベントとなる「DANCE TO HEAVEN」などを開催することとなった[13]。ライターのばるぼらは次作以降の歌詞と比較した上で「シリアスで抽象的なものが多い」と主張したほか、「多くはあるシチュエーションを想定し、そこに感情を盛り込むように書くようだ」と述べている[14]。また一部の曲中に語り口調が導入されているのは尾崎からの影響であり、ばるぼらは尾崎が「自分にとって恥ずかしい事を書くべきだ」という方向性で作詞を行っていたと主張した上で、岡村は自身の恥ずかしい部分は歌詞にすることはなく、一見赤裸々に書かれたように見える歌詞も同世代が共感できるように変化させた上で作詞することに岡村は重点を置いていると述べている[14]。ばるぼらは本作に関して、岡村による「僕をみんなに知って貰うための、最初の手掛かり」という言葉を引用した上で、「女の子にモテたくて音楽をはじめ、学生というモラトリアムを充分に経験しないままプロとして活動を開始し、将来を決定する期限に設定していたニニ歳という年齢の直前、後には引けないニ一歳の自分がソロ・アーティストとして今ここにいる。そんなリアリティを音楽に託した」作品であると総括している[14]。
シングル「Check Out Love」のカップリング曲。2012年リイシュー盤ライナーノーツでは、「気合の入った声の作り方に驚かされるロックンロールナンバー」であると記されており、サウンドに関しては「芯の太い米国風ロックを志向したようなサウンド」と指摘したが、「全体的にどこか借り物めいた座りの悪さも漂う」と総括している[20]。西岡は本曲についてビートルズの楽曲「エリナー・リグビー」(1966年)を彷彿させると述べている[21]。