コミッサール指令(コミッサールしれい、英: Commissar Order, 独: Kommissarbefehl)とは、バルバロッサ作戦(独ソ戦の開始)直前の1941年6月6日にドイツ総統アドルフ・ヒトラーが発した指令であり、正式には「政治将校の取り扱いに関する指針」と呼ばれる。ソ連赤軍の捕虜のうち政治将校(コミッサール)を選別し、政治委員が自ら投降したり敵対行為を行っていなかった場合を除き、その場で処刑することを命じたものである。
指令によれば、「完全にボリシェヴィキ化している、あるいはボリシェヴィキのイデオロギーを積極的に広めようとする者」とみなしうる捕虜は、政治委員の肩書を持たなくとも同様に処刑するとされた[1]。
なお指令中の文言としては、「処分する」「処理する」「片づける」等を意味する動詞 erledigen が用いられた。この語句は文脈によっては「殺す」という意味も帯びるが、少なくとも本指令では射殺や殺害、死刑に処するといった直接的な表現は含まれていなかった(婉曲法)。
内容
ヒトラーは1941年3月に、三軍の司令官と陸軍高官との作戦会議で初めてこの指令を発した。彼は、ソ連との戦争は「イデオロギーと人種の違いによる戦争である」ゆえに「騎士道的な戦い方は不可能である」と主張し、さらに政治委員は「国家社会主義と真っ向から対立するイデオロギーの使者」であるから容赦なく「清算」されなければならない、と宣言した。
彼はこの処置が国際法違反であることをはっきりと認識していたにもかかわらず、指令を執行する兵士の罪を前もって免じていた。彼は、1899年及び1907年のハーグ陸戦条約はソ連が署名していないためこの戦争には適用されないと主張した[2]が、旧ロシア帝国はいずれにも署名しているためこの主張は誤りである。
指令の要旨は以下のとおりである。
政治委員の取り扱いに関する指針
ボルシェビズムとの戦いにおいて、敵が人道主義や国際法を順守するとは期待できない。特に我が軍から敵の捕虜となった者は、あらゆる種類の政治委員から憎悪に満ちた、残酷で非人道的な取り扱いを受けることになるであろう。
兵士諸君は以下のことを認識しなければならない。
1. この戦いでは、上記の諸分子に対する慈悲あるいは国際法の斟酌は誤りである。それらは我々自身の安全と、占領地域の迅速な平定に対する危険を意味する。
2. 野蛮でアジア的な戦闘方法の起源は政治委員にある。したがって、彼らに対し即時かつ断固として容赦ない措置を行わなければならない。ゆえに、政治委員を捕虜とした場合は、常に武器をもって処分するものとする。
3. 敵軍の構成員たる政治委員は、金色のハンマーと鎌が織り込まれた赤い星の特別なバッジを袖に着用していることで識別できる。(中略)
政治委員は直ちに、すなわちまだ戦場にあるうちから他の捕虜と引き離すべきである。これは彼らが捕虜に何らかの影響を及ぼす可能性を排除するために必要な処置である。政治委員たちは軍人として扱うべきではなく、戦争捕虜に対する国際法の下での保護は彼らには適用されない。政治委員を引き離し終えたら、彼らを処分するものとする。
4. 我が軍に投降した政治委員は、『バルバロッサ作戦地域における裁判権行使に関する布告』にもとづいて取り扱うものとする。これは、抵抗・サボタージュ・謀議の疑いがある場合を含めて、全ての種類と職制の政治委員に適用される。(後略)
5. 政治委員自身が何らの敵対行為の罪も犯していない、またその疑いがある場合には、当面害を加えないものとする。残った委員をそのままにしておくか、それとも囚人部隊に引き渡すかは、ソ連領土への侵攻がさらに進んでから初めて決定できるだろう。囚人部隊に評価を行なわせることが望ましい。「有罪か無罪か」の問題について判断する場合は根本的に、当該政治委員の心証や態度を、おそらく証明不可能であろう犯罪の構成要件よりも高くとらえるべきである。
6. 報告書式について(略)
7. 政治委員が後方地域において疑わしい行動を取って拘束された場合には、身柄を保安警察 (SD) のアインザッツグルッペないしアインザッツコマンドに引き渡すものとする。
8. 上記の諸措置を実行するにあたり、連隊等指揮官の軍律審判ないし臨時軍法会議は行われないものとする。
国防軍の反応
コミッサール指令の最初の原案は、オイゲン・ミュラー(ドイツ語版)将軍が1941年5月6日に作成したものであり、政治委員がドイツ国内の捕虜収容所に入ることがないよう、全員射殺せよというものであった[3]。
ドイツの首脳部は、1917年の後半から18年の初めにかけてドイツ国内の捕虜収容所に送られてきたソビエトの政治委員が、18年11月の革命の一因になったと考えており、この誤りを1941年の首脳部は避ける決意で政治委員を処刑することにした。ドイツの歴史家ハンス=アドルフ・ヤコブセン(ドイツ語版)は、「ドイツ軍の指揮官たちがこの指令が故意に国際法を犯していることを認識していたのは間違いない。そのことは異例の少部数しか配布されなかったコミッサール指令の写しに明記してあったのだから」と述べている[3]。
ミュラーの文書中、陸軍指揮官たちによる「行き過ぎ」を予防する段落は、国防軍最高司令部の要求でいったん削除された。ブラウヒッチュ将軍は5月24日にミュラーの段落を加える修正を行ない、指令の遂行にあたって規律を順守するよう軍に求めた。指令の最終版は6月6日に最高司令部から出されたが、文書の伝達範囲は軍司令官級の最高位の指揮官に制限され、それ以降への通知は口頭で行うよう指示された[4]。
コミッサール指令のもとで無数の処刑が行われたとされる。ただしドイツの歴史家ユルゲン・フェルスターは1989年にそれは事実ではないと書いた。ほとんどのドイツ軍指揮官がその回想録に、指令は実行されなかったと記している(またエルンスト・ノルテ(ドイツ語版)のような一部の歴史家は依然主張している)からである[5]。実際にはすべての将軍が指令を実行した。マンシュタイン将軍は部下に指令を伝え、部下がすべての政治委員を処刑したために、1949年にイギリスの法廷で有罪判決を受けた。マンシュタインは戦後、自分は指令を拒否し、実行することはなかったと嘘の主張を行っていた[6]。
1941年9月23日、数人の指揮官が赤軍の投降を促す手段の一つとして指令の緩和を要請していたのに対して、ヒトラーは「政治委員の取り扱いについて言及している現行の指令に対するどんな変更も」拒否した[7]。コミッサール指令が赤軍内に知れ渡ると、士気が高まるとともにドイツ軍に対する投降は延期または禁止された[8]。この悪影響はクラウス・フォン・シュタウフェンベルクなどドイツ軍内部からヒトラーへの要請の中でも指摘され、約1年後の1942年5月6日に指令は撤回された[9]。
にもかかわらず、ドイツ降伏後のニュルンベルク裁判ではコミッサール指令について、将軍たちはヒトラーの命令が違法であると知っていてもそれに従う義務があったのかという広い観点から大きな争点となった。
関連項目
脚注
- ^ Soviet Prisoners of War: Forgotten Nazi Victims of World War II
- ^ William Shirer, The Rise and Fall of the Third Reich (Touchstone Edition) (New York: Simon & Schuster, 1990)
- ^ a b Jacobesn, Hans-Adolf "The Kommisssarbefehl and Mass Executions of Soviet Russian Prisoners of War" pages 505-536 from Anatomy of the SS State, Walter and Company: New York, 1968 pages 516-517
- ^ Jacobesn, Hans-Adolf "The Kommisssarbefehl and Mass Executions of Soviet Russian Prisoners of War" pages 505-536 from Anatomy of the SS State, Walter and Company: New York, 1968 page 519.
- ^ Förster, Jürgen "The Wehrmacht and the War of Extermination Against the Soviet Union" pages 494-520 from The Nazi Holocaust page 502
- ^ Smesler, Ronald & Davies, Edward The Myth of the Eastern Front, Cambridge: Cambridge University Press, 2007 page 97
- ^ Jacobesn, Hans-Adolf "The Kommisssarbefehl and Mass Executions of Soviet Russian Prisoners of War" pages 505-536 from Anatomy of the SS State, Walter and Company: New York, 1968 page 522
- ^ Holocaust Encyclopedia: Commisar Order
- ^ Jacobsen, Hans-Adolf "The Kommisssarbefehl and Mass Executions of Soviet Russian Prisoners of War" pages 505-536 from Anatomy of the SS State, Walter and Company: New York, 1968 page 512.
外部リンク
ドイツ語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。