クルブ・アトレティコ・サン・ロレンソ・デ・アルマグロ (スペイン語 : Club Atlético San Lorenzo de Almagro ) は、アルゼンチン の首都ブエノスアイレス のボエド 地区を本拠地とするサッカー クラブである。
概要
サン・ロレンソは、ボカ・ジュニアーズ 、リーベル・プレート 、インデペンディエンテ 、ラシン・クラブ と共にアルゼンチンサッカー の5大クラブ (los cinco grandes) に数えられ、通常、5大クラブ中5番目に位置づけられる。近年はほぼ毎年カップ戦の出場権を得るなど安定した成績を残しており、観客動員数はボカ、リーベルに続き3位である。全国区のクラブだが、サポーターは地元ボエド地区への愛が強く、優勝後は同地区にあるサン・フアン大通りとボエド大通りの交差点に集結する。他の全国区クラブのサポーターが、ブエノスアイレス の中心街にあるオベリスコ に集まるのと対照的である。ライバルは、ボエドに隣接するパルケ・パトリシオス地区のウラカン 。この対戦と他の5大クラブとの対戦がクラシコ (ダービーマッチ )として扱われる。
サッカー 中心ではあるものの、他にフットサル 、ラグビー 、バスケットボール 、バレーボール 、ハンドボール 、テニス 、ローラーホッケー 、フィールドホッケー 、水泳 、ボウリング 、空手 、テコンドー 、フィギュアスケート を取り揃えた総合スポーツクラブである。
歴史
誕生
サレジオ会 のロレンソ・マッサ (英語版 ) 神父[ 2]
きっかけはアルマグロ地区の教会近くの通りでサッカー に興じていた少年たちのグループと一人の神父の出会いであった。ある日いつものようにサッカー をしていたグループの一人が車にひかれかけた。それを目撃した教会のロレンソ・マッサ神父が、毎週日曜日のミサ に参加することを条件に少年たちに教会の敷地を提供した。これにより、少年たちは教会内という安全な場所で思う存分サッカー ができるようになった。神父は同時に、読み書きなど生活する上で必要になることを少年たちに学ばせた。
こうして生まれた出会いと交流がやがて正式なクラブ設立に発展する。ほどなくロレンソ・マッサ神父同席のもとクラブの名称決定をテーマに最初の集会が開かれた。少年たちの大半はアルマグロ地区の出身で、彼らの間ではいつからか名乗っていたLos Forzosos de Almagro(アルマグロの猛者たちの意)をそのまま正式名称にすることで合意ができていたが、神父は暴力的な響きがあることから異議を唱えた。再考を余儀なくされた少年たちが様々な名前を出し合った結果、次に神父への感謝と敬意からその名を冠したSan Lorenzo(聖ロレンソの意)が選ばれた。ところが神父は恐れ多いこととしてこれにも難色を示した。しかし結局、殉教者の聖ロレンソ(ローマのラウレンティウス )及びサンロレンソの戦い に由来する名前とするならばよいとして同意が得られた[ 3] 。最後に少年たちのリーダー的存在であったフェデリコ・モンティが「アルマグロの」を意味するde Almagroを付け加えることを主張、一同これに異存なくクラブの正式名称が決まった。
1908年4月1日のこの日、San Lorenzo de Almagroは誕生した。
黎明期
クラブとしてスタートを切ったサン・ロレンソは、1911年資金不足からいったんその活動を停止してしまう。しかし1913年末には創設メンバーのフェデリコ・モンティらが資金を工面して再開させた。1914年には現在のアルゼンチンサッカー協会 、Asociación del Fútbol Argentino (AFA) の源流であるAsociación Argentina de Football (AAF) の2部リーグに参加し優勝、1915年には早くも1部に登りつめた。翌年の1916年には最初のスタジアム、ガソメトロ をボエド地区に所有する。以後サン・ロレンソはボエドのクラブとして発展していくこととなる。
まだアマチュアであった当時はクラブ数の急増による新規リーグの設立や、既存リーグを取り仕切る協会と参加クラブの対立による分裂もあり、複数の協会とそのリーグが並び立つことが多かった。そのような中サン・ロレンソは、1919年にリーベル・プレート 、インデペンディエンテ 、ラシン・クラブ 、ベレス・サルスフィエルド らと共にAAFから分裂したAsociación Amateur de Football (AAmF) のリーグに参加、1923年に初優勝すると、翌1924年にも優勝し連覇を達成。続く1925年、1926年は2位に甘んじたが、1927年にはAAFとAAmFの再統合により成立したAsociación Amateur Argentina de Football (AAAF) のリーグで再び栄冠に輝いた。
発展期
1931年、主要なクラブがAAAFから離れLiga Argentina de Football (LAF) を組織、プロリーグ を開始した。所属クラブの許可がなければ他クラブへ移籍できないという規定に縛られていた選手たちがその自由を求めて前年にストライキの実施を宣言したが、問題の解決策を巡って主要クラブとその他のクラブが対立したのが原因であった。残ったクラブはAsociación de Football Amateurs y Profesionales (AFAP) という名称でアマチュアリーグを継続した。
サン・ロレンソは現在共に5大クラブに数えられる4クラブや他の有力クラブと意見を同じくし、初年度からプロリーグ に参入。1年目はボカ・ジュニアーズ に振り切られて2位、続く2年目は5位に終わったものの、タイトルを獲得したリーベル・プレート らと終盤まで優勝争いを演じた。そして3年目となる1933年、最終節でボカを上回りプロ化後初優勝を飾る。残すところ3節の時点で迎えた直接対決で2-0の勝利を収めたサン・ロレンソは首位に立った。しかしその次の節でCAインデペンディエンテ に敗れ勝ち点48のままとなり、ボカがラヌース に勝利して勝ち点49としたため再び順位が入れ替わった。最終節でボカが勝利した時点でサン・ロレンソの優勝はなくなるところであったが、ボカはリーベルと戦い1-3の敗北、一方サン・ロレンソは1-0でCAチャカリタ・ジュニアーズ に勝利した。プロ初タイトルは最後に1ポイント逆転して獲得という劇的なものであった。
1935年にはLAFとAFAPが歩み寄り、Asociación del Football Argentino (AFA) という名で統合された。再スタートを切ったリーグでも幾度となく優勝争いに絡んだサン・ロレンソであったが、2度目の優勝は初優勝から13年後の1946年、AFAがその名称のFootballを現在のFútbolにスペイン語化する年まで待たなければならなかった。2位ボカに4ポイント差をつけての優勝であった。そして、この年にクラブは、スペインとポルトガルに渡り、欧州ツアーを行なっている。これはクラブの歴史の中でも最も輝かしい出来事の1つである。サン・ロレンソはレアル・マドリードと対戦し敗れたが、その後、FCバルセロナ、スペイン代表、ポルトガル代表との試合に勝利した。スペインの新聞は、「サン・ロレンソは世界最高のチームだ」と讃えた。そしてバルセロナはレネ・ポントーニ にオファーを出したが、ポントーニはアルゼンチンを離れたくなかったので断った。(バルセロナは代りにリーベル・プレートのディ・ステファノにオファーを出した。)しかし、レイナルド・マルティノ はヨーロッパに留まり、ユベントスと契約して、スターとなった。
3年後の1949年10月31日、ロレンソ・マッサ神父が天に召される。67歳の誕生日を11日後に控えた日であった。
3度目の優勝はまたしても13年後の1959年。前年度得点王のホセ・サンフィリッポ を擁するサン・ロレンソは快進撃を見せ、2位ラシン・クラブ に7ポイント差をつけての優勝と圧倒的強さであった。サンフィリッポはこの年も31ゴールを挙げ得点王に輝くと、翌年、翌々年も同タイトルを手にし、4年連続得点王の快挙を成し遂げた。サン・ロレンソはこの優勝により翌1960年に開始されたコパ・リベルタドーレス 第1回大会への出場を果たしたが、準決勝でウルグアイ のペニャロール に敗れ敗退した。
プロ化後36年間のリーグ優勝は5大クラブに独占された。サン・ロレンソもその一つとして存在感を示した。
黄金期
四つのタイトルを獲得し多くの記録を残した1968年から1974年にかけてがクラブの黄金期とされている。1967年から1985年までのリーグでは、最終年を除く各年度メトロポリターノとナシオナルという二つの大会が行われた。その大会方式はシーズンにより異なったが、サン・ロレンソはまずブエノスアイレス州 とサンタフェ州 の計22チームが参加した1968年のメトロポリターノを制した。この大会は最初に11チームずつに分かれてホーム・アンド・アウェー (H&A) のグループリーグを戦い、次に各グループ上位2チームが中立地で一発勝負の決勝トーナメントを戦うという二部構成であった。またグループリーグでは、各チームが別のグループに所属するそれぞれのライバルチーム(サン・ロレンソの場合はウラカン )ともH&Aで戦い、その結果も各グループの順位に反映されるという変則的なものであった。グループAに入ったサン・ロレンソは22試合を14勝8分0敗で終え1位通過を果たすと、続く決勝トーナメントでは準決勝でグループB2位のリーベル・プレート と戦い3-1で勝利、決勝でもA2位通過でB1位通過のベレス・サルスフィエルド を破って勝ち上がってきたエストゥディアンテス と戦い2-1で退けた。これはプロ化後のアルゼンチンリーグ 史上初の無敗優勝であった。
1972年にはこちらもリーグ史上初となる同一年度の2大会制覇を成し遂げた。ブエノスアイレス州 とサンタフェ州 の計18チーム参加によるH&Aのリーグ戦メトロポリターノを制したサン・ロレンソは、全国の26チームで争われたナシオナルでも優勝。前述のメトロポリターノ1968とほぼ同様の大会方式で行われたこの大会では、グループAの13試合を10勝3分0敗で勝ち点23とし1位通過、グループB1位通過のボカ・ジュニアーズ の勝ち点22を上回り即決勝進出を決めると、A2位でボカと準決勝を戦い勝ち上がってきたリーベルを1-0で破り、リーグ記録となっている最多2度目の無敗優勝を達成した。
1974年にも全国から36チーム参加、グループリーグを経て決勝ラウンドという流れで行われたナシオナルを制した。
低迷期
黄金期の後には低迷期が待っていた。1975年からの数年は順位も二桁になることが多く結果を出せなくなっていたが、これはクラブの資金繰りが急速に悪化していたのが原因であった。サン・ロレンソは借金に借金を重ねて何とか持ちこたえている状態で、給料未払いとなっていた元所属選手たちから次々に裁判を起こされる事態にまでなっていた。そして1979年12月、いよいよ限界に達したクラブは資産の売却を迫られた。1916年から60年以上に渡って所有していたスタジアムとその土地を失った。
1980年のシーズンからは他クラブのスタジアムを借りて転々とホームゲームを行わざるを得なくなった。当然思うような成績が残せなくなり、この年は降格ラインぎりぎりのところで1部に踏みとどまったものの、翌年の1981年にはすでにピークを過ぎた選手たちで構成されたチームで戦いついに2部へ降格した。18チーム参加で17位以下が降格というメトロポリターノで、サン・ロレンソは勝ち点28の16位で最終節を迎えた。相手は勝ち点27で17位のアルヘンティノス であった。フェロ・カリル・オエステ のスタジアムで行われたホームゲームは引き分け以上で残留が決まる試合であったが、サン・ロレンソは前半に訪れたペナルティキックのチャンスを逃したばかりかアルヘンティノスに1ゴール許し、後半の反撃も実らずそのまま0-1で敗れた。サン・ロレンソは5大クラブ初の2部降格という屈辱を味わった。
復興期
1982年、前年度に降格が決定したサン・ロレンソは2部のプリメーラBを戦った。そこではスタートダッシュに成功し2節を残して優勝、1年で1部復帰を果たした。この年のサン・ロレンソではサポーターの後押しにも注目が集まった。舞台が2部であり試合数も全42試合と1部のそれより10試合以上少なかったにもかかわらず、チケット販売枚数で2位のボカ・ジュニアーズ に20万枚以上の差をつけて唯一の100万枚越えを記録した。ハイライトは6節のティグレ 戦。リーベル・プレート のスタジアムで行われたこの試合のチケットは7万4千48枚も売れ、7万5千人近くの観客を集めた。この時の入場者数は、1978年に同国で開催されたワールドカップ の決勝アルゼンチン代表 対オランダ代表 の数字に次ぐもので、リーグの1試合当たり観客動員数では1部・2部を問わず記録になっている。
1983年、すぐさま1部に復帰したサン・ロレンソはその年のメトロポリターノで優勝したCAインデペンディエンテ から1ポイント差の2位につけ、その後も時おり優勝争いに顔を出しながら着実に歩みを進めていった。1993年 には失っていたホームスタジアムをボエド地区の旧スタジアムからそう遠くないところに再び所有した。
そして1995年、21年ぶりに1部で優勝する。1990年に始まったアペルトゥーラ(前期)・クラウスーラ(後期)の短期リーグで、当年のクラウスーラを制した。バンビーノことエクトル・ベイラ に率いられたサン・ロレンソは、オスカル・ルジェリ 、パウロ・シーラス らを擁し、ヒムナシア・ラ・プラタ とタイトル争いを繰り広げながら最終節に突入、勝ち点29で首位のヒムナシアはホームにインデペンディエンテ を迎え、勝ち点28で2位のサン・ロレンソはアウェーでロサリオ・セントラル との対戦であった。同時刻に始まった試合は、ヒムナシアが前半の1失点を挽回できずに0-1で敗れたのに対し、サン・ロレンソは後半コーナーキックから値千金のゴールを奪い1-0で勝利した。ロサリオ に駆けつけた3万人にも及ぶサン・ロレンソのサポーターは、久しぶりの栄冠を前に抑えが利かなくなり後半44分にピッチへ乱入、その時点で試合が打ち切られる事態になりながらの優勝であった。
新世紀
21世紀最初の大会クラウスーラ2001を制したのは、ファブリシオ・コロッチーニ 、ギジェルモ・フランコ 、レアンドロ・ロマニョーリ 、ベルナルド・ロメオ らを擁するサン・ロレンソであった。しかしそのスタートは波乱に満ちていた。開幕前、チームに内紛が勃発し監督のオスカル・ルジェリ がその職を投げ出してしまったのである。サン・ロレンソは最初の2節を代理監督のもと1勝1分で凌ぎ、3節から正式な後任にマヌエル・ペレグリーニ を迎えて問題の収束を図った。チリ人 監督に率いられたチームは初采配となったラシン・クラブ 戦を落としたが、その後は8節でリーベル・プレート に敗れるまで3勝1分、9節以降は最終節まで全勝という快進撃を見せた。サン・ロレンソは15勝2分2敗で勝ち点47を獲得、最終2節をいずれも落とした2位リーベルに6ポイントの大差をつけてタイトルを手にした。この時の優勝も記録付きであった。勝利数及び勝ち点は短期リーグで最多。また9節からの連勝は翌期のアペルトゥーラ2001第3節バンフィエルド 戦で引き分けるまで続き最終的に13連勝、リーグでの最多連勝記録となっている。
同年にはクラブにとって初の国際タイトルとなるコパ・メルコスール も獲得。フラメンゴ との決勝第1戦はアウェーで0-0の引き分け、第2戦のホーム試合は同国経済が崩壊状態にあったことを受けて翌2002年1月に持ち越されたが、こちらも90分では1-1と決着がつかずPK戦 にもつれ込んだ。サン・ロレンソは一人目のアルベルト・アコスタ に続き二人目まで失敗したものの、ゴールキーパーのセバスティアン・サハ が好セーブを連発、4-3で制しての優勝であった。
クラウスーラ2007第18節優勝決定試合
2002年、ペレグリーニはクラブに2つのタイトルを残してリーベルに去った。後任監督にルベン・インスア を迎えたサン・ロレンソでは、下部組織上がりのゴンサロ・ロドリゲス 、パブロ・サバレタ らが成長していた。そしてコパ・スダメリカーナ 第1回大会を制覇する。コパ・メルコスール の後継大会であり、コパ・メルコノルテ との統合により規模が拡大されたものであったが、決勝ではコロンビア のアトレティコ・ナシオナル と対戦し第1戦のアウェーは4-0で圧勝、第2戦ホームでの試合は0-0で引き分け、2年連続で国際タイトルを獲得した。
2007年、母国ではそれまでリーベル一筋であったラモン・ディアス を新監督に招聘。毎夏5大クラブ間で争われるプレシーズンマッチ では1勝も上げられなかったが、公式戦のクラウスーラではアグスティン・オリオン 、ホナタン・ボティネッリ 、ガストン・フェルナンデス 、エセキエル・ラベッシ らの活躍により、1節を残して優勝を決めた。最終節にも勝利したサン・ロレンソは勝ち点45、2位のボカ・ジュニアーズ は39であった。
百周年
2008年4月1日、クラブは100歳の誕生日を迎えた。数千人のサポーターが前日の夜からボエド地区の旧スタジアムがあった場所に集まり、0時になるとともにその日を祝った。現在のスタジアムで予定されていた当日の記念イベントは豪雨により順延となったものの、翌2日には無事に行われた。100周年後初の試合はその次の日の3日、コパ・リベルタドーレス のグループリーグでアウェーでのクルゼイロ 戦であったが、サン・ロレンソは1-3で敗れた。その後グループ2位通過で決勝トーナメントに進み準々決勝まで勝ち上がったが、優勝したリーガ・デ・キト と当たりホーム、アウェーともにスコアは1-1、PK戦 に突入し3-5で敗退した。記念すべき年に際しアンドレス・ダレッサンドロ やディエゴ・プラセンテ など名のある選手を補強したが、5大クラブで唯一持っていないこのタイトルを獲得することはできなかった。
一方リーグでは、リベルタドーレス と並行して行われたクラウスーラで4位。主力選手と確執があった監督のラモン・ディアス は17節アウェーでのオリンポ (スペイン語版 ) 戦に敗れて優勝の可能性がほぼなくなったのを機にチームを去り、ダレッサンドロやプラセンテも半年所属したのみでシーズン終了後に移籍した。続くアペルトゥーラでは、前年ボカを率いてリベルタドーレス 制覇を成し遂げたミゲル・アンヘル・ルッソ を新監督に迎えた。ホームで行われた1節のティグレ 戦を0-1で落とし、またその直前に開幕したコパ・スダメリカーナ でもアルヘンティノス に敗れて初戦敗退となったサン・ロレンソであったが、2節からは結果を出し5節から10節にかけては連勝。その時点で2位のティグレ に勝ち点5差をつけて首位に立っていた。その後失速したため勝ち点39を獲得するに留まったが、1位で全19節を終了。しかし同勝ち点にティグレ とボカの2チームが並んでいたため、得失点差等が考慮されないリーグ規定により3チームで優勝決定戦に突入した。第1戦のティグレ 対サン・ロレンソはベレス・サルスフィエルド のスタジアムで行われサン・ロレンソが2-1で勝利。第2戦のサン・ロレンソ対ボカはラシン・クラブ のスタジアムで行われボカが3-1で勝利。第3戦のボカ対ティグレ もラシンのスタジアムで行われティグレ が1-0で勝利。この結果、3チームがまたしても同勝ち点で並んだが、ここでは得失点差が考慮されるためボカに優勝を譲った。
100周年の年は無冠に終わったが、翌2009年のリベルタドーレス 出場権を獲得している。
近年
2013-14シーズンはプリメーラ・ディビシオン の前期リーグで優勝した。リベルタドーレス 2014では決勝へ進出し、決勝でナシオナル を2戦合計2-1で下し、クラブ史上初の南米クラブ王者となった。その結果、モロッコ で行われるFIFAクラブワールドカップ2014 出場を決め、この大会で準優勝した。
愛称
アルゼンチン において、サン・ロレンソは世界で最も愛称が多いクラブとされている。
エル・シクロン
El Ciclón はサイクロン の意。プロ化後まもなくのリーグで圧倒的な攻撃力を持って勝利を重ねるサン・ロレンソを見たジャーナリストのウーゴ・マリーニが命名した。サン・ロレンソのライバルがウラカン (ハリケーン の意)なのを意識したものであるが、このネーミングは他の記者たちにも共感され瞬く間に広まった。それから現在に至るまで、クラブの愛称として最も一般的なものになっている。
アスルグラーナ
Azulgrana は青えんじの意。クラブのカラーで主要な愛称の一つ。「アスル・イ・ロホ」(Azul y Rojo、青と赤の意)という場合もあるが、愛称としては専らアスルグラーナが用いられる。青は「理想」、赤は「戦い」を表している。これは初代のユニフォームが使いものにならなくなった時にロレンソ・マッサ神父が用意したユニフォームの色で、神父によると「マリア像が召しているマントの色」ということであった。しかし後にある選手が見に行ったところ、実際のマントの色は表地が空色で裏地がバラ色、「神父はよほど創造力が豊かな人か、口がうまい人だった」という話が残されている。
ロス・クエルボス
Los Cuervos はカラスたちの意。神父が着用する黒服から想起された。チームを指すこともあるが、たいていの場合はサポーターを指す。一般的に使用される。
ロス・マタドーレス
Los Matadores はマタドール たちの意。1968年のメトロポリターノでアルゼンチンリーグ 初の無敗優勝を成し遂げたチームに付けられた愛称である。その後クラブの愛称として定着し、現在でも多用されている。
ロス・サントス
Los Santos は聖人たちの意。クラブ名のサン・ロレンソ(聖ロレンソの意)から付けられた。上記の愛称より使用頻度は落ちる。
ロス・ガウチョス・デ・ボエド
Los Gauchos de Boedo はボエドのガウチョ たちの意。プロ化を契機に有力なクラブは全国から優秀な選手を集めるようになったが、サン・ロレンソはサンタフェ州 からアルベルト・チビディーニ 、ガブリエル・マガン 、ヘナーロ・カンテッリ の3選手を獲得した。この時に彼らの出身地から付けられた愛称である。ロス・サントス同様、使用頻度は落ちる。
ロス・カーラスシアス
Los Carasucias は小僧たちの意。1963年にナルシソ・ドバル 、フェルナンド・アレアン 、エクトル・ベイラ 、ビクトリオ・カーサ 、ロベルト・テルチ といった5人の下部組織の選手たちが若くしてトップに昇格し、それぞれ活躍した。ロス・カーラスシアスはこの時のチーム、もっと限定すればこの5人衆に付けられた愛称で、現在のチームに対して使うことはまれである。
ロス・カンボジャーノス
Los Camboyanos はカンボジア人 たちの意。70年代末からクラブは経営危機に陥り、当時の選手たちは水のシャワーしか浴びることができないなど過酷な環境下にあった。これは1986年に所属していたウルグアイ人 選手ルイス・マルバレス が、「俺たちは孤立無援でカンボジア人みたいだ」と言ったことから付いた愛称であるが、使用はこの時期のみでクラブの愛称にまで昇華することはなかった。
ユニフォーム
カラー
青(もしくは紺)と赤(もしくはえんじ)。青色は理想を赤色は戦いを象徴している。ファーストユニフォームは一部の例外を除き代々縦じまである。これは2代目ユニフォームからの色で、最初の数年間に使用されたユニフォームは襟と袖口のみ白のワインレッドを主体としたものであった。セカンドユニフォームは白を基調とする場合が多い。
モデル
フィールドプレーヤー用は通常ファーストとセカンドのみであるが、近年になってサードが時おり設定される。ゴールキーパー用も数種類用意されているが、ゴールキーパーがフィールドプレーヤー用のユニフォームを着用することがある。その場合は、当然ながらフィールドプレーヤーが着用するモデルとは別モデルである。
現行スポンサーとサプライヤー
2010年9月6日現在
過去のスポンサー
1982 : MU-MU
1983 : なし
1984-1987 : Zanella
1988-1992 : ASTORI
1993-1994 : MEDICORP / ASTORI
1995-2000 : CableVisión
2000-2001 : NOBLEX
2001-2004 : CableVisión
2005 : lotto
2005 : www.sanlorenzo.com.ar
2005 : San Lorenzo Boedo Argentina
2005-2006 : RCA
2007-現在 : WAL-MART / ASTORI (2007年のパンツのみ)
過去のサプライヤー
1980-1988 : adidas
1988-1989 : Cuervito
1989-1991 : uhlsport
1991-1993 : TOPPER
1994-1995 : PENALTY
1996-1997 : UMBRO
1998 : new balance
1999 : luanvi
1999-2000 : Mebal
2000-2003 : signia
2004-現在 : lotto
スタジアム
旧スタジアム
最初のスタジアムガソメトロ (Gasómetro、ガスタンクの意)は、1916年にボエド地区に建設された。このスタジアムは7万5千人以上収容し、アルゼンチン代表 の試合やコンサートなど各種イベントにも使用されていたが、1979年経営難にあったクラブはついに敷地を手放さざるを得なくなった。スタジアムは1982年に取り壊され、現在はフランス 系スーパーマーケットのカルフール が建っている。店舗名は「カルフール・サン・ロレンソ」である。
最初の試合は1916年5月7日リーグでのエストゥディアンテス 戦でホームのサン・ロレンソが2-1で勝利。最後の試合は1979年12月2日同じくリーグでのボカ・ジュニアーズ 戦でスコアレスドローであった。
新スタジアム
ペドロ・ビデガイン(ヌエボ・ガソメトロ)
ガソメトロ を失ってから14年以上もクラブ所有のスタジアムがない状況が続き、他クラブのスタジアムを借りて試合を行っていたが、1993年に近郊のバホ・フロレス地区に5代目会長の名を冠したエスタディオ・ペドロ・ビデガイン 、通称ヌエボ・ガソメトロ (Nuevo Gasómetro、新ガスタンクの意)を新設した。これ以後、かつてのガソメトロ はビエホ・ガソメトロ (Viejo Gasómetro、旧ガスタンクの意)と呼ばれることとなる。
ヌエボ・ガソメトロ は約4万3千人収容とビエホ・ガソメトロ より小さい。またブエノスアイレス 有数のスラム街に面していることからサポーターの評判は悪い。何よりボエド地区が地元であるという意識が強いため、新スタジアムは旧スタジアムがあった場所から徒歩で20分ほどの距離にあるものの、「ボエドに戻ろう」という運動が続けられている。
こけら落としは1993年12月16日、チリ からウニベルシダ・カトリカ を迎えて行われた親善試合で、サン・ロレンソが2-1で勝利している。
2019年、4万2千人収容の新しいスタジアムの建設を発表。7月1日に工事が始まり、新スタジアムは「パパ・フランシスコ」の名前が付けられる[ 3] 。
タイトル
国内タイトル
プリメーラ・ディビシオン : 15回
アマチュアリーグ時代 (1900-1931) : 3回 (AAmF=アソシアシオン・アマテウル・デ・フットボル)
プロリーグ時代 (1932-) : 12回 (LAF=リーガ・アルヘンティーナ・デ・フットボル, CH=コパ・デ・オノール, M=メトロポリターノ, N=ナシオナル, C=クラウスーラ, I=イニシアル)
1933LAF, 1936CH, 1946, 1959, 1968M, 1972M, 1972N, 1974N, 1994-95C, 2000-01C, 2006-07C, 2013-14I
プリメーラB・ナシオナル : 2回
アマチュアリーグ時代 : 1回 (AAF=アソシアシオン・アルヘンティーナ・デ・フットボル)
プロリーグ時代 : 1回
スーペルコパ・アルヘンティーナ : 1回
国際タイトル
過去の成績
国内リーグ戦
シーズン
大会
順位
勝点
勝敗等
備考
1914
AAFセグンダ
優勝
-
-
参加1年目で1部リーグに昇格。
1915
プリメーラ
13位
23
10勝3分11敗(38得点46失点)
1916
プリメーラ
7位
23
9勝5分7敗(16得点25失点)
1917
プリメーラ
12位
18
6勝6分8敗(29得点27失点)
1918
プリメーラ
13位
17
6勝5分8敗(20得点23失点)
1919
AAmFプリメーラ
6位
13
5勝3分5敗(22得点20失点)
1920
AAmFプリメーラ
3位
46
17勝12分5敗(58得点30失点)
1921
AAmFプリメーラ
6位
47
20勝7分11敗(47得点25失点)
1922
AAmFプリメーラ
3位
60
24勝12分4敗(65得点25失点)
1923
AAmFプリメーラ
優勝
35
17勝1分2敗(34得点13失点)
1924
AAmFプリメーラ
優勝
39
18勝3分2敗(48得点15失点)
1925
AAmFプリメーラ
2位
36
14勝8分2敗(41得点20失点)
1926
AAmFプリメーラ
2位
45
21勝3分1敗(71得点21失点)
1927
プリメーラ
優勝
57
26勝5分2敗(86得点26失点)
1928
プリメーラ
6位
47
21勝5分9敗(63得点38失点)
1929
プリメーラ
4位
-
偶数グループ2位(勝点27)
3位・4位決定戦対リーベル・プレート 没収試合により4位。
1930
プリメーラ
4位
51
23勝5分7敗(96得点43失点)
1931
LAFプリメーラ
2位
45
19勝7分8敗(81得点52失点)
この年よりプロリーグ へ移行。
1932
LAFプリメーラ
5位
45
17勝11分6敗(83得点44失点)
1933
LAFプリメーラ
優勝
50
22勝6分6敗(81得点48失点)
1934
LAFプリメーラ
3位
51
22勝7分10敗(84得点63失点)
1935
プリメーラ
3位
49
23勝3分8敗(92得点45失点)
1936
プリメーラ
2位
24
11勝2分4敗(41得点24失点)
1937
プリメーラ
6位
39
15勝9分10敗(70得点62失点)
1938
プリメーラ
3位
43
18勝7分7敗(87得点67失点)
1939
プリメーラ
5位
42
19勝4分11敗(85得点55失点)
1940
プリメーラ
9位
30
11勝8分15敗(62得点65失点)
1941
プリメーラ
2位
40
17勝6分7敗(67得点46失点)
1942
プリメーラ
2位
40
16勝8分6敗(70得点50失点)
1943
プリメーラ
3位
35
14勝7分9敗(72得点53失点)
1944
プリメーラ
4位
34
12勝10分8敗(61得点49失点)
1945
プリメーラ
4位
38
15勝8分7敗(67得点45失点)
1946
プリメーラ
優勝
46
20勝6分4敗(90得点37失点)
1947
プリメーラ
5位
37
13勝11分6敗(71得点43失点)
1948
プリメーラ
6位
32
12勝8分10敗(55得点54失点)
1949
プリメーラ
4位
42
17勝8分9敗(72得点62失点)
1950
プリメーラ
5位
37
15勝7分12敗(77得点60失点)
1951
プリメーラ
7位
35
13勝9分10敗(46得点41失点)
1952
プリメーラ
8位
32
13勝6分11敗(45得点47失点)
1953
プリメーラ
5位
34
15勝4分11敗(55得点36失点)
1954
プリメーラ
7位
31
12勝7分11敗(58得点48失点)
1955
プリメーラ
8位
28
8勝12分10敗(41得点43失点)
1956
プリメーラ
8位
29
11勝7分12敗(41得点45失点)
1957
プリメーラ
2位
38
15勝8分7敗(66得点42失点)
1958
プリメーラ
3位
38
16勝6分8敗(66得点47失点)
1959
プリメーラ
優勝
45
21勝3分6敗(75得点42失点)
1960
プリメーラ
6位
36
14勝8分8敗(71得点45失点)
1961
プリメーラ
2位
40
16勝8分6敗(56得点35失点)
1962
プリメーラ
11位
22
7勝8分13敗(39得点51失点)
1963
プリメーラ
8位
25
9勝7分10敗(37得点46失点)
1964
プリメーラ
4位
36
12勝12分6敗(46得点31失点)
1965
プリメーラ
8位
34
12勝10分12敗(41得点35失点)
1966
プリメーラ
4位
46
17勝12分9敗(48得点34失点)
1967
メトロポリターノ
(8位)
-
グループB4位(勝点25)
ナシオナル
6位
18
7勝4分4敗(32得点15失点)
1968
メトロポリターノ
優勝
-
グループA1位通過(勝点36)
決勝対エストゥディアンテス 2-1、同国初の無敗優勝。
ナシオナル
7位
18
6勝6分3敗(24得点20失点)
1969
メトロポリターノ
(9位)
-
グループA5位(勝点23)
ナシオナル
3位
27
12勝3分2敗(41得点18失点)
1970
メトロポリターノ
3位
25
7勝11分2敗(36得点20失点)
ナシオナル
(7位)
-
グループA4位(勝点24)
1971
メトロポリターノ
5位
44
18勝8分10敗(75得点52失点)
ナシオナル
2位
-
グループB2位通過(勝点20)
決勝対ロサリオ・セントラル 1-2
1972
メトロポリターノ
優勝
49
18勝13分3敗(59得点33失点)
同国初の同一シーズン両タイトル獲得。
ナシオナル
優勝
-
グループA1位通過(勝点23)
決勝対リーベル・プレート 1-0、2度目の無敗優勝。
1973
メトロポリターノ
3位
40
15勝10分7敗(52得点37失点)
ナシオナル
4位
-
グループA1位通過(勝点22)
決勝ラウンド4チーム中4位(勝点2)
1974
メトロポリターノ
(13位)
-
グループB6位(勝点14)
ナシオナル
優勝
-
グループC1位通過(勝点27)
決勝ラウンド8チーム中1位(勝点11)
1975
メトロポリターノ
11位
34
11勝12分15敗(56得点63失点)
ナシオナル
3位
-
グループB2位通過(勝点22)
決勝ラウンド8チーム中3位(勝点9)
1976
メトロポリターノ
12位
-
グループB4位通過(勝点25)
決勝ラウンド12チーム中12位(勝点6)
ナシオナル
(25位)
-
グループD8位(勝点14)
1977
メトロポリターノ
14位
41
14勝13分17敗(46得点56失点)
ナシオナル
(8位)
-
グループA2位(勝点17)
1978
メトロポリターノ
4位
47
17勝13分10敗(47得点41失点)
ナシオナル
(28位)
-
グループD8位(勝点10)
1979
メトロポリターノ
(13位)
-
グループB7位(勝点17)
ナシオナル
(13位)
-
グループD4位(勝点16)
1980
メトロポリターノ
16位
33
9勝15分12敗(39得点43失点)
ナシオナル
(15位)
-
グループD4位(勝点14)
1981
メトロポリターノ
17位
28
9勝10分15敗(31得点48失点)
2部リーグへ降格。
ナシオナル
(16位)
-
グループD4位(勝点14)
1982
プリメーラB
優勝
57
23勝11分8敗(56得点27失点)
1年で1部リーグに復帰。
1983
ナシオナル
(17位)
-
グループC1位通過(勝点11)
ステージ2グループC3チーム中3位(勝点6)
メトロポリターノ
2位
47
20勝7分9敗(69得点43失点)
前年よりナシオナルと開催時期が入れ替わる。
1984
ナシオナル
4位
-
グループB1位通過(勝点9)
準決勝対リーベル・プレート 1-2/1-2
メトロポリターノ
8位
37
11勝15分10敗(47得点46失点)
1985
ナシオナル
(16位)
-
グループE2位通過(勝点7)
ステージ4敗者グループ対チャカリタ 0-2
メトロポリターノ
-
-
-
開催なし。
1985/86
プリメーラ
7位
40
14勝12分10敗(43得点33失点)
1986/87
プリメーラ
7位
44
15勝14分9敗(45得点38失点)
1987/88
プリメーラ
2位
49
16勝17分5敗(49得点28失点)
1988/89
プリメーラ
5位
66
16勝10分12敗(58得点44失点)
90分勝ち3点、PK勝ち2点、PK負け1点を適用。
1989/90
プリメーラ
15位
35
10勝15分13敗(44得点50失点)
1990/91
アペルトゥーラ
11位
18
4勝10分5敗(15得点18失点)
18節のボカ・ジュニアーズ 戦で両チーム敗戦処分[ 注釈 1] 。
クラウスーラ
2位
27
11勝5分3敗(29得点18失点)
1991/92
アペルトゥーラ
3位
22
4勝14分1敗(20得点14失点)
クラウスーラ
19位
12
3勝6分10敗(11得点25失点)
1992/93
アペルトゥーラ
3位
23
9勝5分5敗(28得点19失点)
クラウスーラ
4位
22
8勝6分5敗(27得点19失点)
1993/94
アペルトゥーラ
8位
21
8勝5分6敗(23得点20失点)
クラウスーラ
4位
23
8勝7分4敗(22得点15失点)
1994/95
アペルトゥーラ
2位
26
9勝8分2敗(30得点21失点)
クラウスーラ
優勝
30
14勝2分3敗(31得点12失点)
1995/96
アペルトゥーラ
5位
32
9勝5分5敗(35得点24失点)
この大会以降1勝により得られる勝ち点が3に。
クラウスーラ
19位
16
4勝4分11敗(15得点29失点)
1996/97
アペルトゥーラ
7位
27
8勝3分8敗(24得点24失点)
クラウスーラ
6位
30
9勝3分7敗(32得点22失点)
1997/98
アペルトゥーラ
5位
32
9勝5分5敗(42得点33失点)
最終節のウラカン 戦で両チーム敗戦処分[ 注釈 2] 。
クラウスーラ
5位
30
9勝3分7敗(36得点27失点)
1998/99
アペルトゥーラ
6位
25
6勝7分6敗(40得点35失点)
クラウスーラ
3位
36
10勝6分3敗(33得点19失点)
1999/00
アペルトゥーラ
4位
33
10勝6分3敗(30得点15失点)
最終節のリーベル・プレート 戦で勝ち点3剥奪[ 注釈 3] 。
クラウスーラ
4位
36
11勝3分5敗(27得点15失点)
2000-01
アペルトゥーラ
5位
34
10勝4分5敗(33得点18失点)
クラウスーラ
優勝
47
15勝2分2敗(43得点17失点)
勝ち点・勝利数は短期リーグ記録。
2001-02
アペルトゥーラ
5位
31
8勝7分4敗(28得点22失点)
クラウスーラ
11位
26
6勝8分5敗(24得点23失点)
2002-03
アペルトゥーラ
9位
27
7勝6分6敗(28得点25失点)
クラウスーラ
7位
29
8勝5分6敗(27得点28失点)
2003-04
アペルトゥーラ
2位
36
11勝3分5敗(26得点13失点)
クラウスーラ
9位
26
6勝8分5敗(18得点16失点)
2004-05
アペルトゥーラ
5位
30
8勝6分5敗(29得点22失点)
クラウスーラ
16位
22
6勝4分9敗(23得点29失点)
2005-06
アペルトゥーラ
9位
28
8勝4分7敗(33得点39失点)
クラウスーラ
8位
28
7勝7分5敗(15得点14失点)
2006-07
アペルトゥーラ
9位
28
8勝4分7敗(30得点33失点)
クラウスーラ
優勝
45
14勝3分2敗(34得点17失点)
2007-08
アペルトゥーラ
8位
29
8勝5分6敗(29得点27失点)
クラウスーラ
4位
35
11勝2分4敗(30得点21失点)
2008-09
アペルトゥーラ
3位
39
12勝3分4敗(34得点17失点)
優勝決定戦3チーム中3位(勝点3)
クラウスーラ
11位
24
7勝3分9敗(27得点26失点)
2009-10
アペルトゥーラ
7位
32
9勝5分5敗(28得点20失点)
クラウスーラ
15位
20
6勝2分11敗(16得点21失点)
2010-11
アペルトゥーラ
クラウスーラ
※カッコ内の順位はグループリーグ等で敗退したチーム間で成績を比較・順位付けした場合。
海外カップ戦
年
リベルタドーレス
スダメリカーナ
メルコスール
コンメボル
レコパ
1960
準決勝
—
—
—
—
1973
準決勝
1988
準決勝
1992
準々決勝
1993
準決勝
1994
準々決勝
1996
準々決勝
1998
準決勝
1999
準決勝
2000
グループリーグ
グループリーグ
—
2001
グループリーグ
優勝
2002
グループリーグ
優勝
—
2003
ベスト16
準優勝
2004
ベスト16
2005
グループリーグ
2006
準々決勝
2007
初戦
2008
準々決勝
初戦
2009
グループリーグ
準々決勝
2013
2回戦
2014
優勝
2015
グループリーグ
準優勝
2016
グループリーグ
?
2017
?
記録
リーグの記録はプロ化後の1部リーグでのものである。
国内記録
国内リーグ史上初無敗優勝 : メトロポリターノ1968
国内リーグ無敗優勝回数 : 2回(メトロポリターノ1968、ナシオナル1972)
国内リーグ史上初同年度2大会優勝 : メトロポリターノ1972、ナシオナル1972
国内リーグ最多連勝 : 13連勝(クラウスーラ2001からアペルトゥーラ2001にかけて)
※ Hはホーム、Aはアウエーでの対戦。
クラブ内記録
現所属メンバー
2021年3月3日現在
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルール に基づく。
監督
レンタル選手
in
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルール に基づく。
歴代所属選手
GK
DF
MF
FW
出場試合数トップ10
ゴール数ベスト10
歴代監督
歴代会長
その他
1979年 のジャパンカップ(現:キリンカップサッカー )第2回大会に参加、アルゼンチン のクラブとして初めて日本 を訪れている。
幼少期をアルゼンチン で過ごしたハリウッド 俳優のヴィゴ・モーテンセン は熱狂的なファンとして知られる。
サポーターの「ラ・グロリオーサ」(La Gloriosa、栄光のサポーターの意)は応援歌を生み出すことで有名で、アルゼンチン や中南米 で歌われている歌の大半は、ラ・グロリオーサが作った歌の借用とされる。
J1 のFC東京 のサポーターはクラブカラーが同じことから日本 のEl Ciclónを名乗っており、そのスタンドではサン・ロレンソのユニフォームを着たサポーターも見られる。
アルゼンチン出身のローマ教皇 フランシスコ は古くからサポーターとしてチームを支えており、チームのソシオ会員である。なお、チーム設立の事情が事情なだけにチーム自体もカトリックと縁が深い[ 4] 。
脚注
注釈
^ ボカ・ジュニアーズ のホーム試合。サン・ロレンソ1点リードで迎えたハーフタイム中にスタジアム内で両チームのサポーターが衝突、ボカのサポーター1名が死亡する惨事となった。試合はその時点で打ち切られ、両チーム0-1で敗戦という処分が下された。
^ サン・ロレンソのホーム試合。0-0で迎えた前半22分にスタジアム場外で両チームのサポーターが衝突、ウラカン のサポーター1名が死亡する惨事となった。試合はその時点で打ち切られ、両チーム0-1で敗戦という処分が下された。
^ サン・ロレンソのホーム試合。引き分け以上でリーベルのタイトル獲得が決まる状況で、本拠地でのライバル優勝を阻止したいサン・ロレンソのサポーターが試合中にゴール裏のフェンスを破壊、一時中断される事態となった。試合は継続され2-2で終了したが、勝ち点3剥奪という処分が下された。
出典
外部リンク