1952年の広島カープでは、1952年シーズンの広島カープの動向についてまとめる。
この年の広島カープは、石本秀一監督の3年目のシーズンである。
概要
開幕前の混乱
セントラル・リーグで2年連続最下位である戦力と、親会社がなく遠征費用すら事欠く資金力の両面で脆弱な広島カープを忌避する動きが強く、1951年の開幕前には隣県の山口県下関市に所在した大洋ホエールズとの合併が一度決まるなど、広島カープの存続には常に暗雲が漂っていた。さらには同じく財政難だった西日本パイレーツがパシフィック・リーグの西鉄クリッパースと合併、実質的には西鉄に吸収された新球団「西鉄ライオンズ」としてセリーグを脱退し、加盟チームが7チームになると、日程編成で大きな不都合が生じた。
これらの事情を背景に、1952年の開幕前のリーグ代表者会議において、シーズン勝率3割を切った球団には処罰を行うという申し合わせがされ、『年度連盟選手権実施要項』の22条に「(あるチームの勝率が3割に達しない場合は)当該球団に対するその後の処置は連盟会長の提案により理事長がこれを決定する」という形で明文化された。これはあくまで「処罰」であり合併や解散による消滅を明示したものではなかったが、少なくとも広島球団や広島県内は「カープを排除するための決定」と受け止められた[2][注 1]。
一方、チーム自体は前年12月からエース長谷川良平の名古屋ドラゴンズ移籍希望で大きく揺れていた。期限内に届くはずの球団からの統一契約書が未着だったことに端を発し、長谷川の故郷の愛知県にある名古屋が獲得を表明した問題は、越年しても解決のめどが立たなかった。広島側は旅館の女将をやっていた球団女性後援会の幹部が名古屋に乗り込むなどの残留工作を展開し、最終的には史上初のコミッショナー裁定として福井盛太が3月10日に決定した長谷川からの提訴の棄却により、最終的に長谷川の広島残留が確定した。長谷川は3月20日に広島に帰着したが、リーグ開幕戦は翌日に迫っていて、調整の出遅れは明らかだった。
「危機」の現実化
シーズンが開幕すると、広島は5月終了時点で勝率3割を大きく割り込み、処罰による消滅が現実的なものとなったが、6月以降やや持ち直し、9月に入ってようやく勝率3割を超えた。9月下旬に7連敗を喫し、再び勝率3割を切ったものの、10月を5割で終え、最終的に勝率3割1分6厘で最下位も免れた。一方、広島と最下位争いをしていたセントラル・リーグ初代王者の松竹が勝率3割を切った。その結果、松竹が低成績による処罰を受けることになったが、処罰内容決定前に大洋と対等合併(実質は吸収合併)して、球団の歴史を閉じることとなった。広島は前年の経営難回避に続き編成上の理由による球団消滅も回避し、球団消滅の危機を再び脱した。
チーム成績
レギュラーシーズン
1952年セントラル・リーグ順位変動
順位
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4月終了時
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5月終了時
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6月終了時
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7月終了時
|
8月終了時
|
9月終了時
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最終成績
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1位
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巨人 |
--
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巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
2位
|
名古屋 |
2.5
|
大洋 |
3.0
|
大阪 |
5.5
|
大阪 |
3.0
|
大阪 |
6.0
|
大阪 |
5.5
|
大阪 |
3.5
|
3位
|
大洋 |
4.0
|
大阪 |
3.0
|
名古屋 |
5.5
|
名古屋 |
6.5
|
名古屋 |
7.0
|
名古屋 |
7.0
|
名古屋 |
7.0
|
4位
|
大阪 |
4.5
|
名古屋 |
5.0
|
大洋 |
12.5
|
大洋 |
12.5
|
大洋 |
18.5
|
大洋 |
21.5
|
大洋 |
25.0
|
5位
|
国鉄 |
8.0
|
松竹 |
18.0
|
国鉄 |
21.0
|
国鉄 |
25.0
|
国鉄 |
31.5
|
国鉄 |
31.5
|
国鉄 |
33.0
|
6位
|
松竹 |
9.0
|
国鉄 |
18.5
|
松竹 |
24.5
|
松竹 |
29.0
|
広島 |
37.5
|
広島 |
43.5
|
広島 |
44.5
|
7位
|
広島 |
10.5
|
広島 |
19.0
|
広島 |
25.5
|
広島 |
29.5
|
松竹 |
39.5
|
松竹 |
44.0
|
松竹 |
48.0
|
[1]
選手・スタッフ
オールスターゲーム1952
表彰選手
脚注
注
- ^ 広島県の地方紙(中国地方の広域ローカル紙)である中国新聞では、47年後の1999年の連載記事の中でも「当時、同リーグは七球団。これでは試合運営に支障をきたすとして、六球団制をもくろむ連盟が、万年最下位のカープ抹殺のため設けた規約であることは、八月末から約一ヶ月間で27試合という過酷な日程などを見れば、明らかであった。」とし、「抹殺」という強い表現を使っている。
出典
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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