ヘルマン・アドリアン・ラモン・ブルゴス( Germán Adriman Ramón Burgos, 1969年4月16日 - )は、アルゼンチン・マル・デル・プラタ出身の元同国代表サッカー選手、現サッカー指導者、ミュージシャン。現役時代のポジションはゴールキーパー。
来歴
ルイス・アラゴネス監督とは信頼関係で結ばれており、RCDマヨルカ、アトレティコ・マドリードとアラゴネス子飼の選手であった。
1995年5月31日のペルー戦でアルゼンチン代表デビューした。以後は常にカルロス・ロアと守護神争いを繰り広げる。安定感の無さから、1998年のフランスワールドカップでは最終的に、大会の正ゴールキーパーの座をロアに奪われ。2002年の日韓ワールドカップでは正ゴールキーパーから落選してしまう。2002-03シーズン途中には腎臓に癌が見つかり、摘出手術をする。しかし、それ以降プレーは低迷し、2003-04シーズン終了後、「サッカーに対する情熱を失った。バンド活動に専念する」とブルゴスらしいコメントを残して引退表明をした。2005年よりバンド活動のほか、アトレティコのカンテラの指導も兼ねている。
アトレティコにディエゴ・シメオネ監督が就任した2011年からはアシスタントコーチとして監督の補佐をしており、主にセットプレーの指導において功績を挙げている。
2020-21シーズン開幕前に指導者として独り立ちすることを決意し、2021年3月にニューウェルズ・オールドボーイズの監督に就任した。しかし、1シーズンと持たずに解任され、続くアリス・テッサロニキでも短命に終わった。
エピソード
- 長髪に赤いキャップを被り、長いジャージにソックスを重ねて履く。観客が彼のニックネームを馬鹿にするつもりで投げたバナナを食べたこともある。試合中に脱臼しても、鼻血を出しても、気合でプレーする。
- ハビエル・サビオラの愛称コネホ(うさぎ)の名付け親。
- サッカー選手ながら、母国アルゼンチンでは、炎のロックンローラーとして知られ、ロックバンドでリーダーとボーカルを務める。
- 愛煙家だったが、癌の摘出手術以降は禁煙を広める活動をしている。
- 争いごとを嫌う平和主義者でもある。
所属クラブ
代表歴
出場大会
試合数
- 国際Aマッチ 34試合 0得点(1995年-2002年)[1]
アルゼンチン代表 | 国際Aマッチ |
年 | 出場 | 得点 |
1995 |
4 |
0
|
1996 |
2 |
0
|
1997 |
0 |
0
|
1998 |
7 |
0
|
1999 |
10 |
0
|
2000 |
3 |
0
|
2001 |
7 |
0
|
2002 |
1 |
0
|
通算 |
34 |
0
|
ディスコグラフィー
- Jaque al rey (1999)
- Fasolera de tribunas (2000)
- Líneas calientes (2002)
- Abismos (2005)
出典
外部リンク