旗本退屈男(はたもとたいくつおとこ)は、小説家・佐々木味津三原作の時代小説および同作品に登場する主人公・早乙女主水之介()の異名。
概要
直参旗本・早乙女主水之介を主人公とする痛快時代小説。昭和4年(1929年)4月の「文芸倶楽部」に初登場し、以後11作が発表された。また、昭和初期のサイレント時代から昭和中期までに市川右太衛門主演で映画化された作品は計30本を数え、テレビドラマとしても何度もリメイクされている。
決め台詞は「退屈じゃ退屈じゃと、退屈まぎれに罷り越せばこの始末」、「ええい、この眉間の傷が目に入らぬか」などである。決め台詞が強烈だったため、お笑いにも使われ、西川のりおが早乙女主水之介をモチーフにしたギャグを持つ。
早乙女主水之介
“さおとめ もんどのすけ”と読む。人呼んで旗本退屈男。数え33歳。元禄時代に活躍した徳川将軍家の直参旗本で、無役ながら1200石の大身。本所割下水の屋敷に住む独身。他に使用人が7名同居。身長五尺六寸(約170cm)というから当時としては容貌魁偉な大男だった。剣術の達人で「諸羽流正眼崩し(もろはりゅう せいがん くずし)」という無敵の技を習得している。その他にも武芸十八般に通じ、軍学にも明るい。しかし太平の元禄の世にあっては自慢の技を振るう機会に恵まれず、「退屈で仕方ない」が口癖。
外出時は黒羽二重の着流し、蝋色鞘の平安城相模守(刀の銘)を落とし差しにし、素足に雪駄履き、深編笠がお馴染みの出で立ち[注釈 1]。
清廉潔白な性格で、権力の腐敗を憎み、相手が将軍でも直言を厭わない。一方で下々には慈悲深く、庶民とも気さくに交わるため、江戸っ子からは「退屈のお殿様」と呼ばれ親しまれている。
トレードマークは額に受けた三日月型の「天下御免の向こう傷」。これは長州藩の悪侍7人組と斬り合った時に受けた刀傷。小説では胆力と剣技、そして額の傷を「天下御免」としているが、映画では徳川将軍より天下御免の御墨付きを受けたという設定。またテレビドラマ版(北大路欣也主演)では、先代の将軍が次代を決めるにあたって真剣での勝負を催し、綱吉の代理人として立ち会った際に相手の代理人の片腕と引き替えに受けた傷ということになっている。
笹尾喜内
“ささお きない”と読む。早乙女家の側用人。
菊路
“きくじ”。主水之介の妹。
霧島京弥
“きりしま きょうや”。主水之介の弟分の旗本。菊路が惚れている。
映画
初の映画化は1930年(昭和5年)、市川右太衛門プロダクション主宰の俳優市川右太衛門が、原作小説を読んで気に入り、自ら主演作として制作した。以後33年にわたって演じ続け、これは日本映画で同一俳優が同一人物を主人公として演じた最長記録である[注釈 2]。
劇中の、左手前に刀を持った主水之介の必殺の構え「諸羽流正眼崩し」は、右太衛門が狭い室内での立ち回りを考慮して編み出したものである。戦後、作を重ねるごとに派手さがエスカレートしていった主水之介の衣装も、「派手な芝居に合わせよう」という右太衛門の意向によるものだった。東映作品では新作ごとに新しい着物を仕立て、主水之介一人の「天下御免の着流し」に衣装代の8割が使われていた[1]。
1930年の第1作『旗本退屈男』から1963年(昭和38年)の『謎の竜神岬』まで計30本が製作され、早乙女主水之介は一貫して市川右太衛門が演じ、彼の代表作となった。また次男の北大路欣也が霧島京弥役などで度々登場、親子共演が話題になった。
「禄は低けれど直参旗本」、「天下御免の向う傷!」などの決まり文句は、右太衛門独特の台詞廻しと相まって流行語化、その後のシリーズでも必ず出る名ゼリフとして定着した。
テレビドラマ
脚注
注釈
- ^ テレビドラマ版では色鮮やかな着流しを着ることが多く、笹尾喜内も主水之介のことを尋ねる際「派手な着物の侍」と表現している。
- ^ 次点は石坂浩二の金田一耕助(1976年~2006年)が続いているが、これはプログラムピクチャーシリーズというよりも連続製作された大作であり、第5作と最終作の間は27年空いている。大戦前後を除いてほぼ継続的に演じ続けた右太衛門の記録の大きさがうかがえる。しかも彼はシリーズ終了9年後にもテレビ映画シリーズでも演じている
出典
- ^ 『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)
- ^ 映画サイトの資料では監督名は「松田定次」のみ記してある物が多いが、映画本編のオープニングでは「萩原遼」のクレジットもあり
- ^ 「八百八町」ではなく「八百八丁」で正しい
外部リンク