映画保存貸与機関 (Bildstelle) というシステムはヴァイマル共和国時代に成立し、Reichsstelle für den Unterrichtsfilm(仮訳「全国教育映画局」)のもとに置かれ、拡大していった。1943年にはドイツ全国に州立のものが37か所設けられ、その下には市立のものが1万2,042か所があった。これと並んでナチ党全国宣伝指導部(ドイツ語版)の配下にも映画保存貸与機関のネットワークが存在し、既に1936年には32大管区、171管区、2万2,357地区に設置されていた。これらの映画保存貸与機関は、多彩な映画作品を取りそろえるとともに16ミリフィルムの可搬型映写機の貸し出しも行っており、学校の教室や夜間の集いで映画上映ができるようになっていた。
しかし個々の映画館の自由には、法律や帝国映画院の指令によって大きな制限が課されていた。主作品の前に上映する文化映画やドキュメンタリー映画、ニュース映画が指定されていたのである。また特定の祝日には格式ある作品の上演が義務付けられていた。外国映画上映に関する法律(1933年6月23日、Gesetz über die Vorführung ausländischer Bildstreifen) により、政府は外国映画の上演を禁止する権限を有していた。すでにヴァイマル共和国時代から外国映画の輸入には数量制限があり、第二次世界大戦開始後は、特定の国からの映画輸入が初めて全面禁止された。例えば1941年からはアメリカ映画がドイツの全映画館で上映禁止とされた。
「安楽死」または「障害者殺害」というテーマを扱った劇映画は1作品(『告発(ドイツ語版)』、1941年)のみであったが、ノンフィクション作品は多数存在する(例:『Das Erbe (遺伝)』[1935年]、『Erbkrank(遺伝病)』[1936年]、『過去の犠牲(ドイツ語版)』[1937年]、『Alles Leben ist Kampf(仮訳:生きること全ては戦い)』[1937年]、『Was du ererbt(仮訳:君に遺伝するもの)』[1939年])。
ソ連では、劇映画の監督が独裁者スターリンの記念碑を打ち立てようと腕を競ったが、ドイツでは独裁者ヒトラー個人を扱う劇映画は一つとして制作されなかった。映画業界は、1933年に先を競って新体制におもねり、慌ただしく3本のナチ劇映画(『突撃隊員ブラント(ドイツ語版)』『ヒトラー少年クヴェックス(ドイツ語版)』『ハンス・ヴェストマー(ドイツ語版)』)を献上したが、その後は、この種の作品は散発的に制作されるのみとなった。ナチ党はこれとは逆に、自己表現のための広大な空間をニュース映画やドキュメンタリー映画に見出した。例えば『総統に向かって行進(ドイツ語版)』やレーニ・リーフェンシュタールの党大会映画『信念の勝利』(1933年)、『意志の勝利』(1935年)である。ナチ・ドイツを国内外で宣伝することを目的とした映画には、国家から委嘱を受けて同じくレーニ・リーフェンシュタールが演出した1936年ベルリンオリンピックの2部作『オリュンピア』があり、最も成功を収めた好例である。伝記映画シリーズは、テーマとしては「偉大なドイツ人」といった表題に分類可能ではあるが、機能としては同様である。『不滅の心(ドイツ語版)』、『コッホ伝(ドイツ語版)』(いずれも1939年)、『フリードリヒ・シラー – ある天才の勝利(ドイツ語版)』(1940年)『フリーデマン・バッハ(ドイツ語版)』(1941年)、『アンドアス・シュリューター(ドイツ語版)』(1942年)、『Der unendliche Weg(果てしなき道)』(1943年)である。人物描写としては『Das große Eis. Alfred Wegeners letzte Fahrt(仮訳:大氷。アルフレート・ヴェーゲナーの最後の行路 )』(1936年)、『Joseph Thorak – Werkstatt und Werk(仮訳:ヨーゼフ・トーラク – 工房と作品)』(1943年)『Arno Breker – Harte Zeit, starke Kunst(仮訳:アルノ・ブレーカー – 厳しい時代、強い芸術)』(1944年)がある。
明らかに反セム主義的な言語慣用(→ナチの言語)や内容の劇映画は比較的少ない。あからさまに反セム主義を宣伝する映画には『ロスチャイルド家』『ユダヤ人ズュース』(いずれも1940年)がある。反セム主義プロパガンダが本来の居場所を見つけたのは、またしてもノンフィクションのジャンルであった。例えば、『永遠のユダヤ人』(1940年)だけでなく、『Juden ohne Maske(仮訳:仮面を剥いだユダヤ人)』(1937年)、『Juden, Läuse, Wanzen(仮訳:ユダヤ人、シラミ、ナンキンムシ)』(1941年)、『Aus Lodz wird Litzmannstadt(ウッチからリッツマンシュタット[1] へ)』(1941/42年)といったあまり知られていない作品もある。これらの作品は非常に過激で、勘の鋭い観客にはこのプロパガンダがどのような帰結を生むか容易に察しがつくものであったが、作品内には間近に迫る大量殺戮を明確に示唆するものは見つからなかった。逆に、『テレージエンシュタット(ドイツ語版)』(1945年)では、映画監督はなおも政治的現実から目を逸らしていた。現実には、何百万ものユダヤ人がすでに追放、殺害されていたのである。ニュース映画向けに撮影されたものには、絶滅収容所へ移送直前のワルシャワ・ゲットー住民の言語に絶する生活状況を映したものがあったが、公開は差し止められた。
ナチのイデオロギーにおける暗いコンセプトには、他にゲルマン崇拝、血と土のモティーフといったものがあるが、映画に結実したのは、ほとんどノンフィクションの分野で占められていた。例としてはハンス・シュプリンガー(Hanns Springer)の映画叙事詩『永遠の森(ドイツ語版)』(1936年)がある。 同じことは、海外の植民地主義、または旧ドイツ植民地(1880年代から1918年まで)といった非常に感情的なテーマにも該当する。劇映画ではわずかな作品(『ドイツ領東アフリカの騎兵隊(ドイツ語版)』1934年、『世界に告ぐ』1941年)のみが制作されたが、文化映画は多く、例えば『我らのカメルーン(Unser Kamerun)』1936年/37年、『アフリカへの憧憬(Sehnsucht nach Afrika)』(1938年)があった。
恋愛映画や結婚映画が映画のジャンルのスケールで女性の極であるとすれば、男性的な極はアクションが前面に押し出されるジャンルにある。ナチ劇映画の333作品(27.6%)は、冒険映画、犯罪映画、戦争映画、スパイ映画、またはセンセーション映画である。このグループのプロパガンダ映画は75作品に上り、割合は非常に高い。主に男性の観客を対象に制作された劇映画という括りで見ると、ほぼ4分の1に達する。最も比重が大きいのは戦争映画とスパイ映画である。犯罪映画は、個別に見るとプロパガンダを目的としたものがあり(例えば『国民の名において (Im Namen des Volkes)』、1939年)、こういった映画では犯罪の原因を犯人の置かれた社会的状況よりもその持って生まれた素質に求めるのが原則であった。しかし、こういった作劇法はナチ映画に特有のものではなく、ファシズム以前、または戦後期の犯罪映画でも同様であった。冒険映画、センセーション映画においてはプロパガンダ映画の割合が最も低い。こういった映画はそもそも現実逃避的なモーメントが基調にあるからである。これらのジャンルの映画で主人公を務めたハンス・アルバース、 ハリー・ピール(ドイツ語版)、ルイス・トレンカー(ドイツ語版)は、ナチ映画で人気の男性スターに数えられている。
娯楽映画で4番目に大きなグループは郷土映画(ドイツ語版)であるが、このジャンルは目新しいものではない。なぜなら1950年代には1,400万人以上もの追放者がいたという現実が、感情的な意義を与えているからである。ナチ劇映画の179作品(14.8%)は山岳または村落を舞台としたものであり、古典的な郷土映画『Der Jäger von Fall (ファルの狩人)』(1936年)、『Der Edelweißkönig (エーデルワイス王)』、『Geierwally(ハゲタカのヴァリー)』(1940年)といった作品が挙げられる。これらの映画の約90%にはあからさまなプロパガンダは含まれていない。
劇映画は、新作の流行歌(シュラーガー音楽)の広告としてよく利用された。レアンダーだけでなく、他の人気映画俳優のハンス・アルバース、マリカ・レック(ドイツ語版)、ヨハネス・ヘースタース、イルゼ・ヴェルナー(ドイツ語版)、またハインツ・リューマンさえもレコード業界で過去最高の売上を達成した。映画スターは、映画よりレコードからの収入が多いことが多かった。流行歌のいくつかは「Ich weiß, es wird einmal ein Wunder gescheh’n(仮訳:奇跡は起きるもの」)」や「Davon geht die Welt nicht unter(仮訳:世界が終わるわけじゃない)」(いずれもレアンダーが1942年の『大いなる愛(ドイツ語版)』で歌ったもの)は、ある目的をもって流布された。そのセンチメンタルな意味の他に、政治的なサブテキストを隠し持ち、ナチの耐久政策のスローガンとして利用するためであった。映画スターたちは、映画やレコードだけでなく、大ドイツ放送(ドイツ語版)のラジオ番組でも、日々の暮らしの至る所に存在した。1936年からベルリン圏内で定期番組を放送していたパウル・ニプコウのテレビ局(ドイツ語版)の番組でさえ、映画と映画スターは確固たる地位を築いていた。さらにメディアの総合利用では、アーティストの絵葉書(ドイツ語版)、タバコに添付され大人気を博したコレクションカード、また多くの世帯で日刊紙に取って代わって購読されていた日刊の写真付き映画雑誌『イルストリールター・フィルムクリーア(ドイツ語版)』にまで広がっていた。いかにナチ映画が他のメディアと一体化していたかについては、例えばヒット映画『希望音楽会(ドイツ語版)』に見ることができる。物語は、実際に戦時中に毎週放送されたベルリンで行われる流行歌催事を中心としていた。
政治的な区分ができない、または以前の作品がナチのイメージから逸脱していたとはいえ、芸術、商業の面でともに非常に成功した監督の多くは、映画での「忠誠告白」が求められた。監督は、あらゆる点でナチのイデオロギーに合致する映画を演出するよう要求され、またはこういった映画をつくるよう、それとなくではあるが、明白に示唆を受けた。監督が「任務」を果たせば、当面の間、ドイツで活動を続けることができた。拒否すればキャリアに終止符が打たれ、多くは前線に送られた。ヴェルナー・ホーホバウム(ドイツ語版)は『三人の伍長(ドイツ語版)』で兵士としての義務遂行の賛美歌を演出するよう求められていたが、作品には批判的な低音が通底していたためである。ペーター・ペヴァース(ドイツ語版)もこの運命をたどった。カール・ユングハウス(ドイツ語版)もまた他のやり方で「政治的に忠実な」映画の制作を拒んだ。『Altes Herz geht auf die Reise(老教授の旅)』(1938年)の提出時に、ナチは宣伝担当者を彼のもとに寄こし、相応に脚本を改訂した後、ユングハウスに撮影許可が与えられた。それにもかかわらず、ユングハウスは当初の脚本に沿って制作するという挙に出た。これは内部での試写でさえも明らかになった。彼はその後すぐにスイス経由でアメリカに逃亡した。ナチとの協力を望まない映画制作者の最後の手段は、映画活動の中止、または制限であったが、そのためには、多くは地下への潜伏が必要であった。軍務から逃れるためとはいえ、もちろん困難で危険な方法であった。著名な衣装デザイナー、ゲルダゴ(ドイツ語版)はナチから逃れることに成功した。
Gerd Albrecht: Nationalsozialistische Filmpolitik. Eine soziologische Untersuchung über die Spielfilme des Dritten Reichs. Enke, Stuttgart 1969.
Wolfgang Becker: Film und Herrschaft. Organisationsprinzipien und Organisationsstrukturen der nationalsozialistischen Filmpropaganda. Volker Spiess, Berlin 1973, ISBN 3-920889-05-3 (Zur politischen Ökonomie des NS-Films 1), (zugleich: Münster, Univ., Diss. 1970).
Francis Courtade, Pierre Cadars: Geschichte des Films im Dritten Reich. Hanser, München 1975, ISBN 3-446-12064-5.
Thomas Hanna-Daoud: Die NSDAP und der Film bis zur Machtergreifung. Böhlau, Köln 1996, ISBN 3-412-11295-X (Medien in Geschichte und Gegenwart, 4).
Bogusław Drewniak: Der deutsche Film 1938–1945. Ein Gesamtüberblick. Droste, Düsseldorf 1987, ISBN 3-7700-0731-X.
Bernd Kleinhans: Ein Volk, ein Reich, ein Kino. Lichtspiel in der braunen Provinz. Papyrossa, Köln 2003, ISBN 3-89438-262-7 (Neue kleine Bibliothek 88).
Marcus Lange: Das politisierte Kino. Ideologische Selbstinszenierung im „Dritten Reich“ und der DDR. Tectum-Verlag, Marburg 2013, ISBN 978-3-8288-3264-0.
Ulrich Liebe: Verehrt, verfolgt, vergessen – Schauspieler als Naziopfer. Mit Audio CD. Beltz, Berlin u. a. 2005, ISBN 978-3407221681. (Ersterscheinen ohne CD 1992)
Felix Moeller: Der Filmminister. Goebbels und der Film im Dritten Reich. Henschel, Berlin 1998, ISBN 3-89487-298-5.
Constanze Quanz: Der Film als Propagandainstrument Joseph Goebbels’. Teiresias, Köln 2000, ISBN 3-934305-12-1 (Filmwissenschaft, 6), (zugleich: Bamberg, Univ., Magisterarbeit, 1999).
Gerhard Stahr: Volksgemeinschaft vor der Leinwand? Der nationalsozialistische Film und sein Publikum. Theissen, Berlin 2001, ISBN 3-935223-00-5 (zugleich: Berlin, Freie Univ., Diss., 1998).
Jürgen Spiker: Film und Kapital. Der Weg der deutschen Filmwirtschaft zum nationalsozialistischen Einheitskonzern. Volker Spiess, Berlin 1975, ISBN 3-920889-04-5 (Zur politischen Ökonomie des NS-Films 2), (zugleich: Münster, Univ., Diss., 1972).
Jerzy Toeplitz(ドイツ語版): Geschichte des Films. Bände 2 bis 4: 1928–1933 / 1933–1939 / 1939–1945. Henschelverlag Kunst und Gesellschaft, Berlin (DDR) 1976, 1979 und 1982 (jeweils mehrere Auflagen).
David Welch: Propaganda and the German cinema 1933–1945. Tauris, London 2001, ISBN 1-86064-520-8 (Cinema and Society Series).
Joseph Wulf(ドイツ語版): Theater und Film im Dritten Reich. Eine Dokumentation. Rowohlt, Reinbek 1966 (Rororo #812-4).
^関連する章:Die nationalsozialistische Bildpolitik; WHY WE FIGHT! – Antifaschistische Gegenbilder; Deutschland nach dem Krieg, das Projekt der Reeducation(ドイツ語版); Die alliierte Filmpolitik; Personelle Kontinuitäten: Die gescheiterte Entnazifizierung der Filmbranche; 及びその後。図版多数。 Inhalt (PDF; 89 kB).