クルブ・アトレティコ・リーベル・プレート (スペイン語 : Club Atlético River Plate )は、アルゼンチン の首都ブエノスアイレス の北端ヌニェス 地区を本拠地とするスポーツクラブ である。ホームスタジアムは隣のベルグラーノ 地区にあるエスタディオ・マス・モヌメンタル 。略称はリーベル 。日本では英語読みのリバー・プレート という名称が用いられることも多い。
概要
白地に左肩から右下へ伸びる赤いタスキ模様のホームゲーム用ユニフォームが特徴。通称である「リーベル」は、ラプラタ川 の英語表記であるRiver Plateのリオプラテンセ・スペイン語 発音[ˈriβeɾ pleit, ˈriveɾ-] が由来である。
選手育成を重視しており、多数の有名選手を輩出している。また、1930年代に高額な移籍金で選手を獲得していたことから、ロス・ミジョナリオス(億万長者)の異名を持つ[ 6] 。
プロ サッカー 部門は、同クラブの各部門の中でも最も際立った存在であり、現在アルゼンチンプロサッカーリーグ に所属している。アルゼンチン国内における5大クラブ (los cinco grandes) のひとつに数えられており、これまでの同リーグでの優勝回数36回を有する。また国際タイトルは合計18獲得しており、その中には4度のコパ・リベルタドーレス 優勝と1度のインターコンチネンタルカップ が含まれる。またアマチュア であった頃にタイトルを1度獲得している。アルゼンチンで2番目に人気のあるフットボール・チームであり[ 7] 、国際サッカー歴史統計連盟 により、2000年度以降4度、月間世界最高サッカークラブに選出された経験も持つ[ 8] 。
ホームゲームは65,000人を超えるキャパシティを持つエル・モヌメンタル で開催されている。同じリーグに所属するボカ・ジュニアーズ との対戦は、「スーペルクラシコ 」と称され、イギリス の新聞オブザーバー にて、「死ぬ前に1度は見ておかなければならない50のスポーツイベント」のひとつだとされている[ 9] 。一方同じくイギリスの新聞ザ・サン にて、記者のアンドルー・ハイは「世界のスポーツで最も壮大なイベントのひとつ」[ 10] だと評している。またCAインデペンディエンテ 、ラシン・クラブ 、CAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ とも古くからライバル関係にある。
アルゼンチンのサッカーリーグがプロリーグ化した1931年から1部リーグの座を守り続けていた。2011年に初の2部降格を経験したが、2012年に1部復帰した。
歴史
創設期、アマチュア・リーグ時代
1908年アマチュア1部に昇格を決めたリーベル・プレート
1901年 3月25日 、ブエノスアイレスのラ・ボカ (La Boca) 地区にサンタ・ロサ (Santa Rosa) とラ・ロサレス (La Rosales) の2クラブが合併する形で創設された。そして複数の候補の中から現在のリーベル・プレート という名称に決定された。この名称が決定した経緯は、創設メンバーの1人ペドロ・マルティネスがボカの港を訪れた事がきっかけである。マルティネスがボカの港を訪れた際、そこで港湾労働者が積み荷用の大きな木箱を脇に置いたままにして、仕事の自由時間にサッカーをして遊んでいた。そしてその木箱の側面に“THE RIVER PLATE”という文字が印刷されているのを見た。そして、マルティスはこの文字に関心を持ち、面白いと魅力を感じたのでその言葉を仲間にチーム名として提案したところ、受け入れた[ 11] 。RIVERの部分をスペイン語風の読み方で「リーベル」と呼び、PLATEの部分は英語読みで「プレート」と呼び、スペイン語と英語の呼び方がミックスされている名称となった。
1905年、リーベルはアマチュア3部リーグに登録して本格的にリーグ参戦した。そして4年後に1部昇格を果たした。1909年シーズンからは1部リーグに参加して8月24日にボカ・ジュニアーズ と初対戦した。この試合は後にスーペルクラシコ とまで呼ばれるライバル関係の幕開けの試合となった。この試合リーベルが2対1で勝利した。この時代、リーベルもボカも両チーム共、本拠地はボカ地区であった。
そして1920年シーズンにようやく初優勝を果たした。現在、名門クラブとされるリーベルであるが、アマチュア時代のリーグ優勝はこの1度のみであった。
1923年、リーベル・プレートはボカ地区のスタジアムからブエノスアイレス北東のレコレタ (スペイン語版 ) 地区へと本拠地を移転し、クラブが生まれたボカ地区を離れることを決めた。
アマチュア時代の優勝は1度のみであったが、リーベルは成績上位の常連チームで、プロ化移行前の1920年代後半にはアルゼンチン・フットボール界の主役の1つと目される人気チームとなっていた。
1930年代 - プロ・リーグ時代 : "ロス・ミジョナリオス"
1932年プロ化以降で初優勝を遂げたリーベル・プレート。“ロス・ミジョナリオス”。後列右から3人目フェレイラ、前列右から2人目ペウチェレ
1931年にアルゼンチンでプロ・リーグが誕生した。そして、リーベル・プレートは1931年にカルロス・ペウチェレ を10000ペソで獲得した。そして更に、翌1932年にはベルナベ・フェレイラ を35000ペソ(当時23000ポンド)で獲得した。このベルナベ・フェレイラ獲得に要した移籍金は当時としては巨額の移籍金で世界の移籍金の史上最高金額を更新した移籍であった。この2つの移籍をきっかけとしてリーベル・プレートはLos Millonarios(ロス・ミジョナリオス : 大富豪)というニック・ネームで呼ばれるようになった[ 12] 。フェレイラの移籍は南米のクラブがサッカーの歴史上で唯一、世界の移籍金の史上最高金額を更新した移籍であり、またこの移籍金額はその後、世界で20年間も破られることがなかった[ 13] 。そして、リーベルは1932年シーズン、そのベルナベ・フェレイラが43得点を挙げる大活躍をして得点王となり、プロ化以降初優勝、アマチュア時代を含めるとクラブとして2度目の優勝を果たした。そして、1935年には下部組織からホセ・マヌエル・モレノ とアドルフォ・ペデルネラ がデビューして、1936年、1937年に優勝してリーグ連覇を果たした。1938年にクラブはレコレタ地区にスタジアムを保有していたが、手狭となったため本拠地を現在のブエノスアイレス北部のベルグラーノ 地区へ移転した。1938年5月25日には新スタジアム、エスタディオ・モヌメンタル がこけら落としとなり、CAペニャロール との記念試合が行われた。1939年には後に、クラブの史上最多得点記録を樹立するアンヘル・ラブルナ がデビューした。そしてこの年、ベルナベ・フェレイラはリーベルで185試合で187得点という1試合1得点の平均を上回る好成績を残して、引退した。
1940年代 - ラ・マキナ
La Máquina (ラ・マキナ) (1941年) 左からムニョス、モレノ、ペデルネラ、ラブルナ、ロウスタウ
La Máquina (1947年) 左からレジェス、モレノ、ディ・ステファノ、ラブルナ、ロウスタウ
1940年代は、レナト・セサリーニ が監督に就任し、アンヘル・ラブルナ 、ホセ・マヌエル・モレノ 、アドルフォ・ペデルネラ 、フェリックス・ロウスタウ 、フアン・カルロス・ムニョス 等、名手が素晴らしいフットボールを魅せた。器用な5人の攻撃陣が完璧な連係を見せて、互いにポジションを変えて途切れなく動き回る様子が優れたマシーンを彷彿とさせるその様子からLa Maquina(ラ・マキナ : 機械、マシーン)と称賛されるチームを構成した[ 14] 。この愛称はエル・グラフィコ紙の"Borocoto"というペンネームだった記者リカルド・ロレンソが1942年6月12日のCAチャカリタ・ジュニアーズ 戦に6-2で勝利したリーベルの攻撃陣を見て、「まるでマシーンのようだ」と表現したことで広まって行った[ 14] 。このチームはアルゼンチン・リーグ史上最強の攻撃陣を擁したチームと言われ、アルゼンチン・フットボールの歴史において伝説のチームと讃えられている。ラ・マキナを擁したチームは、1941年、1942年とリーグ連覇を果たした。そして、1945シーズンはラ・マキナに下部組織から後に世界的スーパー・スターとなるアルフレッド・ディ・ステファノ がプロ・デビューして加わり、他にクラブ最多試合出場記録を作るゴール・キーパーのアマデオ・カリーソ とボランチのネストル・ロッシ というスターもこの年にデビューした。ラ・マキナに彼らの活躍も加わり、リーベルは1945シーズンの優勝を果たした。そして、1947シーズンはこの後13シーズン監督を務めるホセ・ミネジャ が就任し、このシーズンはディ・ステファノが27得点を挙げて得点王となる活躍を見せリーグ優勝を果たした。
第二次世界大戦が終了した3年後の1948年、アルゼンチンは不況となり給与の未払いなどの問題が各クラブで続出した。そのためアルゼンチン・サッカー選手組合は最低給与の保障などを1部2部のリーグ運営陣に求めたが、結局この様な労働協約を勝ち取ることはできなかった。しかし、この事件が当時国際サッカー連盟 (FIFA) に加盟していなかったコロンビア・リーグのクラブを刺激した。コロンビアのクラブはFIFAに加盟していなかったためにコロンビアのクラブ間では移籍金というものはなく、移籍金に使う分を選手の年俸に当てて他の国のリーグより高い年俸を供給できるようにして海外の優秀な選手を集めるという方針を取っていた。そのため高い年俸をアルゼンチンのスター選手に提示したところ、給料の未払いや遅滞に憤慨していたアルゼンチン・リーグのスター選手たちがコロンビア・リーグへ移籍するという現象が起きた。これによりリーベルからディ・ステファノ、ロッシなどの主力選手が退団することになった[ 15] 。
1950年代 - ラ・マキニータ
左からロウスタウ、ワルテル・ゴメス、ラブルナ (1952年)
1940年代後半にリーベル・プレートは主力のモレノ、ペデルネラ、ディ・ステファノ、ロッシが移籍したために1948年から4シーズン優勝から遠ざかった。チームの刷新を迫られたリーベルはワルテル・ゴメス 、サンチャゴ・ベルナッサ 、エリセオ・プラド 、ロベルト・サラテ 、アルフレッド・ペレス ら名手を大量に獲得した。そして新加入の選手が活躍して1952年、1953年とリーグ連覇を達成して復活した。そして、後に欧州でアルゼンチン人 で2人目となるバロンドール を受賞したオマール・シボリ が下部組織からデビューして、ネストル・ロッシ がコロンビアから復帰するとこの2人の活躍もあってリーベルは1955年、1956年、1957年とクラブ史上初の3連覇を果たした。ミネジャ監督は13シーズン指揮して6度の優勝を果たした。1959年にはリーベル史上最大のアイドルのアンヘル・ラブルナ が515試合で293得点というクラブ最多得点記録を残して退団した。リーベルは40年代に続き素晴らしいフットボールを魅せ、優勝回数ではラ・マキナの時代を上回る5度の優勝を成し遂げた。1950年代のこのチームはLa Maquinita(ラ・マキニータ : 小さな機械、マシーン)と呼ばれた。しかしその後18年間、リーグタイトルから遠ざかった。
1960年代 - 低迷
1960年代は、アマデオ・カリーソ 、エルミンド・オネガ 、オスカル・マス 、ルイス・クビジャ 、ロベルト・マトッサス などの名手を擁していたが、国内リーグでは無冠に終わった。10年間で成績が2位の時が8度あり、優勝まで一歩届かぬ年が続いた。国際舞台でも1966年にコパ・リベルタドーレス で決勝まで進むが、CAペニャロール に敗れ、国内でも国外の大会でも無冠に終わった。
1970年代 - 続く低迷、そして復活
1970年に下部組織からノルベルト・アロンソ とファン・ホセ・ロペス がデビューした。そしてリーベルは1974年にダニエル・パサレラ 、ウバルド・フィジョール の名手を獲得した。これら新しい選手たちがチームの核となって行った。そして、1970年代に入ってからも5年間、更に無冠の状態が続いていたが1975年、アンヘル・ラブルナ が監督に就任してようやくメトロポリターノに優勝し長い長い干ばつ期を脱した。この優勝は実に18年ぶりのタイトル獲得だった。この18年ぶりに優勝を決めたシーズンの最終節のホーム・ゲームは10万人の観客を動員し、これはクラブ史上最多の観客動員で未だに破られていない。[ 16] そして続く同年のナシオナルにも優勝して、この年は2冠を達成した。この時代のチームには司令塔ノルベルト・アロンソ 、フアン・ホセ・ロペス 、ダニエル・パサレラ 、ウバルド・フィジョール の他にレイナルド・メルロ 、レオポルド・ルケ 、オスカル・マス 、ロベルト・ペルフーモ 、カルロス・モレテ 、アレハンドロ・サベーラ らがいた。その後、リーベルは1977年シーズンのメトロポリターノに優勝した。そして、リーベルは1979年にはメトロポリターノとナシオナルに優勝し、再び2期連続優勝を果たして2冠を達成した。
しかし国際舞台では1976年にコパ・リベルタドーレス で決勝まで進んだがクルゼイロEC に敗れ、1978年 は準決勝ラウンドまで進んだがボカ・ジュニアーズ に敗れた。それでも1970年代の後半は5度の国内リーグでの優勝を果たし、18年間無冠に終止符を打った後に素晴らしい時代を築いた。
1980年代 - 初の南米王者、そして世界王者
1986年、コパ・リベルタドーレス優勝
1986年12月14日、東京で世界チャンピオンになったリーベル・プレート
1980年シーズンはメトロポリターノに優勝し、これにより1979年から1980年にかけて3期連続優勝を達成した。ラブルナは監督としてクラブの復活に貢献し6度の優勝を果たして退任し、1981年アルフレッド・ディ・ステファノ が監督に就任した。そしてライバルのボカ・ジュニアーズ がディエゴ・マラドーナ を獲得したことに危機感を抱いたリーベルは、対抗策としてマリオ・ケンペス を獲得した。他にリーベルはアメリコ・ガジェゴ とフリオ・オラルティコエチェア も獲得した。メトロポリターノではボカが優勝をしたが、1981年ナシオナルに優勝し雪辱を果たした。しかし、優勝後、ケンペスは1シーズンでチームを去った。この時代のチームには他にラモン・ディアス 、レイナルド・メルロ 、ダニエル・パサレラ 、アルベルト・タランティーニ 、ウバルド・フィジョール 、オスカル・オルティス などがいた。国内で3期連続優勝を達成したり、1978年のワールドカップ 優勝メンバーを数多く揃えていてレベルの高いチームであったが、コパ・リベルタドーレスでは優勝できなかった。1982年のコパ・リベルタドーレスは準決勝で敗退した。そして1982年にケンペス、パサレラ、ディアスら主力が欧州のクラブに移籍するとチーム力が低下した。1983年にエンソ・フランチェスコリ を獲得し、ノルベルト・アロンソ が復帰したが成績は上がらず、1983年には18位となり2部落ちの危機に陥った。しかし、翌1984年にエクトル・ベイラ が監督に就任するとチームを建て直し1984年ナシオナルで2位となり、1985-86シーズンには4年振りとなるリーグ優勝を果たした。そして、フランチェスコリはこのシーズン25得点を挙げて2度目の得点王に輝いた。
この後7月にフランチェスコリがラシン・クラブ・ド・パリ に移籍したために、リーベルはエースを失って1986年7月からのコパ・リベルタドーレス を戦うことになった。しかしリーベルは好調を維持して順調に勝ち進んだ。そんな中これまでチーム得点王となり活躍していたラモン・セントゥリオン が準決勝ラウンド最終戦で退場処分を受けた。そのため彼の代わりに決勝戦でフアン・フネス が先発起用されたがフネスは第1戦、第2戦ともに得点する活躍を見せてヒーローとなった。他に主力の司令塔アロンソとアントニオ・アルサメンディ の活躍もありリーベル・プレートはアメリカ・デ・カリ を下し初優勝を果たした。そして、12月14日には東京でFCステアウア・ブカレスト を1-0で下しインターコンチネンタルカップ にも優勝を果たし初の世界王者に輝いた。この1986年シーズンは国内リーグ、コパ・リベルタドーレス、インターコンチネンタルの3冠を達成した。翌年にはコパ・インテラメリカーナ でも勝利した。このチームには、アロンソ、アルサメンディ、フネスの他にアメリコ・ガジェゴ 、オスカル・ルジェリ 、ネリー・プンピード 、エクトル・エンリケ 、ネストル・ゴロシート などがいた。アルサメディは1986年シーズンに南米年間最優秀選手賞 を受賞した。 リーベルは世界一になった後、中心選手のアロンソ、ガジェゴは引退し、ルジェリ、プンピード、アルサメンディが移籍してチームの大刷新を迫られたがうまく行かなかった。下部組織出身のクラウディオ・カニーヒア やペドロ・トログリオ が在籍し、アベル・バルボ 、ガブリエル・バティストゥータ 、ホルヘ・ダ・シルバ 、セルヒオ・バティスタ などの優秀な選手を補強し、他にダニエル・パサレラ が欧州から復帰したがうまくいかず、再びリーグ優勝するのに4年の歳月を費やした。
1990年代 - 黄金期 : 2度目の南米王者、8度のリーグ優勝
90年代前半は、ダニエル・パサレラ が5年という長期間に渡り監督を務めた。パサレラは現役引退後、1989-90シーズンに即座に監督就任するとたちまち優勝した。リーベルにとって4年ぶりの国内リーグ・タイトル獲得だった。新加入のラモン・メディナベージョ 、ルーベン・ダ・シルバ 、エルナン・ディアス と、下部組織出身の若手のレオナルド・アストラーダ 、グスタボ・サパタ などが活躍した。しかし、1990年のコパ・リベルタドーレスは準決勝でバルセロナSC に敗れた。
そして1991年にラモン・ディアス が欧州から復帰した。1991-92シーズン前期に彼が得点王となる活躍を見せリーベルはこのシーズン優勝を遂げた。
その後1993年にラモン・ディアス、グスタボ・サパタ 、ラモン・メディナベージョ ら主力が横浜マリノス に移籍した。チーム力の低下が懸念されたが、下部組織出身のアリエル・オルテガ 、エルナン・クレスポ ら若手と復帰したセルヒオ・ゴイコチェア が活躍をして、リーベルは1993-94シーズン前期に優勝を果たした。パサレラは若い選手を積極的に起用して育て、彼が指揮した5シーズンでリーベルは3度のリーグ優勝(1989-90、1991-92前期、1993-94前期)を果たした。
パサレラが退任した後に1994年アメリコ・ガジェゴ が監督を引き継いだ。1994年、エンツォ・フランチェスコリ が欧州から復帰して得点王になる活躍を見せ、新加入のロベルト・アジャラ 、ヘルマン・ブルゴス らも活躍してリーベルは1994-95シーズン前期に優勝した。このシーズンはクラブ史上初となる無敗優勝(19試合で12勝7分け)を達成した。
90年代後半は1995年にラモン・ディアス が監督に就任し、5年の長期に渡り監督を務めた。リーベルはエンソ・フランチェスコリ がキャプテンとしてチームを牽引し、それに加えて若い才能ある選手が大量続出して黄金時代を築いた。下部組織出身のアリエル・オルテガ 、エルナン・クレスポ 、マティアス・アルメイダ 、マルセロ・ガジャルド に加え、サンティアゴ・ソラーリ 、フアン・パブロ・ソリン 、セルソ・アジャラ などの選手が入団して活躍し、1996年に10年ぶりにコパ・リベルタドーレス 決勝に進出してアメリカ・デ・カリ を下して南米王座に返り咲いた。同年に東京でユヴェントスFC とインターコンチネンタルカップ で世界一をかけて対戦したが、0-1で敗戦した。その後、クレスポ、オルテガ、アルメイダら主力が欧州に移籍しチーム力の低下が懸念されたが、マルセロ・サラス 、フリオ・クルス が遜色ない活躍を見せ、1997年にサンパウロFC を下しスーペルコパ・スダメリカーナ に優勝した。サラスは1997シーズン、南米年間最優秀選手賞 に輝いた。 国内リーグでは1996前期、1997後期、1997前期に立て続けに優勝し、16年ぶりの3連覇を達成した。
フランチェスコリ引退後もクラブの勢いは衰えず、その後も下部組織からパブロ・アイマール 、ハビエル・サビオラ など若いタレントが活躍し、またフアン・パブロ・アンヘル 、マルティン・カルデッティ 、マリオ・ジェペス 、ディエゴ・プラセンテ などを補強して1999-2000シーズン前期に優勝を果たした。このシーズン、サビオラは18歳で得点王となる活躍を見せ、史上最年少で南米年間最優秀選手賞を受賞した。1999年にラモン・ディアスは退任したが、彼が指揮した5シーズンでリーベルは4度のリーグ優勝(1996-97前期、1996-97後期、1997-98前期、1999-2000前期)を果たした。世界一は逃したが、リーベル・プレートは1990年代に国内リーグで通算8度、優勝した。
コパ・リベルタドーレスでは、1996年の優勝の他に、1990年、1995年、1998年、1999年に準決勝まで進出した。
リーベル・プレートは20世紀、最も多くアルゼンチン国内リーグを優勝し、他の大会で獲得したトロフィーを合わせた総計も最多で、国際サッカー歴史統計連盟 のランキングでアルゼンチンのクラブでは20世紀1位となり、“世紀のチャンピオン”として20世紀を終えた。
2000年代 - 栄光と低迷
2000年代の前半は、90年代からの勢いが止まらず優勝を重ねた。監督の交代が頻繁に起こり、なおかつ欧州クラブの若手選手の青田買いが進んで主力選手の入れ替えが激しくなったが、欧州からアリエル・オルテガ とマルセロ・ガジャルド らベテランが復帰し、下部組織からアンドレス・ダレッサンドロ 、フェルナンド・カベナギ 、マルティン・デミチェリス 、ハビエル・マスチェラーノ ら優秀な若手を輩出し続けて優勝を重ねた。
2000年にアメリコ・ガジェゴ が監督就任し、リーベルは1999-2000シーズン後期にサビオラ、アイマール、アンヘルの攻撃トリオが引き続き活躍をして優勝し連覇を達成した。その後、アリエル・オルテガ がチームに復帰し、この攻撃トリオはカルテットとなったが3連覇は達成できなかった。
2000-01シーズンからラモン・ディアス が監督復帰して、オルテガと下部組織出身の2人アンドレス・ダレッサンドロ とフェルナンド・カベナギ を先発起用して新しい攻撃陣を形成した。他では中盤にエステバン・カンビアッソ を補強し、守備ではマルティン・デミチェリス が成長してその結果、2001-02シーズン後期にリーベルは2年ぶりの優勝を果たした。
2002-03シーズンからはマヌエル・ペレグリーニ が監督就任した。リーベルは中盤にルイス・ゴンサレス を補強して、ダレッサンドロ、カベナギの攻撃陣が変わらず活躍したので2002-03シーズン後期に優勝した。
翌2003-04シーズンはレオナルド・アストラーダ が新監督となり、司令塔マルセロ・ガジャルド が復帰して、カベナギ、マクシミリアーノ・ロペス 、マルセロ・サラス 、ハビエル・マスチェラーノ らが活躍してリーベルは2003-04シーズン後期に優勝をした。2000年代の前半は、国内リーグで4度(1999-2000後期、2001-02後期、2002-03後期、2003-04後期)優勝した。国際舞台でもコパ・リベルタドーレスで2004年と、2005年に準決勝まで進んだ。
しかし、2000年代後半から勢いが落ち始めた。2005シーズン、ゴンサロ・イグアイン が頭角を現し、2006年にオルテガが復帰したが優勝できず、結局、2004年の優勝から4シーズン無冠が続いた。
そして、2008シーズンにディエゴ・シメオネ が監督に就任すると2007-08後期リーグにオルテガ、ラダメル・ファルカオ 、アレクシス・サンチェス 、ディエゴ・ブオナノッテ らのタレントを擁して4年ぶりの優勝を果たした。これでリーベルは復活したと思われたが、この優勝を最後に再び低迷を始める。下部組織から1990年代から2000年代前半の様な優秀なタレントの輩出が減ったことの他に、長年アルゼンチンの名門クラブとして君臨してきたリーベルだったが1991年にホセ・マリア・アギラールが会長に就任してからクラブは経営危機などの問題を抱えるようになっていた。その中には、クラブが「バーラ・ブラバ」(過激なサポーター集団)へ利益を与えるという癒着構図も存在していた。2007年にはゴンサロ・イグアイン の移籍で得た利益を奪い合ってバーラ・ブラバ同士の派閥闘争が起こり、その中のメンバーが銃で殺害される事件が発生した。こうした経営危機やサポーターの暴力問題を抱えた状況下でクラブは低迷を脱することができず、クラブ史上初となる2部リーグ降格の危機に直面する事態へとなって行った[ 17] 。
2008-09シーズンの前期リーグではクラブ創設以来107年の歴史で史上初の最下位(20位)に沈んだ。優勝した次のシーズンが最下位という誰も予想しない成績となった。さらに2009-10シーズンも前期14位、後期13位と大不振が続き下位に終わった。
2010年代 - 歴史上初の2部降格。そして復活、3度目の南米王者。
2014年、コパ・スダメリカーナ に優勝して17年ぶりに国際タイトルを獲得したリーベル・プレート
2010-11シーズンは調子を取り戻し2010シーズン前期は4位だったが、2011シーズン後期は最終節で敗れ9位となり、これにより国内リーグの過去3年間の平均獲得ポイントでクルブ・オリンポ に逆転され、2部リーグ4位のCAベルグラーノとの1部2部入替プレーオフへ回ることになった。
アルゼンチンリーグは過去3シーズンの平均勝ち点によって降格チームを決めるため、リーベルの2010-11シーズン成績は前期4位、後期9位で降格するような順位ではなかったが、2008-09シーズン前期の最下位(20位)や2009-10シーズンの大不振(前期14位、後期13位)の成績が響きこれを挽回できなかった[ 18] 。
CAベルグラーノとのプレーオフ第1戦では、サポーターの試合途中の乱入で20分以上のロスタイムが取られる異常事態が起きた末、結果は2-0で敗北。ホームで迎えた第2戦では2点差以上の勝利が必要だったが、またしても観客が暴動を起こし後半44分で試合が打ち切られ、1-1で引き分けた。このプレーオフ敗戦により、2011年、リーベル・プレートはクラブ史上初の2部リーグ降格が決定した。この試合には2200人の警官が動員されていたが、試合後も暴動は収まらず、アルゼンチン当局によると68人が負傷した[ 6] 。
リーベルが2部リーグで戦うことになり当初、2部のテレビ中継はこれまで通り有料のケーブルテレビのみの予定であったが、アルゼンチンのサッカー・ファンの約30%がリーベルのサポーターという背景もあり地上波の国営放送でも放送されることに変更され、一般紙のスポーツ欄やスポーツ紙にも2部リーグの試合日程が大きく載せられるなど、アルゼンチン国内においてこれまでになく2部に関する情報量が増加する現象が見られた[ 19] 。
2012年シーズン、初の2部での戦いとなったリーベルは名門相手に金星を狙うモチベーション溢れる対戦相手に苦戦を強いられるも、最終節に元フランス代表 FWダヴィド・トレゼゲ の2得点によって、クルブ・アルミランテ・ブラウン を下し優勝を決めて、1年で1部復帰を果たした。[ 20] 。そして、ラモン・ディアス が2012年に3度目の監督就任をすると見事にチームを強豪に甦らせ、それを境にリーベルは再び、黄金期に入った。
2014シーズン後期リーグに優勝し、そして年間優勝決定戦でも前期リーグ優勝のCAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ を破り8年ぶりのリーグ優勝を達成した。この年、国内リーグでは31試合無敗記録を作り、クラブ新記録を樹立した。そして2014年、マルセロ・ガジャルド が引き継いで監督就任した後も好調は続き、この年はコパ・スダメリカーナ でもアトレティコ・ナシオナル を下し初優勝を果たし、これは17年ぶりの国際タイトル獲得だった。そして、翌2015年シーズンはレコパ・スダメリカーナ でサン・ロレンソを下して初優勝し、続いてコパ・リベルタドーレス でもUANLティグレス を下し19年ぶりに優勝し、リーベル・プレートは3度目の南米王者となった。2シーズンで3つの国際タイトルを立て続けに獲得し、南米で名門復活を果たした。このチームにはテオフィロ・グティエレス 、フェルナンド・カベナギ 、ロドリゴ・モラ 、カルロス・サンチェス 、レオナルド・ポンシオ 、マティアス・クラネビッテル 、ラミロ・フネス・モリ 、マルセロ・バロベロ 、ルーカス・アラリオ などがいた。グティエレスは2014年シーズン、南米年間最優秀選手賞 を受賞する活躍を見せた。
ユニフォーム
リバープレートユニフォーム (1955年)
リーベル・プレートの1stユニフォームのデザインが決まったのは1908年である。ある夜、カーニバルが行われて、それが終りに近づいていた。そこに、古い自動車が1台あって、その車内の後部に赤い絹のリボンが乱雑に掛けられていた。そこにいた5人の若者の1人エリサ・ペシレはちょっとした悪ふざけから、それを盗むことに決めた。しかし、一方で秘かな動機もあった。そのリボンを自分達のチームの白いユニフォームの上に付けて、自分達のユニフォームに特徴を付けようと考えていた。それで、その赤い絹のリボンを斜めに張り付けることに決めた。こうして、お馴染みの赤いタスキ掛けのユニフォームが生まれた。[ 21]
そして、このユニフォームが赤いタスキのデザインに決まったのは聖ホルヘ(聖ゲオルギオス )のシンボルの白地に赤い十字のデザインが関係しているという説も伝えられている。聖ホルヘはイタリアのジェノヴァ の街の守護聖人で、ジェノヴァの旗は白地に赤い十字のデザインである。リーベル・プレートの創設メンバーのほとんどはジェノヴァに祖先がいて、そのためリーベル・プレートのユニフォームは赤い十字ではないが、白地に赤いラインというデザインはこの旗に似ているので、この旗を模してユニフォームのデザインにしたのだと言われている[ 21] 。
1952年にリーベル・プレートがスペイン のマドリード を訪問し、マドリードを本拠地とするラージョ・バジェカーノ と交流を行った。まだスペインサッカーのユニフォームは無地かストライプがほとんどで、ラージョはその中でオリジナリティを出そうと模索していた。そんな時にラージョがリーベル・プレートのタスキユニフォームを見て触発され、現在に至るまでラージョは白地に赤のタスキのデザインを採用している[ 22] 。
サプライヤーとスポンサー
リバープレートユニフォーム (1985年)
サポーター
リーベルプレートファン (2010年)
ブエノスアイレスでも有数の高級住宅街に本拠地を構えることも関係して、ボカ・ジュニアーズ のサポーターよりも裕福な階層のサポーターが多いと言われている。アルゼンチンでボカ・ジュニアーズに次いで2番目に多くのサポーターがいる。アルゼンチンのサッカー・ファンの約30%はリーベルのサポーターである[ 23] [ 24] 。
リーベル・プレートサポーター (1938年)
2015年、当クラブはFIFAクラブワールドカップ に出場し、12月16日に大阪 ・長居陸上競技場 でサンフレッチェ広島F.C と対戦[ 25] 、20日には横浜国際総合競技場 でFCバルセロナ との決勝戦を迎えた[ 26] 。期間中に来日したリーベルサポーターは、1万5000人から2万人に上る[ 27] [ 28] 。
リーベルのサポーターは、試合前日にバンデラッソ (Banderazo、決起集会)を行う習慣がある[ 29] 。日本でも試合前日の15日及び19日に、道頓堀 戎橋 や代々木公園 などで行われた[ 30] [ 31] 。
17日には、当クラブのサポーターとみられる男3人が大阪市 中央区 道頓堀 のコンビニで万引きを行い、犯行に気付いた店員2人が男1人を取り押さえると、男3人は仲間と思われる男十数人とともに店員2人に殴る蹴るの暴行を加え、軽傷を負わせて逃走した[ 32] [ 33] [ 34] [ 35] 。
ライバル
リーベル・プレートの最大のライバルは、ボカ・ジュニアーズ である。この2チームの対戦は、Superclásico(スーペルクラシコ : スーパー・ダービーの意)と呼ばれ、アルゼンチンで最も関心を集めるクラシコであり、最も権威のあるダービー・マッチである。現在は、アルゼンチンのみならず、他の南米諸国でも高い関心を集める南米を代表するダービー・マッチである。平均視聴率はゼロ年代は毎年、大体、40%前後を記録していた。しかし、2015年5月3日のクラシコの視聴率は32.4%、2015年9月13日のクラシコは33.6%であった。[ 36]
他にCAインデペンディエンテ 、ラシン・クラブ 、CAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ とのビッグ5同士の対戦もクラシコと呼ばれ、関心を集める。
リーベル・プレートのマスコットは1984年から5年間はライオンであった。これはボカ・ジュニアーズを始めとする他チームのサポーターがリーベル・プレートのことを「ガジーナ(ニワトリ)」!!(アルゼンチンで臆病者の意 : ニワトリは臆病だから)と散々にからかっていて、それを不愉快に思っていた当時の会長が「絶対にニワトリの愛称を根絶する」という固い決意を持ち、チームに付けられたイメージを払拭するためにライオンのロゴを使用することにしたからである。しかし、会長の想像以上にボカなどライバル・チームにとってリーベルのことを「ニワトリ」と呼ぶ風習が根深く定着していて、会長の目論見は失敗に終わりライオンのイメージも定着しなかった。そして、5年後、会長がクラブを去るとこのライオンのロゴも使用されなくなった。そして現在リーベル・プレートのサポーターの一部の人々はボカ・ジュニアーズなどにからかわれていることに開き直り、逆手に取ることに決めて、ニワトリの格好に扮して観客席で応援するなどしている。[ 37] [ 38]
ニックネーム
River (リーベル) -「リーベル・プレート」の略称。
Los Millonarios (ロス・ミジョナリオス : 大富豪、億万長者) - 1931年にカルロス・ペウセジェ を獲得し、1932年にベルナベ・フェレイラ を当時の世界史上最高額の移籍金を支払って獲得したことがきっかけで名付けられた。他にサポーターに富裕層が多かったことも関係している。[ 12]
El Mas Grande (エル・マス・グランデ : 最も偉大なチーム) - 20世紀のアルゼンチン国内リーグの優勝回数が最多で、国際サッカー歴史統計連盟 のランキングでもアルゼンチンのクラブで20世紀1位となり、最も優れた成績のクラブであることが由来。 [ 39]
La Banda 又は La Banda Roja (ラ・バンダ : タスキ) / (ラ・バンダ・ロハ : 赤タスキ) - ユニフォームのデザインが由来。
Gallinas (ガジーナス : ニワトリ)
リーベル・プレートは1966年のコパ・リベルタドーレス決勝で逆転負けをして敗北した。その後に、国内リーグのアウェイのCAバンフィエルド との試合の際、リーベルの選手が入場して来た時、バンフィエルドのサポーターが観客席から赤いタスキの布を巻きつけた雌鶏(アルゼンチンで雌鶏は臆病者の意味)をリーベルの選手に向けてピッチに投げ入れた。それ以来リーベルの選手とサポーターたちは、他チームからガジーナス(ニワトリ)と呼ばれてからかわれるようになった。また、リーベルのスタジアムのエル・モヌメンタルも他チームからEl Gallinero(エル・ガジネロ:ニワトリ小屋)とからかわれるようになった。[ 40]
スタジアム
エスタディオ・モヌメンタル (1978 FIFAワールドカップ)
リーベル・プレートのホームスタジアムは、エスタディオ・モヌメンタル・アントニオ・ベスプチオ・リベルティ (Estadio Monumental Antonio Vespucio Liberti) 、通称エル・モヌメンタル (El Monumental) である。現在の収容人数は61,321人[ 41] である。アルゼンチン代表のホーム・スタジアムとしても使用され、1978年のワールドカップ 決勝の試合もこのスタジアムで行われた。アルゼンチンで最も大きなスタジアムである。最多観客動員の試合は、1975年シーズンのメトロポリターノで18年ぶりにリーグ優勝をしたシーズンの最終節(1975年8月17日)、対ラシン・クラブ 戦で2-0で勝利して10万人が来場した。2番目が1954年シーズン(1954年10月31日)のボカ・ジュニアーズ戦の9万人、3番目が1986年と1996年のコパ・リベルタドーレス決勝が行われた試合で、共に85000人が来場して対戦相手は共にコロンビアのアメリカ・デ・カリ だった[ 16] 。
エピソード
リーベルプレート女子ホッケーチーム (2011年)
スペインのマドリードに本拠地を置くラージョ・バジェカーノ はリーベル・プレートへの憧れからユニフォームを赤いタスキに変更した。1952年にリーベル・プレートがマドリードを訪問した際にラージョ・バジェカーノとの交流が生まれ、ラージョ・バジェカーノはユニフォームを赤いタスキに変更する事を決定した。[ 42]
ボリビアのポトシ に本拠地を置くCAナシオナル・ポトシ (1942年創立)はリーベル・プレートへの憧れから、ユニフォームのデザインを白地に赤タスキのシャツ、黒パンツにしてリーベル・プレートと全く同じにしている。
またアルゼンチン国内では、サルタ州にリーベル・プレート・デ・エムバラカシオン (1939年創立)(es:Club Atlético River Plate de Embarcación )という名前もユニフォームのデザインを全く同じにしているクラブがある。
また、リーベル・プレートは元エクアドル代表サッカー選手アルベルト・モンターニョ の推薦により、エクアドル のグアヤキル にリーベル・プレートと提携するクラブが創設されることに合意した。それにより、グアヤキルに2007年、リーベル・プレート・エクアドル というクラブが誕生した[ 43] 。
日本で、「リーベル・プレート・ジャパン」という公式のサッカー・スクールを設立し、活動を行っている[ 44] 。
タイトル
国内タイトル
リーグ : 37回 (Mはメトロポリターノ、Nはナシオナル、Aはアペルトゥーラ、Cはクラウスーラ、Fはフィナールの略)
1920 AAm, 1932, 1936 Copa Campeonato, 1936 Copa de Oro, 1937, 1941, 1942, 1945, 1947, 1952, 1953, 1955, 1956, 1957, 1975M, 1975N, 1977M, 1979M, 1979M, 1980M, 1981N, 1985-86, 1989-90, 1991A, 1993A, 1994A, 1996A, 1997C, 1997A, 1999A, 2000C, 2002C, 2003C, 2004C, 2008C, 2014F, 2021
コパ・アルヘンティーナ : 3回
2015-16, 2016-17, 2018-19
スーペルコパ・アルヘンティーナ : 2回
国際タイトル
過去の成績
年度
順位
1931
4位
1932
優勝
1933
4位
1934
4位
1935
6位
1936
6位
1936
優勝
1936
優勝
1937
優勝
1938
2位
1939
2位
1940
3位
1941
優勝
1942
優勝
1943
2位
1944
2位
1945
優勝
1946
3位
1947
優勝
1948
2位
1949
2位
1950
4位
1951
3位
1952
優勝
1953
優勝
1954
3位
1955
優勝
1956
優勝
1957
優勝
1958
6位
1959
6位
1960
2位
1961
3位
年度
順位
1962
2位
1963
2位
1964
3位
1965
2位
1966
2位
1967M
1967N
5位
1968M
準決勝
1968N
2位
1969M
2位
1969N
2位
1970M
2位
1970N
1971M
6位
1971N
1972M
4位
1972N
2位
1973M
5位
1973N
2位
1974M
1974N
1975M
優勝
1975N
優勝
1976M
5位
1976N
2位
1977M
優勝
1977N
1978M
6位
1978N
2位
1979M
優勝
1979N
優勝
1980M
優勝
1980N
年度
順位
1981M
4位
1981N
優勝
1982N
1982M
10位
1983N
1983M
18位
1984N
2位
1984M
4位
1985N
1985-86
優勝
1986-87
10位
1987-88
4位
1988-89
4位
1989-90
優勝
1990-91
3位
1991-92A
優勝
1991-92C
5位
1992-93A
2位
1992-93C
3位
1993-94A
優勝
1993-94C
5位
1994-95A
優勝
1994-95C
10位
1995-96A
7位
1995-96C
14位
1996-97A
優勝
1996-97C
優勝
1997-98A
優勝
1997-98C
7位
1998-99A
15位
1998-99C
2位
1999-2000A
優勝
1999-2000C
優勝
年度
順位
2000-01A
2位
2000-01C
2位
2001-02A
2位
2001-02C
優勝
シーズン
順位
試合数
勝
分
敗
得点
失点
得失点
2002-03 アペルトゥーラ
3位
19
11
3
5
35
23
12
2002-03 クラウスーラ
1位
19
13
4
2
43
18
25
2003-04 アペルトゥーラ
8位
19
7
5
7
23
24
-1
2003-04 クラウスーラ
1位
19
12
4
3
41
21
20
2004-05 アペルトゥーラ
3位
19
9
6
4
28
19
9
2004-05 クラウスーラ
10位
19
8
3
8
31
29
2
2005-06 アペルトゥーラ
6位
19
8
4
7
31
22
9
2005-06 クラウスーラ
3位
19
9
7
3
39
24
15
2006-07 アペルトゥーラ
3位
19
11
5
3
33
17
16
2006-07 クラウスーラ
4位
19
9
6
4
26
16
10
2007-08 アペルトゥーラ
14位
19
6
5
8
31
33
-2
2007-08 クラウスーラ
1位
19
13
4
2
29
13
16
2008-09 アペルトゥーラ
20位
19
2
8
9
20
29
-9
2008-09 クラウスーラ
8位
19
7
6
6
24
25
-1
2009-10 アペルトゥーラ
14位
19
5
6
8
23
26
-3
2009-10 クラウスーラ
13位
19
6
4
9
16
21
-5
2010-11 アペルトゥーラ
4位
19
8
7
4
21
18
3
2010-11 クラウスーラ
9位
19
6
8
5
15
15
0
2011-12 プリメーラB・ナシオナル
1位
38
20
13
5
66
28
38
2012-13 イニシアル
8位
19
7
8
4
28
16
12
2012-13 フィナール
2位
19
10
5
4
28
22
6
2013-14 イニシアル
17位
19
5
6
8
12
14
-2
2013-14 フィナール
1位
19
11
4
4
28
15
13
2014 カンペオナート
2位
19
11
6
2
34
13
21
2015 カンペオナート
9位
30
13
10
7
46
33
13
2016 カンペオナート
9位 (ソナ1)
16
4
6
6
21
22
-1
2016-17 カンペオナート
2位
30
16
8
6
51
28
23
2017-18 スーペルリーガ
8位
27
13
6
8
39
26
13
2018-19 スーペルリーガ
4位
25
13
6
6
42
21
21
2019-20 スーペルリーガ
2位
23
14
5
4
41
18
23
現所属メンバー
2023年8月1日現在 [ 45]
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルール に基づく。
監督
マルセロ・ガジャルド
歴代監督
歴代所属選手
GK
DF
MF
ホルヘ・ソラリ (1964-1969)
アメリコ・ガジェゴ (1981-1988)
エクトル・エンリケ (1983-1990)
ネストル・ゴロシート (1982-1988)
ペドロ・トログリオ (1983-1988)
ホセ・ミルトン・メルガル (1988-1989)
セルヒオ・バティスタ (1988-1990)
グスタボ・サパタ (1989-1993)
フアン・ホセ・ボレーリ (1990-1991, 1997-1998)
レオナルド・アストラーダ (1988-2000, 2001-2003)
セルヒオ・ベルティ (1990-1992, 1993-1995, 1996199)
マティアス・アルメイダ (1991-1996, 2009-2011)
アリエル・オルテガ (1991-1996, 2000-2002, 2006-2012)
マルセロ・ガジャルド (1992-1999, 2003-2006, 2008-2010)
アルベルト・ガルシア・アスペ (1995)
パブロ・アイマール (1996-2000, 2015)
FW
ギャラリー
脚注
外部リンク