佐野 彰一(さの しょういち、1937年 - )は、日本の自動車技術者。東京都出身。東京大学工学部航空学科卒業[1]。
本田技研工業(ホンダ)において、第1期ホンダF1のシャシー設計などを担当したことで知られる。
略歴
父親が自動車・オートバイ好きで、当時父親が持っていたメグロのオートバイがよく調子が悪くなるため、整備を手伝っていたことで、機械関係に興味をもつようになる[2]。一方で幼少期は天文学に興味があったが、父親から「天文学者になってどうやって飯を食っていくんだ?」と聞かれて返答に詰まり、「宇宙に一番近いと思った」との理由で東大の航空学科に進んだとも語っている[3]。この頃、父親のオートバイのエンジンのボアアップのため、ボーリングを発注した工場に持って行った際に、その土間に転がっていたホンダのエンジンを触った所「全然ガタがなかった」のに驚き、将来の就職先としてホンダを意識し始めたという[2]。
1960年に大学を卒業してホンダに入社。ホンダでは当初市販車の設計部門に配属され、同業他社の車の分析などを担当するが、1964年にF1担当部門に配置換えとなり、ホンダ初の実戦用F1マシンであるホンダ・RA271の設計を任される[1]。その後後継車であるRA272や、ローラ・カーズとの共同開発となったRA300、「空冷F1」で知られる珍車・RA302などの設計を担当した。
ホンダの第1期F1参戦終了後は市販車の開発部門に戻り、ホンダ・1300のプロジェクトリーダーを務めた[1]。1972年に安全技術部門に移り[2]、後にプレリュードなどに搭載される4WSシステムなどを開発した(当時の部下に古川修らがいる)。また1985年には一時的にF1部門に復帰、当時ホンダエンジンを搭載していたウィリアムズ・FW10の不具合分析に携わり、サスペンションジオメトリーに問題があると結論づけた[2]。
1999年にホンダを退職し、翌2000年に東京電機大学理工学部教授に就任[2]。2005年から同客員教授となるが、2011年に退任した。大学ではアメリカのフォーミュラSAEに代表されるいわゆる「学生フォーミュラ」を日本に紹介、日本での全日本学生フォーミュラ大会の実現に尽力するなど、産学連携に重点を置いた[2]。
ホンダ退職後も、ホンダコレクションホールに所蔵されている第1期ホンダF1のマシンレストア作業などでホンダとの関係は続いており、インタビュー等で当時を振り返ることも多い。
脚注
外部リンク
|
---|
|
主な関係者 | | 第五期 |
---|
供給先 | |
---|
関連組織 | |
---|
|
---|
|
|
---|
|
主な関係者 | | 第四期 |
---|
供給先 | |
---|
関連組織 | |
---|
|
---|
|
主な関係者 |
本田技研工業 | |
---|
本田技術研究所 | |
---|
HRD※1 | |
---|
HRF1※1 | |
---|
| 第三期 |
---|
ドライバー |
|
---|
車両 | |
---|
主なスポンサー | |
---|
エンジン供給先 | |
---|
関連組織 | |
---|
|
---|
|
|
---|
|
|
---|
|
主な関係者 | |
---|
車両 |
- RC1 (RC-F1 1.0X)
- RC1B (RC-F1 1.5X)
- RC2 (RC-F1 2.0X)
|
---|
関連組織 | |
---|
|
---|
|
主な関係者 | | 第二期 |
---|
エンジン | |
---|
供給先 | |
---|
関連組織 | |
---|
関連項目 | |
---|
|
---|
|
|
---|
関連項目 | |
---|
※ 第2期・第3期・第4期の「主な関係者」は、基本的に各部門の「長(ディレクター)」以上にあたる人物のみに絞って記載(多数に及ぶため)。 ※ 「関連組織」の( )には略称、[ ]には関連する下部組織を記載。 ※1 ホンダ本社の役職者と本田技術研究所の人物を除く(兼務者が多数に及ぶため)。 ※2 ホンダ所有のサーキット。第1期と第2期に主要なテストコースとして用いられた。 ※3 ホンダ所有の展示施設。第1期から第4期の車両を所蔵(基本的に動態保存)している。 |