石川 ひとみ(いしかわ ひとみ、1959年〈昭和34年〉9月20日[1] - )は、日本の歌手、声優。本名、山田ひとみ(旧姓石川)。愛称はひっちゃん[2][3]。血液型はB型。
来歴・人物
生い立ち
名古屋市西区生まれ[4]。伊勢湾台風が東海地方に上陸する直前に誕生し、騒々しく台風が通過する中もすやすやと眠っていた[3]。生まれたばかりの頃は無数のしわに低い鼻、目も小さかったので「少しでも目鼻立ちがぱっちりするように」との 祈りを込めて、ひとみと名付けられたという[2]。2歳の時に愛知県海部郡美和町に転居した[3]。
幼少期はおてんばで、七宝幼稚園に通うと近所の男児と田の中で大喧嘩して泥だらけで帰宅したこともあった。正則小学校の6年生でソフトボールに熱中してエースで4番を務めた。スポーツ以外は幼稚園頃からピアノを始め、小学生の頃に大流行していた「黒猫のタンゴ」のレコード[注 1]をかけながら自宅などで歌ったのがきっかけで音楽に目覚めた[4]。
小学6年生(当時)の1972年3月19日にCBCテレビののど自慢番組『どんぐり音楽会』で南沙織の「潮風のメロディ」を歌って準優勝し[注釈 1]、初めてTV番組に出演した[2][5][3]。美和中学校で軟式テニス部に所属してダブルスで前衛を務めた[2][3]。当時から目の瞳が大きくて愛らしく、男子生徒らから人気が高かった[3]。
名古屋短期大学付属高等学校に入学[2]。街中の広告で東京音楽学院名古屋校を知り、合格して高校1年生の1975年11月から通い始める[2]。しかしその後、十二指腸潰瘍で入院したり、月謝の値上げもあって両親から「お茶とかお花とか将来役立つことをしなさい」と言われるなどあり、だんだん行かなくなって、本人曰く「しぶしぶ」という形で半年ほどで辞めることになる[3][6]。その後は、多くの生徒と同じくエスカレーター式に付属の短大に進むつもりだったという[4]。
しかし、高校2年生の11月頃に渡辺プロダクションの新人歌手オーディションを勧められ、軽い気持ちで受けたところ合格[3]。そして名古屋に来たディレクターに勧められて出場した[3]フジテレビ系オーディション番組『君こそスターだ!』[注釈 2]でチャンピオンとなる。番組のオーディション1週目で岩崎宏美の「ドリーム」を歌うが、歌詞を間違えて「ごめんなさい」と叫び収録が中断された[3]。しかし「歌詞を間違えた出場者は君が初めてだよ」と逆に審査員に好感を持たれ[2][3]、その後『君こそスターだ!』では7週勝ち抜いてチャンピオンになった[6]。
この結果を受けた渡辺プロから「まだ歌手になれるかは分からないけどうちの新人班に所属してはどうか」と打診された[4]。上京になるため両親から反対されたが、「大学進学したと思って4年間だけ東京で頑張らせてほしい」と説得[4]。親の許可を得て渡辺プロに所属して活動することになり[6]、1978年3月、高校卒業の3日後に上京して渡辺プロの寮に入寮。同時期の入寮者に桑江知子、松原みきがいる[6]。寮生活では、休日に上記の2人に加えて先輩デュオのザ・リリーズなどとよく立川市でボウリングを楽しんだ[4]。
アイドルデビュー〜ブレイク
1978年5月25日に、キャニオン・レコードのNAVレコードから「右向け右」でアイドル歌手としてデビューすると、全国58大学で構成する全国ビューティ・オール学生協会から「'78マスコット・ガール」に選ばれるなど、デビュー当時から容姿と歌唱力が高く評価されて大学生を中心に大きく支持を得る。男性誌を中心に水着姿のグラビア撮影が多かったが、生後6日で体験した伊勢湾台風も影響して[7]水を恐れておりデビュー前は水着を1着も持っていなかった。
1979年から1982年までNHKの人形劇『プリンプリン物語』で声優として主役のプリンセス・プリンプリンの声を担当し[8]、同局の歌番組『レッツゴーヤング』では太川陽介と司会を務めた。
両親と約束した4年間の"タイムリミット"となった1981年、それまでヒット曲に恵まれず「中途半端なままで活動を続けたくない」という意志からこれを最後の曲として歌手をやめるつもりだった[8][6]11枚目のシングル「まちぶせ」が好評で販売枚数も多く、キャンペーンで全国を巡りながら「歌の楽しさを思い出して、辞めるのはやめようと思った」[8]。「まちぶせ」は長期間ヒットチャートの上位にあり、次のシングル曲として予定されていた「にわか雨」の発売見通しが立たず、にわか雨の時期を過ぎたこともあり発売を見送り、代わりに「まちぶせ」と同じく三木聖子のカバー曲である「三枚の写真」を発売した。「にわか雨」は2年後の1983年6月21日に16枚目のシングルとして発売した。
1981年に『NHK紅白歌合戦』に初出場する。
ブレイク以降B型肝炎発病まで
1982年2月にN.S.P.の天野滋による「ひとりじめ」、5月に「君は輝いて天使にみえた」を発売し、ファンから評判が高かったものの販売枚数は多くなかった。
1982年に、NHK総合『あなたのメロディー』で、高校生の川越進が作詞作曲して石川が歌唱した「パープル ミステリー」が年間優秀曲に選ばれ、一部歌詞を改編して1983年2月にシングル「パープル ミステリー」として発売した。
1983年6月に「にわか雨」を発売。キャンペーンでミニFMステーションを模した「にわか放送局」を日本各地で開局し、その場で集めたリクエスト曲やアンケートを元に、DJを織り交ぜた新曲発表会やサイン会を催した。
1983年9月に「恋」を発売する。脱アイドルを模索し、テレビドラマに出演するほか、露出度が高いグラビア写真を雑誌『GORO』の衝撃館で発表した。その他、『写楽』や『プレイボーイ eyes』などでもセミヌードグラビアを公開し、1984年11月にヌード写真集「心変わり」を発売した。
1984年12月23日に立川WILLで行われたクリスマスライブで、「今まで、色々なことに挑戦してきたが、来年からは歌に全精力を傾けてゆく」と述べた。
1985年5月に「夢回帰線」を発売して、ナリス化粧品のコマーシャルソングに使用された。
1986年4月に「秘密の森」を発売、キャニオン・レコード / NAVレコードからのラストシングルとなった。
1987年(27歳)に初めてのミュージカル「はだかの王様」で主演するも、公演まで1週間を切ったリハーサル中にひどいめまいに襲われた[4]。病院で診察を受けるとめまいとは別に、B型肝炎を発症していることが偶然判明し、急遽入院することになった[注釈 3]。スタッフとして石川を支えていた山田直毅は、発病前と変わらずに接して精神的に支えた。
休業から活動再開後
退院後に渡辺プロダクションと契約が破棄されて芸能界を退いたが、1988年に活動再開する。本人の場合、母子感染でB型肝炎のキャリアになったが、この頃から本人にとって病気への誤解と偏見による辛い日々が続いた[4]。最も辛かったのは、病気公表後からしばらくは街なかで握手を拒まれたり、通っていた水泳教室で「同じプールで泳いだりすると病気がうつるから教室を辞めて下さい」と言われたことだという[4]。
映画『男はつらいよ』の寅さんの大ファンで、友人の斉藤ゆう子と「柴又ツアー」と称して映画ロケ地の柴又界隈を廻った。1990年3月に、新聞の取材を受けるために訪れていたホテルのラウンジで、寅さん役の渥美清と遭遇する。色紙を持ち合わせず無地のレポート用紙にサインをもらい、現在も額縁に入れて大切に保存している[注 2]。この時、渥美からサイン入り写真との交換をリクエストされたため、偶然持っていた自身の写真をお返しとして渥美に渡した。
1993年(34歳)、ミュージシャンでデビュー以来バックバンドを務めていた、作・編曲家の山田直毅と結婚し、結婚式は挙げなかったがその代わりに夫婦でベルギー旅行に行った[4]。その後、1997年から2年間NHK教育『母と子のテレビタイム(日曜版)』に出演(ぬいぐるみのニャンちゅうと共演)するなど、ファミリー向け活動を展開している。
その後は一五一会によるCDアルバムをリリースしているほか、エイズや肝炎に関する講演活動も取り組んでおり、闘病記には『いっしょに泳ごうよ』(集英社)がある。
2023年8月23日放送の『徹子の部屋』(テレビ朝日)の番組内で、11年前から指定難病の1つであるシェーグレン症候群と闘っていることを明らかにした[9]。
近年の活動
2015年末から浅草のアミューズ・カフェ・シアターでアイドル時代のオリジナル曲を中心とするライブ活動を開始する。
デビュー40周年の2018年に、1983年の「プライベート」以来35年振りで9枚目のオリジナルアルバム「わたしの毎日」を発売し、7月にアルバム発売記念ライブ、10月に40周年記念コンサート、2019年2月に東京と名古屋で追加公演、をそれぞれ開催している。
2021年4月に自身初のライブ配信、5月に初のDVD作品「石川ひとみ LIVE わたしの毎日」を発売。
2022年3月にTOKYO FMホールでの有観客コンサートを収録した初のBlu-ray作品「石川ひとみコンサート2021」を発売。
デビュー45周年の2023年に、5年振り10枚目のオリジナルアルバム「笑顔の花」を発売、10月に「45周年記念コンサート〜笑顔の花〜」を開催、11月に2021年以来2回目となるビルボード公演を大阪と横浜で開催、翌2024年7月には東京・丸の内コットンクラブでの公演を開催。
ディスコグラフィ
シングル
オリジナルアルバム
- くるみ割り人形(1978年12月21日)
- ひとりぼっちのサーカス(1979年6月21日)
- ひとみ…(1980年2月21日)
- Inside/Outside(1980年10月21日)
- まちぶせ(1981年7月21日)
- 夢模様(1981年11月21日)
- ジュ・テーム(1982年6月21日)
- プライベート(1983年8月21日)
- わたしの毎日(2018年6月20日)
- 笑顔の花(2023年7月19日)
- 子供向け音楽
- ※1999年4月21日、ビクターエンタテインメントから発売。夫妻で制作したオリジナル曲で構成。
- 一五一会シリーズ
テイチクエンタテインメントのインペリアルレコードレーベルから発売。
- みんなの一五一会〜唱歌・童謡編(2004年5月21日)
- With みんなの一五一会〜フォークソング編(2005年9月21日)
- With みんなの一五一会〜RADIO DAYS(2006年6月21日)
- With 〜the best of 一五一会(2007年12月19日)
- ※セルフカバー集と、シリーズ3枚からのセレクションの2枚組。
- ゴールデン☆ベスト(2011年4月6日)
- ※4作品からのセレクションに未発売バージョン2曲を加えた2枚組。
ライブ・アルバム
- キャンパス ライブ(1983年1月21日)
- ※早稲田大学での学園祭ライブ(1982年11月7日)を収録。
カバー・アルバム
- THE REBORN SONGS〜すずらん〜(2013年5月29日)
タイアップ曲
石川ひとみがカバーした楽曲
- 1970年代
- 1980年代
- 1990年代以降
タイアップ曲(未商品化曲)
- ※1995年にみんなのうたで放送、日本コロムビアの『みんなのうた』の一部アルバムおよびオリジナルアルバム『―ただいま』、『ゴールデン☆ベスト』に収録
- ※1999年にJR東日本のトレン太くんラジオCMソングとして制作。懸賞用の非売品シングルのみ存在する。
- ※1982年にみんなのうたで放送、日本コロムビアの『みんなのうた』の一部アルバムに収録。
- ※2002年にみんなのうたで放送、日本コロムビアの『みんなのうた』の一部アルバムに収録。
カセット
- くるみ割り人形・右向け右 =わたしはひ・と・み=(1978年9月10日)
- HITOMI SONGS(1979年9月10日)
- 石川ひとみ・全曲集(1985年12月05日)
- 石川ひとみベストアルバム(1989年12月5日)
- 不思議少女・ナイルなトトメス(1991年2月1日)
- 元気あげるね(作詞:売野雅勇、作曲:本間勇輔、編曲:岩田雅之)
- ターミナル(作詞:木原麻希子、作曲:本間勇輔、編曲:岩田雅之)
ベストアルバム
- 石川ひとみ / プロフィール(1982年10月21日)
- 石川ひとみ / best Memories(1984年3月3日)
- 石川ひとみ / スーパーベスト(1986年11月21日)
- 石川ひとみ★BEST MYこれ!クション(2001年11月17日)
- 石川ひとみベストセレクション(2002年4月25日)
- 石川ひとみ SINGLES コンプリート(2007年8月17日)
- Myこれ!Liteシリーズ 石川ひとみ(2010年4月21日)
- ザ・プレミアムベスト 石川ひとみ(2012年11月21日)
- ゴールデン☆アイドル 石川ひとみ(2014年7月30日)
- 40th 石川ひとみアンソロジー(2018年3月21日)
CD-BOX
- 78-86 ぼくらのベスト 石川ひとみCD-BOX(2002年9月19日)
- 78-86 ぼくらのベスト2 石川ひとみCD-BOX(2004年1月7日)
映像作品
- Tenderly(1983年)
- Romancing Mystery 石川ひとみ -瞳の中の女たち-(1984年)※ ヌードを披露している。
- 石川ひとみ LIVE「わたしの毎日」(2021年5月19日)※ライブDVD
- 石川ひとみコンサート2021(2022年3月30日)※ライブ・ブルーレイ
- 石川ひとみコンサート2022(2023年7月19日、アルバム「笑顔の花」限定BOX)※ライブDVD
参加作品
- ※M-6「恋の稲刈り」
- トリビュートアルバム『ザ・ピーナッツ トリビュート・ソングス』(2016年9月7日)[10]
- 「ウナ・セラ・ディ東京」(岩崎宏美とデュエット)
出演作品
テレビ番組
テレビドラマ
人形劇
テレビアニメ
舞台
NHK紅白歌合戦出場歴
- 注意点
ラジオ
テレビCM
ラジオCM
WebCM
- ホソカワミクロン化粧品 ナノクリスフェア(2018年)
共演した歌手
書籍
著書
写真集
脚注
注釈
- ^ これより前に友達に誘われて同番組にグループで出場したが予選落ちしており、悔しく思ったことから一人で再度出場した[4]。
- ^ 本人によると、「番組出演に誘われた時に“テレビ出演したら学校で怒られると思うので”と当初お断りしたんです。でも『この番組は(石川の地元の)中京圏では放映されてないよ』と言われ、“じゃあ、いいかな”って(笑)。ただ、嘘をついて出るのは嫌だったので、高校の先生には事前にオーディションへの参加を伝えました。そうしたら、『頑張ってこい!』と背中を押してくださいました」と回想している[4]。
- ^ 本人は後年のインタビュー記事で、「当時周囲の方々に大きな御迷惑をおかけしたことを今(2023年)も心苦しく思っています」と謝罪の言葉を述べている[4]。
注
- ^ 本人にとって初めてお小遣いで買ったレコードでもある。
- ^ 石川の著書『いっしょに泳ごうよ』の記述によれば、渥美は石川の闘病についても知っており、励ましの言葉をかけてくれたという。
- ^ アグネス・チャンの同名曲のカバー。
- ^ a b 三木聖子の同名曲のカバー。
- ^ 西島三重子の同名曲のカバー。
- ^ 顔出しで出演し、エンディング「ハッピー・アドベンチャー」を歌唱した回もあり。
出典
関連項目
外部リンク